【書評】我々は特別な存在か。宇宙的バランス感覚を養う一冊『生命の星の条件を探る』
生命の星、地球。都会のようなコンクリートジャングルにおいても雑草が茂り、アリたちが闊歩する。足下をふと見れば道路の片隅にコケが生育していて、そのコケの中にはクマムシがいる。朝晩の電車に乗り込めば、無数のホモ・サピエンスと接触する。生物はそこに居て当然。そんな風に私たちは感じてしまう。だが、地球以外の天体に由来する生命体は、現在までまだ見つかっていない。はたして、生命を育んでいる惑星は、この広い宇宙で地球だけなのだろうか。
生命体が棲息する環境がどのようなものかを考えるとき、もっとも参考になるのは、私たちを育んでいるこの地球の環境である。ある惑星が地球と同じような環境であれば、そこには生命体が居てもおかしくない。もちろん、地球型の生命体とはまったく異なるタイプの生命体も、宇宙のどこかにいるかもしれない。だが、そのような生命体はあくまで空想上の産物にすぎず、実際の探査や検出を行なおうにも、その手段がない。地球生命体という格好のお手本がここにある以上、同じタイプの生命体がいそうな環境を推定するのが合理的である。
生命が棲めるような環境範囲をハビタブル・ゾーンとよぶ。これは具体的には、「液体の水」が存在できる環境範囲のことである。液体の水がある星は、どのような条件を備えているのだろうか。これこそが、本書のテーマである。本書の著者である東京大学理学系研究科の阿部豊准教授は、なぜ地球が生命を培う惑星となったのかを、多角的な視点で検証している。地球の成り立ちにかかわる役者がリレーのように登場し、本書は一冊が壮大なミステリー小説の様相を呈している。
本書を通してわかるのは、我々が想像する以上に、地球が絶妙なバランスで成立してきたということだ。微惑星や原始惑星どうしの衝突を繰り返し、46億年前に地球ができあがったと考えられている。このときに地球が水を獲得できたことが、生命の惑星となるための最初のステップである。太陽からの距離も、地球表面の水が液体で存在できる範囲内に、ちょうどおさまっている。さらに、地球のサイズが適度に大きかったため、重力により大気をとどめておけたのも幸運だった。
太陽からの距離が同じだとしても、もし太陽が現在よりも大きすぎたり小さすぎたりすれば、太陽放射の強度が変化して地球上に液体の水が維持されなかったかもしれない。地球が小さすぎれば大気は宇宙空間へと逃げてゆき、温室効果が失われて凍てつく惑星となってしまうだろう。また、太陽系の他の惑星が今よりも大きければ、重力の影響で地球が太陽系からはじき飛ばされていた可能性もある。とてもではないが、生命が生まれるような惑星にはなっていなかった。
さらに意外なことに、地球上が水一面で覆われていても、生命にとって不都合な環境になるという。
二酸化炭素は温室効果ガスとして地表を暖める効果があるが、この二酸化炭素の循環もほどよい具合に保たれている。火山活動により地中内部から大気に放出される二酸化炭素と、大気中から炭酸塩に固定される二酸化炭素が釣り合っているのだ。地表を現在の気温に維持するのに重要な働きを担うのが大陸の存在であると、著者は主張する。もしも地球に陸地がなく、一面が海に覆われていたとしよう。大気中の二酸化炭素は陸地で炭酸塩に固定されるため、大陸がなければ地中から放出されて大気にとどまる二酸化炭素の量が増え、温室効果により気温は60〜80ºCになるかもしれないという。現存の微生物の中にはこのくらいの温度でも生きられるものもいるが、少なくともヒトが生きられるような環境ではない。
現在の地球は、この惑星の内外の奇跡的なバランスのもとに成立し、我々はおだやかな環境の恵みを享受できているのだ。だが、著者は地球を「奇跡の星」と呼びたくないという。たしかに、銀河系だけでも恒星が1000億個あると言われており、確率論でいえば生命を育む惑星が存在しないほうが不思議である。もっと言えば、知的生命体を宿す惑星だって存在しうる。ケプラー宇宙望遠鏡の活躍により、太陽系の外にある系外惑星の発見も相次いでいる。観測技術の発展により、実際に液体の水を有する惑星が近いうちに発見されるかもしれない。いや、その前に、木星の衛星エウロパや土星の衛星エンセラドゥスへの探査で生命体が見つかるのが早いだろうか。地球外生命体をめぐるロマンは尽きない。
ところで、この地球とて、いつまでも我々にとって都合のよい惑星であり続けることはできない。10億年後には太陽の温度が上昇し、地球への太陽放射が10〜15%増大することが予想されている。そうなれば地球上の温度はなんと1000ºCを超える高温になってしまう。太陽とのバランスが少し崩れることで、この生命の星もいずれは終焉を迎えるのである。こうして宇宙に思いを馳せながら読書を愉しみHONZにレビューを書けるのも、いまの地球がハビタブル・ゾーンにあるからこそ・・・。なんだか感慨深くなってしまった。いずれにしても、本書は宇宙的バランス感覚を養うのに絶好の一冊である。
人類による地球外生命体探索のこれまでを綴った良書。宇宙生物学者への取材も豊富になされており、臨場感が伝わってくる。
生命はなぜ生まれたのか―地球生物の起源の謎に迫る:高井 研 著
こちらは微生物学者による生命の起源についての考察。最近、この著者はエンセラドゥスへの探査も画策しているようだ。
※本記事は書評サイトHONZに寄稿したものです
多数の系外惑星はどのように認定されたか
Image Credit: NASA Ames
昨日こちらに書いたように、2016年5月10日(日本時間は11日)、NASAが「ケプラーによる最新の発見」についての記者発表があった。結果から言うと、ケプラーの観測によりアーカイブされていた太陽系外惑星候補(Kepler object of interest (KOI))のうち一気に1284個について「候補」が外れ、太陽系外惑星と認定された。
Briefing materials: 1,284 Newly Validated Kepler Planets: NASA
ここまで多くの系外惑星が認定されるとは、昨日の時点では私は考えていなかった。予想を超えた発表であった。
2009年の打ち上げ以降、これでケプラーが見つけた系外惑星は一気に2000を超えた。今回、なぜここまで多くの系外惑星が認定されたのか。これは、系外惑星候補から「候補」を外すプロセスの進展に起因している。
系外惑星が恒星の前を横切ると、恒星が減光する。もし恒星の減光期間が一定で、周期的に同程度の減光が観測されれば、その恒星の周りを惑星が回っていると推測できる(トランジット法)。
Image Credit: NASA Ames
ケプラーはこのような対象を系外惑星候補としてストックする。そのあとで、この系外惑星候補に対してフォローアップをする。地上から系外惑星候補を詳細分析し、これらが確かに系外惑星なのか、あるいは二つの恒星による連星などによる偽陽性なのかを検証する。この方法だとひとつひとつの系外惑星候補に対して長期的な分析が必要だった。
今回、プリンストン大学のTimothy氏は、プログラミング技術により自動解析法を構築し、多数の系外惑星候補を解析することを可能にした。新しいモデルはフォローアップなしでケプラーからのデータのみで候補が惑星かどうか判断する。これまでに確認されている系外惑星と偽陽性のトランジットパターンと、系外惑星候補のうちに惑星もどきが含まれる確率のデータをもとに構築されている。すべての惑星候補に対して偽陽性確率が0から1のあいだで当てられ、このうち偽陽性確率が1%未満のものを系外惑星として認定する。
この方法により、一気に多数の系外惑星候補の解析が可能となり、今回の発表となったわけだ。ちなみに、今回新たに用いられた手法の制度は、他の研究グループの先行研究によって用いられたフォローアップの手法のそれと大きくは変わらなかったと主張している。
Credits: NASA Ames/W. Stenzel; Princeton University/T. Morton
ケプラー以降の太陽系外惑星調査では、さらに多くの系外惑星候補がデータに入ってくると予想される。このとき、今回のような大量データを自動解析するシステムが威力を発揮するだろう。
さて、これまでに、液体の水が存在しうるハビタブルゾーンにある地球のサイズの2倍以下の系外惑星は12個が確認されていた。今回、この条件に当てはまる惑星が新たに9個も加えられ、合計で21個となった。
Credits: NASA Ames/N. Batalha and W. Stenzel
ところで、昨日、私が行った会見予想に、以下の一文がある。
おそらくですが、ハビタブルゾーンにある地球型惑星が複数見つかった、という内容かもしれません。
ということで、今回の予想はこれまでで一番苦戦したが、この部分については的中した。この調子で観測・解析が進めば、10年以内に地球とほぼ同条件の惑星が意外と近場で見つかる可能性もあるだろう。21世紀は宇宙生物学が隆盛を極めそうだ。
【参考書籍】
※本記事は有料メルマガ「むしマガ」339号「ケプラーによる多数の系外惑星はどのように認定されたか」からの抜粋です。
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【関連記事】
昨晩のNASA重大発表の解説:1284個の系外惑星が一度に「発見」される!:小野雅裕のブログ
NASA's Kepler Mission Announces Largest Collection of Planets Ever Discovered: NASA
NASAの「ケプラーによる最新の発見」を予想する
Image Credit: NASA
2016年5月10日(日本時間は11日)、NASAが「ケプラーによる最新の発見」について記者発表します。
NASA to Announce Latest Kepler Discoveries During Media Teleconference: NASA
このようなアナウンスが出ると予想してみたくなるのがクマムシ博士です。近年は二回連続でNASAの会見内容を的中させています。
今回、記者会見で発表される内容は、ケプラーによる新発見とのこと。ケプラーが、どのような発見をしたのか。ついに地球外生命体、それも宇宙人でも見つけたというのか。はたまたクマムシでも見つけたのか。
残念ながら、それはありえません。ケプラーのスペックでは、生命体やその痕跡をつかむことは不可能だからです。今回の発表はまちがいなく、系外惑星についてのアナウンスとなるでしょう。
ケプラーはNASAが打ち上げた宇宙望遠鏡。そのミッションをざっくり言うと、太陽系外の地球型惑星を探索することです。私たち地球生命体は宇宙でぼっちな存在なのか。それとも、宇宙には自分たちと同じような仲間がいるのか。ケプラーのミッションは、この宇宙生物学の大きな命題に挑むために欠かせません。
ケプラーは、光度測定器により、太陽系外の恒星を観測します。もし系外惑星が恒星の前を横切れば、そのときに恒星が薄暗くなります。恒星が暗くなる期間が一定で、さらに、周期的に同程度の輝度の低下が見られれば、その恒星の周りを惑星が回っていると推測できます。このような方法をトランジット法とよびます。
Image Credit: NASA Ames
ケプラーのおかげで、これまでに太陽系外惑星が次々と発見されてきました。液体の水が存在しうるハビタブルゾーンにある地球型惑星も次々と見つかっています。天文学や宇宙生物学におけるケプラーの貢献は計り知れません。
それでは毎度恒例ですが、今回の記者発表内容を予測するにあたり、記者会見に登場するメンバーの専門分野を最大公約数的に絞り込みました。記者会見に登場するメンバーは以下の通り。
1. Paul Hertz(NASA本部の宇宙物理学部門ディレクター)
2. Charlie Sobeck(NASA Ames Research Centerのケプラーミッション・マネージャー)
3. Natalie Batalha(NASA Ames Research Centerのケプラーミッション・サイエンティスト)
4. Timothy Morton(Princeton Universityのアソシエイト・リサーチ・スカラー)
ここで、1.のHertzさんはNASA本部の偉い人なので、今回の研究内容には直接関係ありません。2.のSobeckさんはケプラーミッションを統括するやはり偉い人なので、この方の身辺を掘り起こしても研究内容と直接関係のあるファクツは見つかりそうにありません。
今回の会見発表内容に実質的にかかわっていそうなのは、3.のBatalhaさんと4.のMortonさんだと思われます。Batalhaさんは、ケプラーミッションで2011年にはじめて太陽系外の地球型惑星(Kepler-10b)を見つけた、この道のエキスパートです。Mortonさんは、ケプラーが取得したデータを解析するスペシャリストのようです。
さて、この二人の情報をさらに集めて今回の発表内容を予測しました。が、今回は特異的な情報をあまり得られなかったため、あまり予想を絞りこめませんでした。おそらくですが、ハビタブルゾーンにある地球型惑星が複数見つかった、という内容かもしれません。これが一つ目の可能性。個人的な希望的観測を含めれば、「これまでにもっとも生命が存在しうる条件の星が見つかった」という発表だと嬉しいのですが。
「今回、NASAが事前にアナウンスをして記者発表するのだから、きっと重大な発表に違いない」。そう思いたいのもやまやまですが、実際には、とりたてて騒ぐような発見ではないかもしれません。記者会見のアナウンスにも「重大な発見」とは書かれていませんしね。
さて、会見発表内容の二つ目の可能性として、昨年の「イメージダウン」を払拭するためのものが考えられます。
2015年、フランスやポルトガルの研究グループが、「ケプラーが発見した大惑星(Giant Planet)のうちの半数は実在しないだろう」とする研究発表を行いました。
Kepler’s Giant Exoplanet Candidates — Real or Not Real? : Sky and Telescope
彼らはケプラーにより選定された系外惑星候補を地上から観測・解析したところ、多数の偽陽性が見つかったと報告しています。とくに、恒星から近距離に位置する木星型惑星(ホット・ジュピター)を含む大惑星の半数は偽陽性であると主張。これに対し、今回の記者発表に出席するBatalhaさんとMortonさんは「ケプラーは系外惑星の見落としがないように”甘めに”候補を選定している」と反論しています。また、「大惑星ではないサイズの惑星についての偽陽性の頻度はそれほど高くない」とも主張しています。
この反論はもっともに聞こえます。ただ、パブリックイメージを気にするNASAは、このちょっとした騒動でついたマイナスイメージを挽回する目的もあり、今回の会見を開くのかもしれません。つまり、会見内容の二つ目の可能性として、「ケプラーにより選定された系外惑星候補には真の惑星の割合が高い。偽陽性はあいつらが言うほど多くなんかない」というものが挙げられます。今回のキーパーソンであるMortonさんのウェブにも、「系外惑星候補から「候補」を外す解析をしている」と書いてありますし、こちらの可能性はそれなりにありそうです。
ということで、今回のNASA会見予想でした。ちょっと穿った見方も入ってしまいましたが、実際の会見を楽しみに待ちたいと思います。
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※本記事は有料メルマガ「むしマガ」338号「NASAの「ケプラーによる最新の発見」を予想する」からの抜粋です。
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英語教師に英語力は必要か
日本人は英語の話題が好きだ。どの媒体でもかならず、英語に関する話題を頻繁に目にする。個人的には英語についての議論はあまり興味がないのでスルーするのだが、さきほど目にしたこの記事に書かれていた教師の英語力について、少しだけ気になった。
この記事は、英語教師のTOEIC平均スコアがわかる情報を適切に引用していない。実際の中学校と高校の英語教師の英語力は、どの程度なのだろうか。ちょっと調べてみたところ、簡単に国の調査報告を見つけることができた。平成26年度の調査によると、TOEIC730点以上を取得している割合は中学校英語教師で28.8%、高校英語教師で55.4%となっている。
文部科学省「平成26年度 英語教育実施状況調査(中学校)の結果概要」より
文部科学省「平成26年度 英語教育実施状況調査(高等学校)の結果概要」より
このデータを見るかぎり、中学校と高校の英語教師の能力はじゅうぶんとは言い難い。
・英語教師に高い英語力は必要か
だが実際のところ、英語教師にそこまでの(たとえばTOEIC900点以上)の英語力は本当に必要なのだろうか。
学校教育の目的は、ものごとを論理的に考える能力を養うことである。いろいろな教科を通して、この目的を達成することが学校教育の基本だ。英語という教科においては「英語」というひとつの言語を通して、この論理的思考力を鍛えてゆく。逆にいえば、題材は何でもよく、たとえば中国語やスワヒリ語でもよい。日本語を母国語とする生徒が、あるひとつの外国語について、その構造を理解してゆく過程が大事だ。
学校の英語教育についての議論を眺めていると、「論理的思考力を養うこと」と「英語をペラペラに喋れるようにすること」を混同している場合が多くみられる。中学校と高校の6年にわたり英語を学んでも英語が話せるようにならない、というのは、きわめて当たり前のことなのである。学校の英語教育は英会話教室のそれとは別物だと認識しなければならない。
・実用英語の能力を高めるには
この現実を把握した上で、実用的な英語を使えるようになるにはどうしたらよいだろうか。これにはまず、大きな前提条件があることを認識しなければならない。それは当たり前のことだが、学習者自身に切実なモチベーションがなければ、英語を使えるようにはならないということだ。英語そのものが好き、英語圏の文化に尋常ならざる憧れがある、英語をどうしても使わざるをえない状況にある、どうしても外国人と仲良くなりたい。こういった動機がなければ英語を使えるようにならない。子供はとくにそうだろう。
私の場合は大学生まで上述のような動機がまったくなく、高校三年生の最後に実施された英語のテストでは100点中8点程度だった。私が教わっていた英語教師は、ネイティブスピーカーと何の問題もなくコミュニケーションできるレベルの英語力をもっていたにもかかわらず、である。その後、私はクマムシ研究の道に入り、英語の文献を読んだりアメリカで留学生活をすることになり、結果としてサバイバルレベルの実用英語が身に付いた。
ヨコヅナクマムシ
結局のところ、大事なのは本人のモチベーションなのである。中学校や高校で英語能力の高い教師を増やしたとしても、英語を使えるようになる子供はそこまで増えないだろう。
最後に、英語を使えるようにするために私が使用した基礎的な教材を紹介して、この記事を終えることにする。
まず、語彙について。これは例文がひじょうによくできているので、例文を暗記するとよい。
次に発音。発音記号を覚えると、スピーキングのみならず、リスニング力も確実に向上する。
これらが終わったら、まとまった文章をシャドーイングするとよい。
【関連記事】
クマムシの味を知る−−人類の偉大な飛躍
図0. 無数のドゥジャルダンヤマクマムシ。
1. はじめに
人類が構築してきた文明のなかでも、食文化は、もっとも重要なカテゴリーのひとつを占める。ヒトの摂食行為は、生命活動に必要なエネルギーを確保するためだけのものではない。摂食行為にかかわる味覚、嗅覚、視覚。摂食の過程でこれらの感覚が統合・抽出される。調理や盛り付けの方法が開発されてきた理由の一端として、人類が摂食行為を通した感覚刺激によって得られる快楽を求めてきたことが挙げられるだろう。
我々の豊かな食文化を支えるもっとも基本的なパーツは、食材である。摂食行為に快楽を求めてきた人類は、多数の食材を開拓してきた。人類にとって未知の材料を新たな食材レパートリーに追加することは、食文化の土台を水平方向に伸長させ、食文化の総ボリュームを拡張する(図1)。
図1. 食材のレパートリーは食文化を形成する基盤である。
すなわち、未知の食材の開拓は、食文化構築という人類の共同作業において、もっとも重要な役割を担う作業である。
クマムシは緩歩動物門に属する無脊椎動物であり、乾燥などの極限環境に対して高い耐性をもつことで知られる(図2)(資料1)。
図2. クマムシの一種、ドゥジャルダンヤマクマムシ。(Photo: Kazuharu Arakawa)
1773年に初めてクマムシの存在が記録されて以来(資料2)、人類が本生物を実食した報告はまだない。
クマムシは現在までに1200種以上が知られているが、どの種も体長は1mm以下でありる。本生物の味を知覚するためには、きわめて多数のクマムシを一度に食する必要がある。クマムシの大規模飼育は難しく、本生物のテイストを知覚するための高い障壁となっていた。だが、イギリスのSciento社がクマムシの一種であるドゥジャルダンヤマクマムシの飼育系を確立した(資料3)。さらに、慶応義塾大学クマムシ研究グループが本種の大規模飼育に成功し、今回の実食実験が可能となった(資料4)。
慶応義塾大学クマムシ研究グループとクマムシ研究所の共同プロジェクトである本研究は、クマムシの実食実験を遂行して本生物を新たな食材レパートリーに追加することで、人類の食文化を拡張させることを目的とする。
2. 方法
ドゥジャルダンヤマクマムシの飼育は慶応義塾大学クマムシ研究グループで行われた。生クロレラV-12(クロレラ工業株式会社)(資料6)を餌として添加した寒天培地上にクマムシを入れ、18ºCにて保温した。食材として使用する個体はいったんストックにするために乾燥した仮死状態である乾眠に移行させた。乾眠への移行には、相対湿度85%で48時間の乾燥処理を行った。合計でおよそ10万の乾眠個体を−20ºCにて保管した。
ドゥジャルダンヤマクマムシを活動状態に復帰させるため、実食実験の前日に乾眠個体に給水した。復活したドゥジャルダンヤマクマムシを顕微鏡で観察すると、体内にまだ餌と思われる緑色の内容物が確認された(図3)。
図3. ドゥジャルダンヤマクマムシの体内に確認できる緑色の内容物。(Photo: Daiki Horikawa)
体内に内容物がある状態では、実食を行っても正確なドゥジャルダンヤマクマムシのテイストを判別することはできない。そのため、内容物を排泄させるために、餌を含まない培地にて個体を20時間絶食させた(図4)。
図4. ドゥジャルダンヤマクマムシが入った、餌の無い培地。(Photo: Daiki Horikawa)
絶食後に観察したところ、個体内の内容物はほぼ見られなかった。
実食実験には、活動状態の個体のみを用いた。活動状態の個体は培地表面に張り付く習性を利用し、培地に蒸留水を入れて浮遊した死亡個体をすすぎ落とした。その後、培地表面を洗瓶を使用して蒸留水を噴射し、培地表面に残っていた活動状態の個体を、ガラスシャーレ内に移した(図5)。
図5. (上)ドゥジャルダンヤマクマムシが張り付いた培地。(中)培地表面を洗瓶を使用して蒸留水を噴射して個体を洗い流す。(下)培地を上半分だけ洗い流したため、この部分にドゥジャルダンヤマクマムシはいない。ドゥジャルダンヤマクマムシは培地の下半分にのみ残っている。(Photo: Daiki Horikawa and Nozomi Abe)
ガラスシャーレ内を顕微鏡で観察し、除去しきれなかった死亡個体と微小な不純物をガラスピペットで取り除き、活動状態の個体を新たなガラスシャーレに回収した(動画1, 図6)。
動画1. シャーレを回してクマムシを中心に集める。(Film: Daiki Horikawa)
図6. 活動状態の個体のみをガラスシャーレに集めた。(Photo: Daiki Horikawa)
その後、1.5mlエッペンドルフチューブに蒸留水とともに集めた。およそ8万個体の活動状態個体のボリュームは、0.1ml相当であった。ドゥジャルダンヤマクマムシの体色は半透明の白色だが、多数集まると黄土色を呈する(図7)。
図7. エッペンドルフチューブに回収したドゥジャルダンヤマクマムシ。
当初、ドゥジャルダンヤマクマムシを粉砕して"特別なスープ”とすることを考案していたが、破砕に使用する粉砕棒にクマムシの断片が付着することによるボリュームロスを回避するため、そのまま加熱した。加熱はヒートブロック内にて100ºCで30分間行った。加熱後は、ドゥジャルダンヤマクマムシの色やや濃くなったように見えた。
加熱したドゥジャルダンヤマクマムシをピペットマンにてチューブからスプーン(株式会社ファミリーマート製)に移行し、実食を行った(図8)。
図8. (上)ピペットマンでドゥジャルダンヤマクマムシを移行する。(下)スプーンに移行されたドゥジャルダンヤマクマムシ。(Photo: Nobuaki Kono and Daiki Horikawa)
実食は、生命科学研究者のジョゼフィーヌ・ガリポン博士が担当した。口腔内にてドゥジャルダンヤマクマムシをじゅうぶんに粉砕し、テイスティングを実施した。テイストの評価は甘味、苦味、塩味、酸味、そしてうま味の有無を判別することで行った。また、テイストの近い既知の食材の想起を試みた。
3. 結果と考察
本研究において用いたドゥジャルダンヤマクマムシの市場価格は1個体あたりおよそ14円である(資料6)。実食に用いた8万個体はおよそ112万円に相当し、1gあたりの価格はおよそ2,240万円となる。最高級食材といわれるトリュフは1gあたり1,000円強であり*1、ダイヤモンドでも600万円ほどである(資料7)。永遠の輝きを放つ宝石よりも高価な本生物は経口投与され、一瞬のうちにその姿が確認できなくなった(図9)。
図9. ガリポン博士の口腔内に消えゆく8万個体のドゥジャルダンヤマクマムシ。(Photo: Daiki Horikawa)
歯による本食材の咀嚼は効果的ではなかったため、口腔内にて舌と上顎をこすり合わせることで本食材を粉砕した。経口投与からおよそ30秒後、味覚の分析結果を言語化することが可能になった(最初はガリポン博士の母語であるフランス語で報告が行われ、次に日本語で行われた)。
甘味、苦味、塩味、酸味、そしてうま味は感じず、似たテイストの既知の食材はの食材は想起されなかった。あえて形容するのであれば、”池”や"魚類を飼育している水槽内の水”の匂いから想像する味に近い(ただし、ガリポン博士は幼少期に池の水を飲んだことがあるかもしれない、と証言している)。この風味の知覚は、十数時間にわたり保持された。
”池の味"という形容は、第三者が理解できる形からは遠いものかもしれない。ただし、ドゥジャルダンヤマクマムシの本来の生息地は池である(資料3)。また、本種は実験室内でも淡水環境で飼育されている。今後、池などの淡水環境に生息する生物の実食実験を行うことで、ドゥジャルダンヤマクマムシに近いテイストを有する食材が見出され、”隠れた食材圏(Shadow Foodsphere)"におけるテイスト系統樹が描かれることが期待される。
慶応義塾大学クマムシ研究グループとクマムシ研究所による本研究によって、人類史上初となるクマムシの実食実験が行われたことにより本生物が食材レパートリーに加えられ、人類の食文化構築に寄与できた。ヒトのQOLを向上させる新規な生理活性物質がクマムシに含まれているかどうかは、今後、全代謝産物の網羅的解析(メタボローム)などで明らかになるかもしれない。現時点では、クマムシそのものをサステナブルに供給できる食材とするのは難しいが、仮に有用な生理活性物質がみい出されれば、化学的・生物学的に人工合成により、そのような物質を供給できるかもしれない。また、細胞培養系が確立されれば、将来的にはクマムシ細胞を使用した”人工肉”の開発も可能かもしれない。
1969年、アポロ11号により月面に人類で初めて降り立ったニール・アームストロングは"これは小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である"と言った。本研究による人類史上初となるクマムシ実食も、小さな一口であったが、人類にとっては偉大な飛躍であろう。食材としてのクマムシを活用するための研究活動はまだ始まったばかりであり、本分野の今後の隆盛を願うばかりである。
4. 謝辞
本研究のために犠牲となった多くのドゥジャルダンヤマクマムシたちに、哀悼と感謝の意を表する。
5. 参考資料
2. 鈴木忠. クマムシ?!―小さな怪物. 岩波 科学ライブラリー, 2006.
3. Gabriel WN et al., Developmental Biology, 312: 545–559, 2007.
4. 私たちが飼育しているクマムシたちをご紹介! | クマムシ観察日記 - Kumamushi Diary
5. Horikawa DD et al., Astrobiology, 8:549-556, 2008.
6. Sciento: Item Information - Hypsibius dujardini. Water Bear culture
7. Top most expensive substances | Sciencedump
6. 関連記事
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STAP細胞のルーツは芽胞様幹細胞(スポアライクステムセル)だった
小保方晴子氏が沈黙を破って執筆した『あの日』を読みました。公式の調査結果などと異なり、若山照彦教授が不正を行った張本人であるかのように書かれていました。このあたりの小保方氏の主張の正当性についてはあえて論じませんが、個人的に印象的だったのが、STAP細胞研究のルーツがやはり芽胞様幹細胞(本文中ではスポアライクステムセルと表記)の概念だったということです。
論文を読んだ私の結論は、本当にバカンティ先生の仮説通りにスポアライクステムセルが全身の組織に存在し、幹細胞として全組織の修復や維持のために機能しているなら、「現在、存在が確認されている成体幹細胞をスポアライクステムセルから生み出すことができるのではないか」ということと、「スポアライクステムセルは各組織に特異的な細胞になる前の幼弱な性質を保持しているのではないか」ということだった。
小保方晴子著『あの日』
ここでは、この芽胞様幹細胞について2年前に執筆した私のむしマガの記事を転載します。
★★★
ここでは、STAP細胞研究のルーツになったと思われる「芽胞様幹細胞」(spore-like cells)について興味をもったので、紹介します。芽胞様幹細胞とは小保方さんの恩師であるハーバード大教授のチャールズ・バカンティさんらが発見したしている、体内に存在する芽胞(胞子)のような幹細胞です。
芽胞というのはクマムシの乾眠と似たような状態と考えてもらって差し支えありません。厳密にはちょっと違いますけどね。ただ、冬に見られるような昆虫の休眠(hibernation)とは全く異なります。芽胞は代謝ゼロで高ストレス耐性をもつ「仮死状態モード」というイメージです。
さて、小保方さんがSTAP細胞論文発表時の記者会見で語っていた中で、とても印象に残ったコメントがありました。
「単細胞生物にストレスがかかると胞子になったりするように、(多細胞生物である)私たちの細胞も、ストレスがかかると何とかして生き延びようとするメカニズムが働くのではないか。そういうロマンを見ています」
ストレス耐性の高いクマムシを研究している僕やバクテリアの研究者なら、こういう発想はまだ理解できます。ただ、マウスなどのほ乳類を扱っている研究者の中で、このような考え方をする人はかなり稀でしょう。細胞にストレスをかけて細胞の初期化を起こそうとするアイディアも、きわめてユニークです。
そして、この小保方さんのアイディアのルーツを遡っていくと行き着くのが、「芽胞様幹細胞」という概念なのです。2001年、バカンティさんのグループはこの芽胞様幹細胞発見に関する論文を発表しています。
ちなみにこの論文の筆頭著者はバカンティさんの実弟のマーティン・P・バカンティさんです。
これまでに小保方さんやバカンティさんが各メディアに語っていたことを総合すると、小保方さんはバカンティさんの研究室でこの芽胞様幹細胞を単離する実験を繰り返し行っていたことが伺えます。そして、その研究の延長線上にSTAP細胞の研究があったようです。小保方さんの発言や考え方は、バカンティさんの生命科学観に大いに影響されていることが伺えます。
さて、この芽胞様幹細胞の論文を実際に読んでみて、僕はものすごい衝撃を受けました。STAP細胞以上の衝撃といっても過言ではありません。この細胞が実在すれば、ノーベル賞受賞に値するレベルの成果です。
本論文では、成体のほ乳類の体内から、きわめてストレス耐性が高い幹細胞が見つかったことを報告しています。ちなみに論文内では、驚くことにどの動物(および系統)を使ったかについての記述が無いので、ここでは何らかの「ほ乳類」として話を進めていきます。たぶん、マウスかラットだと思うんですが・・・。
さて、この芽胞様幹細胞には以下の特徴があります。
1. きわめて小さく、直径5ミクロン以下である(ヒト細胞は通常10ミクロン程度)。
2. 脳、皮膚、肝臓、筋肉、血液などあらゆる組織の中に存在する。
3. 各組織を構成する細胞に分化することができる。
4. 高温、低温、低酸素のストレスを受けても生き残る。
著者らは極細のガラス管を用いて各組織から細胞をとりわけて培養を試みたところ、極端に小さな細胞が存在することを確認しました。そして、培養開始から7~10日後には、この細胞がもともと存在した組織を構成する細胞に分化することを報告しています。肝臓から単離された細胞は幹細胞に、筋肉から単離されたものは肝細胞に、といった具合です。つまり、組織特異的に分化能が制限されているので、iPS細胞やSTAP細胞のように様々な種類の細胞に分化できる能力(多能性)をもつ細胞とは異なる可能性があります。
そして最も衝撃的なことは、85℃に30分間、あるいは-86℃に2ヶ月間さらされた後も、生き残り増殖したという部分です。この生き残った細胞も、培養していくと特定の種類の細胞に分化しました。著者らは、このストレス耐性の高さから、本細胞を「芽胞様(幹)細胞」と名付けたようです。
それにしても、よくこんなストレスをかける実験を思いついたものです。この発想自体がバカンティさんのユニークさを顕著に表していると思います。
確かに、クマムシなどは乾眠状態に入ると高温に耐えられます。とはいえ、それは乾燥することで初めて獲得できる能力です。体に含んだ通常状態のクマムシは、50℃ですらあっけなく死んでしまいます。また、一部の細菌や藻類は水を含んだ状態でも高温に耐えられます。しかし、これはその温度がかれらにとっての最適温度なので、我慢しているのではなく、心地よい状態にいるわけです。これらの生物を逆に常温など低い温度に移すと、増殖しなくなってしまいます。
芽胞様幹細胞はほ乳類の体内に存在することから、水を含んでいるはずです。生きた動物細胞が80℃以上の高温に耐えたとする報告例はありません。ほ乳類の体温が上述のような高温になったり低温になったりすることはないので、それらの環境に適応するような自然選択がなされることは考えられません。あくまでも理屈では、ですが。ということで、かなり不思議な研究論文だと感じました。
余談ですが、本論文の最後には「ギリシャ神話に登場する不死鳥フェニックスは、火の中に飛び込み焼かれて死ぬことによって生まれ変わる」という記述があります。バカンティさんは「分化した細胞がストレスによって生まれ変わる(初期化する)」というアイディアを、この論文が発表された2001年の時点でもっていたのかもしれません。実際に、バカンティさんはBBCのインタビューにも「(STAP細胞を作ったことにより)2001年から自分が提唱したことが証明された」と語っています。また、STAP細胞と芽胞様幹細胞は(芽胞様細胞に多能性は確認されていないものの)同一のものと認識していると語っています。
ただし、当然と言えば当然ですが、研究者の多くは芽胞様幹細胞の存在についてはきわめて懐疑的な見方をしているようです。事実、この論文発表の後にこの細胞を確認した研究グループはありません。論文内でバカンティさんらは芽胞様幹細胞の培養に成功したことを記述しているので、この細胞株を他の研究者にも提供すればよいような気もしますが、何らかの理由(細胞が死滅したなど)で、それも難しいのでしょう。
そして、バカンティさんの研究グループですら、その後は芽胞様幹細胞を単離することがなかなかできずにいたようです。そんな中、小保方さんが研究室のメンバーとして加わり、ガラス管で細胞を採取する作業を通して、STAP細胞の研究に結びついたわけです。
※本記事は2014年2月28日発行のむしマガVol.228【STAP細胞研究のルーツ: 『芽胞様幹細胞』とは何か】の一部です。
追記:記事タイトルを変更しました。
クマムシが30年ぶりに覚醒
南極クマムシAcutuncus antarcticus。©Kazuharu Arakawa
南極で採取され、30年間保存されていたコケの中にいたクマムシが復活したことを報告した論文が出版された。これはクマムシにおける生存期間の最長記録。
この研究を主導したのは、国立極地研究所の辻本惠特任研究員。今回、辻本博士らは、南極のドローニング・モード・ランド地域にある昭和基地近くで1983年に採集されたのちに当研究所の冷凍室(−20ºC)で保管されていたコケを、3℃で24時間おいて融解。その後、水を張ったシャーレの中で24時間給水した。コケの中からは2匹のクマムシが伸びきっていない状態で見つかった(体が伸びきったクマムシはだいたい死んでいる)。この2匹とも、しばらくすると動き出した。この2匹を寒天培地に移し、餌としてクロレラ(クロレラ工業株式会社の生クロレラV12)を与えて飼育を試みたところ、このうちの1匹は卵を産んで子孫を残した。もう1匹は卵を産むことなく20日後に死亡。追記:コケの中には他にも体の伸びきったクマムシが何匹かいたが、死んだものとして追跡観察は数週間しても復活しなかったとのこと(辻本さんからの私信)。
さらにコケの中からはクマムシの卵も見つかり、給水後の6日目に孵化。孵化したクマムシもクロレラを食べて成長し、子孫を残した。このように、長期間の保存のあとにクマムシの繁殖能力が維持されていたことを報告されたのは、本研究報告が初めての例である。
子孫を残した2個体のクマムシはいずれもAcutuncus antarcticus。南極で見つかるクマムシとしてよく知られている種類だ。慶應義塾大学クマムシ研究グループでも、辻本博士から分与された本種を研究対象にしている。慶應の荒川さんが撮影したこの南極クマムシはこちら。
これまで、クマムシの最長生存記録は、乾燥状態(乾眠)のツメボソヤマクマムシ属Ramazzottius oberhauseriの卵のもので、9年間だった。ただし、これは室温で保存された場合の記録。クマムシは乾眠になると代謝が停止するため実質的な老化は起こらないとみなせるが、環境中の酸素により酸化が起こるために生態にダメージが蓄積し、ある程度時間が経つと死んでしまうと考えられている。ただし、低温で保存すれば酸素分子による損傷を軽減できるため、理論的にはより長期間の生存が可能になると予想されていた。
今回報告されたクマムシが、コケの中で乾燥状態でいたのか水を含んだ凍結状態でいたのかは定かではないと著者らは書いている。ただ、コケ自体が湿っていたため、少なくともある一定以上の期間はクマムシは水を含んだ凍結状態でいたのだろう。クマムシは高い凍結耐性をもつものも多いのだ。クマムシのこの凍結モードはクリプトバイオシスのなかのクライオバイオシス(凍眠)というもの。
クマムシのクリプトバイオシスとその種類
クマムシのような動物でも数十年単位で生存できることが報告されたことで、より長期間にわたって永久凍土中などに生きたまま閉じ込められているクマムシがいる可能性も感じさせられます。クマムシのような高等生命体が火星、エウロパ、エンセラドゥスなどで眠っていたとしても、不思議には思わない。個人的には。
【参考書籍】
【関連記事】
※本記事は有料メルマガ「むしマガ」325号「クマムシが30年ぶりに覚醒」の一部です。
クマムシ博士のむしマガVol. 325【クマムシが30年ぶりに覚醒】
2016年1月10日発行
目次
【1. はじめに「クマムシが30年ぶりに覚醒」】
南極クマムシが30年の時を経て復活した。
【2. むしコラム「新産業で激変を強いられる街と人」」】
「クマムシに外来遺伝子17%」という報告の妥当性を探る。
【3. Q&A「クマムシ細胞は老化するのか」】
クマムシに見られる防御機構はクマムシの老化を抑えるのだろうか。
【4. おわりに「クマムシの味は」】
今年はクマムシの実食企画が浮上。クマムシを育てて食べるための計画を紹介。
【料金(税込)】 1ヵ月840円(初回購読時、1ヶ月間無料) 【 発行周期 】 毎週
クマムシ研究所を設立しました
このたび、クマムシ研究所を設立しました。
クマムシ研究所では所員とともにクマムシ研究を推進し、人類が共有する科学的知見の集積に貢献することを目標とします。原則として、会費(月額2000円(学生は500円))を払えば誰でも所員になれます。「研究所」と銘打っていますが、研究所の物質的な建物は今のところはありません。クマムシ研究所は、オンラインを主な場として活動するバーチャルな研究所です。具体的にはFacebookグループ上で所員たちとディスカッションを行い、オフラインで勉強会やお茶会を開きます。
ここでちょっと、クマムシ研究所設立の背景を。
もともとは、科学研究の世界におけるプロとアマチュアの境界は曖昧なものでした。グレゴール・ヨハン・メンデルや南方熊楠は大学や研究所に所属する研究者ではありませんでしたが、優れた研究業績を残しています。しかしながら、その後の科学研究の発展に伴い、未解明の謎の多くはハイテクを駆使しなければ解けないものとなりました。高価な機器や試薬を入手するには、大きな資本が必要です。必然的に科学研究の場は大学や研究所に限られ、在野の研究者は急速に姿を消していきました。
しかし、昨今のITの発展やDIY指向も相まり、再び在野研究者が活動するための材料が手に入るようになってきました。SNSなどを通じて科学クラスタも形成されやすくなり、ニコニコ学会や昆虫大学などのイベントも口コミで盛り上がるようになりました。むしマガでも中学生クマムシ博士がいつも熱心にクマムシ実験の結果を報告してくれるし、メルマガという媒体以外にも、クマムシ研究活動を遂行するためのより適した場のニーズも高まっていました。バーチャルな研究所を作るための動機がいくつも出てきたのです。
アメリカでは今、研究者と非研究者が一体となって研究を進めるオープンサイエンスのムーブメントが起きています。そこでは、オンラインとオフラインを組み合わせて研究を進めるスタイルが定着しつつあります。研究資金を一般人から集めるクラウドファンディング、研究活動をプロ・アマチュアの垣根を越えて共同で進めていくオンラインコラボレーションやバイオハッカー活動、などなど。科学研究が研究者の世界だけのものではなく、皆んなのものになる。つまり、現在進行形で科学研究の民主化が起きているわけです。
バイオハッカースペースBiocuriousの様子。写真提供:Eri Gentry
アカデミアもだんだんと基礎研究をやりづらい場所になってきているし、大学の外に研究の場を作ってもよいのではないか。ここ1〜2年、そんなことを考えていたました。そして、オンラインサロンプラットフォームの方からサロン開設のお話をいただき、クマムシ研究所の設立へと至ったのです。
このクマムシ研究所、どんな場所になるのかを改めて整理すると、以下のようになります。
・研究所単位および個人単位でのクマムシ研究プロジェクトの実施とサポート。
・科学ニュースに関する解説やコメント。研究所メンバーの投稿も大歓迎。
・進路、キャリアに関する相談。
・セミナー。研究進捗状況、ゲストを迎えてのトークなどもあり。
・クマムシ採集・観察会、飼育実習会の実施。
このように、研究活動から雑談までバラエティに富んだ内容になっています。研究プロジェクトについては、ゆくゆくは国際クマムシ学会での発表や、国際科学雑誌への論文掲載を目標とします。論文の著者にはクマムシ研究所の所員たちの名前が入り、もちろん所属先としてクマムシ研究所(Tardigrade Research Institute)も明記されます。考えただけでワクワクします。研究所は、研究活動だけでなく、いろんな意見が自由に飛び交う楽しい場にもしたいですね。
クマムシ研究所では第1期として、まず30名を募集しています。将来的に人数が増えてきたら、都内のどこかにリアル研究室を借り上げて、皆が集まってクマムシ実験を行えるような場になるといいなぁ・・・なんて考えています。
ぜひ、みんなでクマムシ研究所を育てていければと思っています。
【関連記事】
「クマムシに外来遺伝子17%」は真実か
いっけなーい😮乾眠乾眠💦 私ヨコヅナクマムシ!ちょっと最強の緩歩動物😳でもある時、別の弱いクマムシが細菌の遺伝子どっさり取り入れてる報告が出ちゃってもう大変😲しかもみんな信じちゃって!?😲一体私の立場、これからどうなっちゃうの〜!?😭次回「それはただのコンタミング♪」お楽しみに💞
— クマムシさん☆いきもにあ117G通り西5 (@kumamushisan) 2015, 12月 8
クマムシは緩歩動物門を成す動物群である。系統上は節足動物や有爪動物(カギムシ)に近いとされているが、まだこのあたりの議論は続いている。クマムシは高い乾燥耐性やその他の環境耐性をもつ。クマムシの系統上の位置や環境耐性メカニズムを知るためにも、本生物のDNAに書き込まれた遺伝情報を調べることは必須である。私たち日本のクマムシ研究グループは、クマムシのなかでも*1とくに高い耐性をもつ種類のヨコヅナクマムシのゲノム解析を進めてきた。
・ノースカロライナ大学の研究グループによる報告
そんな中、2015年11月23日にアメリカのノースカロライナ大学の研究グループがクマムシのゲノム解析に関する論文を発表した。
ノースカロライナ大の研究グループが用いたのは、ドゥジャルダンヤマクマムシという種類。このドゥジャルダンヤマクマムシ、もともとはイギリス・ボルトンの池の底から採集されたものだ*2。イギリスのScientoという会社は、このドゥジャルダンヤマクマムシの系統を通信販売している。本種は入手しやすく、緑藻類を与えることで容易く増やせる。
ドゥジャルダンヤマクマムシのゲノム解析結果は驚くものだった。このクマムシのDNA上にある全遺伝子38,145個のうち17.5%にあたる6,663個が他の生物に由来するものだったと結論づけていたのである。DNAは基本的に親から子へと受け継がれるが、他生物のDNAが入り込み定着することもある。他生物からの外来DNAが取り込まれることは水平伝播とよばれ、とくに珍しいことではない。今回の報告で驚いたのは、取り込まれたとされる外来遺伝子の割合である。動物ではゲノム中の外来遺伝子の割合はおおむね2%以下であり、これまでで最も高い割合で外来遺伝子をもつことが報告されていた、乾燥耐性をもつヒルガタワムシでも、9.6%だった*3。
ドゥジャルダンヤマクマムシが取り込んだとされる外来遺伝子のうち、9割は細菌に由来するもので、他には古細菌、植物、カビ、ウィルスに由来するものもあった。これを模式的に表すと、以下のようになる(図1)。クマムシのDNAの中に、細菌に由来するDNAが入り込んでいることがわかるだろう。
図1. ドゥジャルダンヤマクマムシのDNAに入り込んだ細菌DNA
これらの外来遺伝子の中にはDNA修復酵素や抗酸化にかかわる酵素をコードする遺伝子も含まれており、ドゥジャルダンヤマクマムシが他生物種から取り込んだこれらの遺伝子を使って環境耐性能力を高めているのではないか、と著者らは主張している。乾燥はDNA鎖切断や酸化を引き起こすため、これに対抗する手段として、外来遺伝子の産物であるこれらの酵素が役立っているかもしれない、というわけだ。さらに著者らは、ドゥジャルダンヤマクマムシが乾燥する際にDNA切断と修復が繰り返される過程で、外来DNAが取り込まれたのではないかと推測している。
・やや無理のある論理構成
私がこの論文を読んで、最初にこう思った。著者らの説明の仕方がやや誠実さに欠けているのではないか、と。
まず、上述したように、このドゥジャルダンヤマクマムシの系統は水辺に住んでいたものである。つまり、ほとんど乾燥しない環境に住んでいたわけで、乾燥による選択圧をうけにくい。実際に、ドゥジャルダンヤマクマムシの乾燥耐性はあまり高くなく、非常にゆっくりと乾燥させないと仮死状態(乾眠)に入れずに死んでしまう*4。本種の乾燥耐性やその他の耐性を調査し報告した論文も、まだない。
それにもかかわらず、著者らはあたかもドゥジャルダンヤマクマムシが一部のクマムシ種と同様に高い乾燥耐性や環境耐性をもっているかのように、論文上で議論している。クマムシの強さを説く上で引用している論文は、私たちのものも含めて耐性が高い他種のクマムシを研究したものである。世間一般、そして、クマムシが専門ではない生物学者が抱く「クマムシ=強い」というイメージを使い、あえて読者がミスリードするような論理展開をしたと思われかねない書き方なのである。
ちなみに著者らは、ヨコヅナクマムシの紫外線耐性を解析した私たちの論文を引用して「クマムシでは放射線でDNA二重鎖切断が起こる」とも書いてあるのだが、我々の論文ではそのようなことを示していない*5。私たちは紫外線照射でクマムシのDNA上にできたチミン二量体しか解析しておらず、DNA鎖が切断されたかどうかは解析していないので、ちょっと不適切な引用をしているのだ。
いずれにしても、ドゥジャルダンヤマクマムシは乾燥をあまり経験しないので、乾燥に起因したDNA切断とその修復によって外来DNAが頻繁に取り込まれることは考えにくい。本種は乾燥耐性が低いので、外来遺伝子が耐性を担保している、というのも無理のある論理である。
・ライバル研究グループからの反論
私自身は上述のような懐疑をもったが、国内外のゲノム研究の専門家からは、本論文で示されたデータそのものがお粗末であることが指摘され始めていた。そのような状況の中、ライバルのUKのエジンバラ大学の研究グループから反論が出された。審査つき論文ではなく、bioRxivという論文の仮置き場的サイトでの発表である。ノースカロライナ大の研究グループの論文が発表されてから1週間後のことだ。
エジンバラ大の研究グループは10年ほど前から、今回ゲノムが解析されたドゥジャルダンヤマクマムシの同じ系統を用いてゲノム解析を行なってきた。論文発表こそしていないものの、ドゥジャルダンヤマクマムシのゲノムデータベースをすでに公開していた。なお、ノースカロライナ大の研究グループが発表した論文には、エジンバラ大の研究グループが公開したデータベースについては触れていない。
エジンバラ大の研究グループによる解析では、全部で23,021個の遺伝子が予測された。これは、ノースカロライナ大の研究グループによる報告に比べて15,000個ほど少ない数である。さらに、このうち細菌に由来すると思われる遺伝子は496個だった。こちらも、先行論文で示された6,000個を超える遺伝子に比べて著しく低い数字だ。
また、エジンバラ大の研究グループはドゥジャルダンヤマクマムシのゲノムサイズ(DNA量)をDNA染色による方法*6とバイオインフォマティクス解析の二通りで調べたところ、DNAの塩基数はそれぞれ1.1億と1.35億と推定した。ノースカロライナ大の研究グループも同じ二通りのやり方でゲノムサイズを推定している。以前のDNA染色による方法で推定した塩基数は0.75億1.5億((((Gabriel et al. 2007. The tardigrade Hypsibius dujardini, a new model for studying the evolution of development. Dev. Bil. 312, 545–559. 75Mbはhaploidでのゲノムサイズだったので、diploidの数値に修正した。))))であり、今回のバイオインフォマティクス解析による推定塩基数は2.1億となっており、こちらの研究グループによるゲノムサイズの推定値は手法間で大きな開きがある。
これらの比較をもとに、エジンバラ大の研究グループは、ノースカロライナ大の研究グループが今回報告した「ドゥジャルダンクマムシに存在する多数の外来遺伝子」が、実験ミスで混入した細菌などに由来するものだと主張している。
・二つの研究グループの解析結果がなぜ異なるのか
このように、両研究グループのデータと主張は大きく異なる。これは、なぜだろうか。まず、クマムシの回収方法の違いが後のデータの不一致を生んでいることが考えられる。
ドゥジャルダンヤマクマムシは体長が0.3mmほどと小さく、1匹から得られるDNA量はきわめて少ない。よって、ゲノムDNAを解析するには、多数のクマムシをまとめて集めてすりつぶしてDNAを抽出する必要がある。このときにやっかいなのが、培地中で餌として与えている緑藻や、培地に湧いてきた細菌などが混入することだ*7。これらの混入を排除するためには、DNAを抽出する前にはクマムシを絶食させて消化管内の内容物を排泄するまで待ち、念入りに純水で洗浄するのが望ましい(抗生物質を使うのも一つの手)。エジンバラ大の研究グループはフィルターを使い、クマムシ以外の微生物を洗い流している。だが一方のノースカロライナ大の研究グループはフィルターを使っておらず、洗浄のやり方がきわめて甘い*8。これだと、細菌がわんさか混入してもおかしくない。
ノースカロライナ大の研究グループが推定した多数の他生物種由来の遺伝子数は、この混入によって説明がつきやすい。だが、なぜ、そもそも他生物の混入が起きたかどうかがわからなくなってしまうのだろうか。これは、ゲノム解析を行なう際のテクニカルな部分に原因がある。ゲノム解析を行なうとき、まず、ある生物から抽出したDNA鎖を短く切り刻んで断片化する。次に、これらの短いDNA断片を人工的に複製し、それぞれのDNA断片の塩基配列を読む。そのあとで、ジグゾーパズルを作るようにDNA断片どうしをコンピューター上でつなぎ合わせて再構成する。
この技術を使うと、たとえば今回のように、クマムシのDNAに細菌のDNAが入り込んでいるのか、あるいは、クマムシと一緒に細菌が混入した結果として別々のDNAが混ざっているのかが判別しづらくなる(図2と図3)。
図2. クマムシのDNAに細菌のDNAが入り込んでいる場合
図3. クマムシと細菌が混ざった場合
図2と図3で調整されたDNA断片を見ると、結果として似たようなDNA断片の構成になっているのがわかるだろう。
ノースカロライナ大の研究グループは、この図3のような細菌の混入がないかを一応チェックしている。同一のゲノム上にクマムシと他生物種のDNAが入っている(図1と図2のような場合)かを調べたのである*9。その結果、ランダムにピックアップした107個の外来遺伝子のうち、104個の遺伝子が同一ゲノム上に存在すると推定された。
だが、エジンバラ大の研究グループは、各遺伝子の塩基の組成の違いや、遺伝子が実際に使われている(発現している)かを調べた結果*10、ノースカロライナ大の研究グループによって示された6,000個以上の外来遺伝子のほとんどが細菌の混入によるものと結論づけた。
興味深いことに、エジンバラ大の研究グループは、上述のノースカロライナ大の研究グループが「ランダムに選んだ」107個のうちおよそ半分にあたる57個の遺伝子は、混入によるものではないと推定している。6,000個以上のたいはんの遺伝子が混入によるものと推定されたにもかかわらず、である。偶然にしては出来すぎた値ではないだろうか。
この他の両者のデータを比べても、エジンバラ大の研究グループのデータと主張のほうが理に適っているように思える*11。もちろん、それとて真実であるとは断言できないし、今後、別の研究グループによる解析も待たれるところだ。
最後に。この両研究グループは、どちらも基本的には進化発生学的な興味でクマムシの研究を行っており、クマムシがもつ高い耐性についての興味は二の次のようだ。だから、耐性はあまり高くないが、飼育が簡便でよく増えるドゥジャルダンヤマクマムシを使っているのだろう。その一方で、私を含めた日本のヨコヅナクマムシゲノムプロジェクトチームのメンバーは、クマムシの耐性への関心のほうが強い。地上最強ともいえるヨコヅナクマムシのゲノムからは、またひと味違った、面白い物語が語られるのではないかと期待している。
【参考書籍】
次世代シークエンサー―目的別アドバンストメソッド (細胞工学 別冊)
※本記事は有料メルマガ「むしマガ」321号「「クマムシに外来遺伝子17%」は真実か」の一部です。
クマムシ博士のむしマガVol. 321【「クマムシに外来遺伝子17%」は真実か】
2015年12月11日発行
目次
【1. はじめに】サイエンスZEROの収録が終わりました
リハーサルではうまくいかず。放送事故だけは避けたい・・・。
【2. むしコラム「「クマムシに外来遺伝子17%」は真実か」】
「クマムシに外来遺伝子17%」という報告の妥当性を探る。
【3. おわりに「いきもにあに参加します」】
これから京都に行ってきます。いきもにあのクマムシさんのお店で待っています。
【料金(税込)】 1ヵ月840円(初回購読時、1ヶ月間無料) 【 発行周期 】 毎週
*1:現在、クマムシの種類は1200種以上が知られている。
*2:Gabriel et al. 2007. The tardigrade Hypsibius dujardini, a new model for studying the evolution of development. Dev. Bil. 312, 545–559.
*3:Boschetti et al. 2012. Biochemical diversification through foreign gene expression in bdelloid rotifers. PLoS Genet 8(11):e1003035.
*4:ドゥジャルダンヤマクマムシの乾燥耐性については私自身が確認しており、ノースカロライナ大学の研究グループも学会発表で報告しているが、論文発表はまだない。
*5: Horikawa et al. 2013. Analysis of DNA repair and protection in the tardigrade Ramazzottius varieornatus and Hypsibius dujardini after exposure to UVC radiation. PLoS One, 8: e64793.
*6:フローサイトメトリーで測る方法のことを指している。
*7:ドゥジャルダンヤマクマムシやその他のクマムシでも、無菌飼育はまだ開発されていない。
*8:緑藻といっしょにしたシャーレに光を当てて負の走光性を利用してクマムシをビーカーに回収し、何度か水を入れ替えて洗浄している。最終的にはビーカーの底に溜まったクマムシを回収しており、これだと細菌などの混入がかなり起こりそう。
*9:Bridged PCR法により、scaffoldにおいてクマムシと他生物種由来の配列をまたぐ増幅をかけている。
*10:GC content、RNA-Seq、coverageなどのデータをもとに判断している。
*11:ノースカロライナ大の研究グループのデータによると、contigのN50が15.2kb、scaffoldのN50が15.9kb。それにもかかわらず、1Mbもの長いscaffoldも複数存在しており、そのすべてが細菌のデータにマッチしているという指摘もある。
サイエンスアゴラの「オープンサイエンス革命」に登壇します
2015年11月14日(土)に日本科学未来館で開催されるサイエンスアゴラの「オープンサイエンス革命」にちょこっと登壇します。セッションのオーガナイザーは学術系クラウドファンディングサイト「academist」代表の柴藤亮介さん。当日は研究者と非研究者がどのような形で研究をコラボできるかについて議論していきます。詳しくは下記を参照ください。
オープンサイエンス革命~オンラインコラボレーションによる研究推進の可能性~
タイムテーブル:
11月14日(土)
14:00 開会挨拶、前座
14:05~14:15 趣旨説明(アカデミスト株式会社 代表取締役・柴藤亮介)
14:15~15:55 各登壇者からの情報共有
堀川大樹氏:クマムシ研究コラボレーションへの道
末広 亘氏:外来種研究によるオンラインコラボレーションの可能性
榎戸輝揚氏:学術系クラウドファンディングに挑戦!雷雲プロジェクトの体験から
湯浅孝行氏:雷雲ガンマ線プロジェクト×市民科学
湯村 翼氏:情報科学とオープンサイエンス
15:55~16:05 質疑応答、まとめ
16:05~16:10 閉会挨拶、アンケート記入など
ノーベル賞受賞者トウ・ヨウヨウ氏はダンゴムシをつぶしたか
1951年当時のトウ・ヨウヨウ氏(右)。This image is now in the public domain.
2015年のノーベル医学生理学賞は抗線虫薬剤の開発で大村博士、Campbell博士、そしてトウ氏の三名が共同受賞しました。大村さんは研究もさることながら生き方が格好よい。すでに国内メディアでいろいろと取り上げられているので、ここではトウ・ヨウヨウさんの「抗マラリア薬剤アルテミシニンの開発」について書きます。今年のノーベル賞の中で、個人的にもっとも興味を引いた研究成果でした。
1960年代後半、国家機密プロジェクトでマラリア撲滅のための研究が開始します。このときすでにクロロキンなどの抗マラリア薬剤が存在していましたが、これらの薬剤に対して耐性をもったマラリア原虫が出現。既存の抗マラリア薬剤の効果は弱くなっていました。
中国中医科学院で漢方薬コースを受講したトウさんの研究グループは、2000種以上の漢方薬草からマラリアに効果のある物質を抽出・生成しようと試みます。そして、漢方薬草のひとつであるクソニンジン(Artemisia annua)にたどり着きます。この植物の抽出物をマラリアにかかったマウスに与えたところ、原虫の増殖を抑制し症状を緩和する効果が見られたのです。しかしながら、この実験結果の再現性はあまり芳しくありませんでした。
トウさんらは中国医学に関する古書『肘後備急方』を参照しました。『肘後備急方』は『応急処置法の手引き』という訳になるでしょうか。この本はもともとは葛洪(ガ・ホン)(284年〜346年)によって1700年ほど前に書かれた書物です(トウさんが実際に参照したのは1574年に出版された復刻版と思われる)。彼女はこの中の「青蒿一握以水二升漬絞取汁盡服之(ひとつかみのクソニンジンを2リットルの水に浸し、しぼりとったその水を飲むこと)」という記述に注目しました。
そして、高温処理によりクソニンジンから抽出物を得るやり方だと、抗マラリア活性をもつ物質が失活すると考えました。低温処理で得たクソニンジン抽出物はマウスとサルにおいて高い抗マラリア活性をもつことがわかり、のちにこの活性をもつ実体がアルテミシニンであることを突き止めます。アルテミシニンはクロロキンに耐性のあるマラリア原虫の増殖抑制にも有効でした。アフリカだけでも、この薬剤で毎年10万人以上の命が救われていると推測されています。
さて、トウさんが研究のヒントにした『肘後備急方』ですが、マラリアの症状を治療するために書かれていた内容がなかなか面白い。前述のクソニンジンによる処方の他に、以下のようなものがあります。
鼠婦豆豉二七枚合搗令相和未發時服二丸欲發時服一丸
中国語で、しかも昔の文章なので解読するのがなかなか難しいのですが、この方面に強いむしマガの優秀なメンバーに翻訳をしてもらいました。ここで鼠婦はダンゴムシ、豆豉はトウチです。この一文を訳すと、次のようになります。
ダンゴムシとトウチ二七つを一緒につぶして混ぜる。症状がまだ出ないときはそれを二つ、症状が出始めるときは一つ服用すること。
トウさんはこの書物に書かれていた、このダンゴムシも調べた可能性があります。ダンゴムシを何十匹も採ってきて、ぐりぐりとすりつぶす。しぼりとったダンゴムシ・エキスをマラリアにかかったマウスに投与したものの、とくに目立った効果が得られなかったのかもしれない。
この他にも『肘後備急方』の同じページには「五月五日にニンニクの皮を使って〜」という記述もあります。「五月五日」と薬を摂取する時期をわざわざ指定しているのは、各臓器の機能が日周期や年周期をもつという伝統的中国医学の考えに基づいているためでしょう。
ちなみにこの『肘後備急方』を書した葛洪は医学者であり道教学者でもありました。「不老不死の仙人になるための方法」について書いた本もあり、今の時代の視点で見れば彼の言説の一部はトンデモに映りますが、少なくとも1700年前にクソニンジンにマラリアの症状を抑える何かが含まれていたことは見抜いていたわけで、大昔の人々の知恵には感嘆します。
人知れず眠っている古文書の中に、ブロックバスターの種がまだ転がっているのかもしれませんね。
※本記事は有料メルマガ「むしマガ」314号「2015年ノーベル賞を振り返る」の一部です。
クマムシ博士のむしマガVol. 314【2015年ノーベル賞を振り返る】
2015年10月12日発行
目次
【1. はじめに】鶴岡生活
ずっとここに住むのであれば、やっぱり車は必需品ですね。アイニードアカー。
【2. むしコラム「2015年ノーベル賞を振り返る」】
日本人二人が受賞した2015年のノーベル賞。今回は医学生理学賞と化学賞を中心に、受賞内容を振り返ります。
【3. おわりに「クマムシトーク生放送」】
最近のニコニコ・クマムシチャンネルでの生放送には慶應の研究者たちに次々とゲスト出演してもらっています。
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クマムシでも分かる。ノーベル賞候補・ゲノム編集技術「CRISPR/Cas9システム」
ゲノム編集技術、CRISPR/Cas9。今年のノーベル賞(化学賞あるいは医学生理学賞)受賞候補として大きく注目されているが、仮に今年の受賞が無くても、近い将来確実に受賞することだろう。今回は、この革命的テクノロジーの概要をできるだけ分かりやすく解説する。
ゲノム編集技術
バイオテクノロジーの中で今もっとも注目されているのがゲノム編集技術だ。ゲノムとは、ある生物におけるすべての遺伝子の情報をひっくるめたものをさす。今、このゲノムを意のままに改変することができるようになりつつある。この技術はさまざまな生物学現象のメカニズムを解明する上での重要なツールになるほか、有用な家畜や農作物の作出や、遺伝性疾患の治療などへの応用も期待されている。
従来、遺伝子組換え生物をつくる場合は、外来遺伝子をゲノムの中の特定の位置に入れることが難しかった。これらの遺伝子は運び屋のウィルスなどにもたせて細胞内に注入されるが、ゲノムの中のランダムな場所に入ってしまう。また、ゲノムの中の特定の位置を狙って遺伝子を入れたりその遺伝子を破壊することもできたが、その効率はあまりよいものではなかった。
2013年、ゲノム編集技術に革新がおきた。それが、CRISPR/Cas9(クリスパー・キャスナイン)システムの実用化である。
CRISPR/Cas9システム
CRISPR/Casは細菌や古細菌がウィルス感染を防御するために発達させた免疫防御システムである。このシステムは現九州大学教授の石野良純氏らによって発見された。細菌はバクテリオファージなどのウィルスにより感染され殺される危険に脅かされている。細菌のCRISPR(Clustered Regularly Interspaced Short Palindromic Repeats)システムは侵入したウィルスのDNAをバラバラにし、その中で特定の塩基配列をもつ断片を細菌自身のゲノムに取り込む。こうすることで、それぞれの種類のウィルス特有DNA塩基配列、つまり、IDをコレクションし、記憶することができる。すでに侵入したことのあるウィルスが細菌内に再度侵入すると、細菌がもっているウィルス・コレクションDNAから写しとられたコピー(RNA)がその侵入ウィルスのDNAを照合して見つけ出す。RNAにガイドされて一緒にやってきた酵素Casタンパク質が、そのウィルスDNAをちょん切ってやっつける。こういう仕組みである。
Doudna博士とCharpentier博士の研究室は、CRISPRシステムのタイプ2に着目。このシステムを人類が利用しやすいようにするため、改良・シンプル化を試みた。こうして確立されたこのゲノム編集技術CRISPR/Cas9システムは、様々な生物の遺伝子を改変することを可能にした。ガイドRNA鎖と酵素Cas9が一緒になってターゲットのゲノムDNA上の塩基配列を認識して切断する。下の図のように、ガイドRNA鎖の塩基配列と対応する配列(と隣接するPAM配列)をもつゲノムDNA上の位置が認識され、そこでCas9によってこの場所が切断される。
このとき切断されたゲノムDNAは修復されるが、このときにDNA塩基配列の一部が欠損したり他の配列が挿入されて変異がおこる(下図左)。また、挿入したい外来遺伝子をCas9らと一緒に細胞内に注入すると、狙った場所にこの外来遺伝子を入れることもできる(下図右)。
もしCRISPR/Cas9システムを会社のアクティビティに例えたら
すこし話がやや難しくなってきたので、CRISPR/Cas9システムを会社における解雇手続きに例えて説明しよう。
かんぽ商事の営業部はそこそこの業績をあげており、表立った不具合はみえなかった。しかし、決算時に営業部が使用した経費をよく調べてみると、不自然な出費が莫大にあることが判明。経理部のR子は営業部の中の誰かが不正に経費を使用していることを疑い、調査を開始した。そして、ついにD島が架空の領収書を作成して会社の金を横領していることをつきとめた。R子はC村社長を連れて営業部に乗り込んでいった。
R子「C村社長!こいつです!D島が横領の犯人です!」
C村「なに!けしからん!D島、おまえはクビだ!!」
D島「クビ切られた!」
もうおわかりだろう。ここで、
営業部=ゲノムDNA
D島=ゲノムDNA上の特定の場所
R子=ガイドRNA鎖
C村社長=Cas9
である。R子(ガイドRNA鎖)がゲノムDNA(営業部)上の特定の場所(D島)を特定し、一緒に連れてきたCas9(C村社長)によって(クビを)切ってもらったわけだ。もちろん、切断したDNAのところに、新しく外来遺伝子を組み込むこともできる。ダメ社員をクビにしたことによって空いた穴のところに、新しい社員を補充するように。
CRISPR/Cas9システムの長所は、ゲノムDNA上の狙った場所の塩基配列をもとに、これに対応する塩基配列をもつRNA鎖を設計できることだ。この他のゲノム編集ツールとして使用されていたZFNやTALENでは、酵素がDNA塩基配列を認識していた。酵素はタンパク質であり、これを特定のDNA配列を認識するように設計するのは、ひじょうに手間と時間がかかる。CRISPR/Cas9で使われるRNA鎖を設計するのはこれに比べて格段に簡単なのである。
ちなみにCRISPR/Cas9システムの特許は現時点でMITのZhang博士が保有している。だが、特許申請はDoudna博士とCharpentier博士の方が早かった。Zhang博士の方が後出しだったわけだが、ファスト・トラックを使いDoudna博士とCharpentier博士よりも早く特許を取得してしまったのだ。Doudna博士とCharpentier博士は米国特許商標庁に再審査をするように申し立てているが、Zhang博士はずっと前からCRISPR/Cas9システムのアイディアを実験ノートに記しており、自分が特許保有者にふさわしいと主張している。特許をめぐり研究者どうしの泥沼合戦が現在進行中であるが、ノーベル賞にはDoudna博士とCharpentier博士のみが受賞するのではないかと見られている。
ゲノム編集と遺伝子治療
革命的といえるゲノム編集技術の登場によって、私たちの未来は大きく変わろうとしている。効果的な遺伝子治療の展望が開けてきたことも、その一例だ。エイズの治療や予防に、ゲノム編集技術の使用が検討されていたりする。
ヒトエイズウィルスHIVが免疫細胞に感染するとき、免疫細胞表面に出ているある特定の受容体(CD4とCCR5)を足場にして細胞内部に侵入することが知られている。もし免疫細胞の受容体遺伝子を取り除くことができれば、免疫細胞表面に受容体がでてくることがなくなる。つまり、ウィルスの足場がなくなるため、感染できなくなる。ゲノム編集技術によって受容体(この場合CCR5)遺伝子を欠損させた免疫細胞を作製し、それを患者の体内に入れてやれば、エイズ免疫不全の進行を遅らせることができる。このほかにも、チロシン血症1型などの先天性遺伝子疾患患者の治療に、ゲノム編集技術を応用することが考案されている。
遺伝子治療を受けた人の体内では、その人がもとからもっているオリジナルなゲノムをもつ細胞と、ゲノム編集により改変されたゲノムをもつ細胞が混在している。ただし、精子や卵のもととなる生殖細胞系列においてゲノム編集が行なわれないかぎりは、その人の子どもに改変されたゲノムが受け継がれることはない。問題となるのは、この生殖細胞系列や受精卵で、ゲノムが編集された場合だ。これには、様々な倫理的な懸念が絡んでくる。
ゲノム編集がつくる未来
CRISPR/Cas9はバイオ研究の世界でたちまち普及することとなった。これまでにないスピードでゲノム編集に絡んだ研究成果が発表されており、その用途や対象生物も多岐にわたっている。
しかし、いや、だからこそ、このゲノム編集テクノロジーは、使い方次第では人類にとって不幸な未来を招きかねない。そんな警告を、研究者らは発している。ゲノム編集テクノロジーを使うことで、オウム真理教のようなハイテクノロジーを備えたクレイジーな組織が、テロ目的で感染力を高めたウィルスをゲノム編集技術で作り出すかもしれない。これはちょっと言いすぎかもしれないが、ただ、受精卵のときに遺伝子改変をおこない、生まれてくる子どもから疾患原因となる遺伝子を除去するだけでなく、その子の知能や容姿をすぐれたものに変えるのが普通になるような未来は、より現実味を帯びている。
ヒトの疾患を治療するために、生殖細胞や受精卵のゲノム編集をおこない原因遺伝子を除去するアイディアは、以前からある。実際に、実験動物を使った基礎研究も進んでいる。ただし、現段階ではゲノム編集技術の精度は完璧にはほど遠く、ゲノム上の狙った位置ではない別の場所に変異を入れてしまうことも多い。こうなると、生まれてくる子どもが何らかの異常をもってしまう可能性も出てくる。それ以前に、出生前の人間の意思を無視して、その赤ちゃんのゲノム情報を勝手に改変してよいのだろうか?という懸念も生じる。
これらの懸念から、世界の科学者コミュニティは、人の受精卵の遺伝子改変をするのを自重してきた。ところが2015年4月、中国の中山大学の研究グループが、そのような空気を読まずに、ゲノム編集技術CRISPR/Cas9でヒト受精卵のゲノム編集を行なったとする研究論文を発表した。
この研究で使用されたのは、不妊治療クリニックから提供された三倍体の受精卵。これは、ひとつの卵に二つの精子が受精した異常な受精卵であるため、発生して正常な子どもになることはない。倫理的な問題をある程度回避しつつ、ヒト受精卵を用いてインパクトのある実験するために編み出した、研究グループの苦肉の策と思われる。
研究グループは、受精卵のゲノム上にあるベータグロビン遺伝子をターゲットにしたゲノム編集を試みた。ベータグロビン遺伝子の変異はベータサラセミアという先天性遺伝疾患をひきおこす。つまり、ゲノム編集技術CRISPR/Cas9でこの部分の変異遺伝子を正常な遺伝子に置き換えられるかどうかを検討したわけだ。
結果として、実験処理をした86個の受精卵のうち、ゲノム上の狙った場所で目的遺伝子が置き換わっていたのは、わずかに数個だけだった。ゲノム上のターゲット以外の場所で改変が起きていた受精卵も少なくなかった。この結果は、べつに驚くことでも何でもなく、他の動物を用いて行なわれた先行研究の結果から想定された範囲内のものである。科学的な新規性という観点からは、それほどインパクトの高い研究結果ではない。
仮にヒトの受精卵を遺伝子治療する目的でゲノム編集を行なう場合は、100%の確度で狙いどおりに変異遺伝子を除去しなければならない。今回の研究結果は、CRISPR/Cas9システムがまだまだ検討余地のある技術であることを示している(もっとも、研究グループは若干古いバージョンのCRISPR/Cas9システムを使っていたようだが)。研究グループも論文の中で「ヒトの受精卵に対する遺伝子治療にCRISPR/Cas9を使うのはまだ早い」と結論づけている。
この論文発表を受けて、世界中で熱い議論が渦巻いている。もっとも、この研究を行った研究グループも、その研究成果を掲載した中国のジャーナル(中華人民共和国教育部、日本の文科省のような組織がバックアップ)も、一種の炎上マーケティング的な手法で科学界や世間の注目を集めている部分もあるため、今おきている状況は向こうの思う壷になっている、という印象も受ける。
いずれにしても、異常なものとはいえ、ヒトの受精卵を使ったゲノム編集研究が実行されたことで、ヒト受精卵をつかった研究にますます拍車がかかるかもしれない。第二、第三の受精卵を使ったゲノム編集実験が実施されれば、社会からの反発もより大きくなる。そうすると、ゲノム編集の研究分野全体の進展が妨げられかねない。そんな懸念が生じている。アメリカ国立衛生研究所NIHでは、ヒト受精卵を使用する研究には研究費を出さない声明を出した。イギリスでは研究者が政府ににヒト胚を使った実験の許可を申請している。何ができて何ができないのかの線引きを明確にする必要があるだろう。
さて、実は健康な子どもを得る目的では、安全面で大きな不安を抱える受精卵のゲノム編集よりも、もっと現実的な方法がある。それは、着床前診断だ。
着床前診断では初期の発生段階にある胚を扱い、先天性遺伝子疾患の原因遺伝子の有無を調べる。変異遺伝子をホモ(父母から受け継いだ両方の遺伝子型が同じタイプ)で受け継いでいない胚を選択して着床させることで、遺伝子疾患をもたない子どもを授かることができるわけだ。もちろん、このやり方でも優生学の復興につながりかねないとする倫理上の問題も、あるにはある。だが、ゲノム編集に比べれば、こちらはずっと「おだやか」なやり方だ。
ヒューマンからハイスペック・ヒューマンやネオ・ヒューマンに
では、受精卵や生殖細胞にゲノム編集技術のメスが入ることはないのだろうか。これは、今すぐには考えられないが、将来的にはじゅうぶんありえると思う。そして、その用途は遺伝子治療にとどまらず、好きな遺伝子を取り込ませた子ども、つまり、デザイナーベイビーをつくる用途に使われる可能性もある。試験管ベイビーも昔は倫理的に反対する人が多かったが、今では普通に世間に受け入れられている。時代とともに、倫理や道徳の概念は変化するのだ。
現在、先進国では高精度医療(Precision Medicine)の実現に向けた基礎研究がハイスピードで進んでいる。数万人から100万人を対象とした全ゲノム解析結果と各人の健康データや生活習慣をひもづけることで、新たな疾患原因遺伝子や長寿遺伝子などがあぶり出されてくることが期待されている。将来、個人の全ゲノム解析が手軽に行なえるようになり、ゲノム編集技術が改善されて安全性が保証されるようになれば、生まれてくる子どもに「長生き」「病気への抵抗性」「賢さ」を司る遺伝子セットをもたせる文化が生じるかもしれない。子どものファッションを決めるくらいの感覚で、好みの遺伝子をピックアップして我が子に実装させる。そんな世の中がくるかもしれない。
はじめは富裕層がこのテクノロジーを使い、自分たちの子どもを遺伝的なハイスペック・ヒューマンに仕上げる。遺伝的背景に起因した能力に差が出るようになり、遺伝格差が生じる。テクノロジーのコストダウンに応じて、ある国では人口のほとんどがハイスペック・ヒューマンに。こうなると、これまでヒト集団に一定の割合で存在していた遺伝子が、将来はほぼ消滅していたり(疾患原因遺伝子など)、ほとんどの人に備わっていたり(長寿遺伝子など)するだろう。環境による遺伝子の淘汰・選択がおこりづらくなるわけだ。
さらにはヒト以外の生物のハイスペック遺伝子も取り入れ、もはやヒトではない何かに・・・。そう。人類は自らを編集して、ネオ・ヒューマンに進化する。羽毛をはやした学生たちが飛行能力を競う「リアル・鳥人間コンテスト」が開催。いやなことがあると乾いて眠ってしまう博士、「リアル・クマムシ博士」も誕生。そんな世の中に絶対ならないなんて、誰が言えるだろうか。
欲望という名の川がいったんひとつの方向に流れ出せば、止めるのは難しい。ゲノム編集技術は、パンドラの箱を開けてしまったのかもしれない。
ゲノム編集についての一般向けの良書ゲノム編集の衝撃―「神の領域」に迫るテクノロジーが出版された。本書は生物学についての専門知識がなくても容易に読み進められるように書かれており、ゲノム編集を「いろは」から知りたい読者にとって良好な解説書となっている。
ゲノム編集の衝撃―「神の領域」に迫るテクノロジー:NHK「ゲノム編集」取材班 著
クマムシ博士による本書のレビューはこちら。
こちらはヒトの遺伝子改変について、生命倫理学の専門家による深い洞察が記された一冊。
ヒトの遺伝子改変はどこまで許されるのか ゲノム編集の光と影:石井哲也 著
クマムシ博士のレビューはこちら。
【追記】
私が専門としている極限環境動物クマムシにおけるゲノム編集技術の確立のためのクラウドファンディングを行っています。CRISPR-Cas9システムでクマムシの耐性に関わると思われる遺伝子を壊し、耐性の低下が見られないかを検討できます。ただ、クマムシの遺伝子改変技術は未熟なため、研究の最初のステップを行うためのサポートを募集しています。ご興味のある研究者の共同研究も募集しています。
※本記事は有料メルマガ「むしマガ」290号と291号「ゲノム編集がおこす社会変革(前編)(後編)」からの抜粋です。
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【参考資料】
実験医学 2014年7月号 Vol.32 No.11 ゲノム編集法の新常識! CRISPR/Casが生命科学を加速する
今すぐ始めるゲノム編集〜TALEN&CRISPR/Cas9の必須知識と実験プロトコール (実験医学別冊 最強のステップUPシリーズ)
Urgency to rein in the gene-editing technology: Protein and Cell
Engineering the perfect baby: MIT Technology Review
The big blind spot on CRISPR for human embryo editing: PGD: Knoepfler Lab Stem Cell Blog
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NASAが発表した「火星表面に液体の水が存在」の意味
Credit: NASA/JPL/University of Arizona
NASAが予告していた「火星に関する重大な科学的発見」の発表が、2015年9月28日(日本時間は29日)に行なわれました。会見内容は「現在の火星表面に液体の水が存在することが示唆された」というものでした。
NASA confirms evidence that liquid water flows on today’s Mars: NASA
ということで、私の予想がしっかりと当たりました。5年前のNASAの会見発表内容も的中させているので、二回連続的中。それでは、改めて今回の発見について見てみましょう。
「液体の水」と「生命」
生命体が棲める可能性のある環境の範囲を、ハビタブルゾーンといいます。ハビタブルゾーンの定義はいろいろとありますが、シンプルに言えば「水が液体で存在しうる環境範囲」となります。火星は水が液体で存在しうる環境を備えた惑星であり、生命体が潜んでいてもおかしくない・・・いや、いるはずだ。と、我々のような宇宙生物学者たちは期待に胸を膨らませてきました。
はたして火星に水は存在するのか。あるいは、過去に存在したのか。NASAは異なるタイプの探査機をつぎつぎと火星に送り、調査をしてきました。そして、2008年には火星探査機フェニックスが地表のすぐ下に凍った水を見つけました。火星内部には多量の水があり、地下に生命が潜んでいる可能性が強く指摘されるようになりました。
Credit: NASA/JPL-Caltech/University of Arizona/Texas A&M University
2005年にローンチされた探査機、マーズ・リコネッサンス・オービターは、火星の周回軌道を回りながら、主に火星の表面における水の挙動の歴史を観測しています。この探査機には高解像度カメラのHiRISE (High Resolution Imaging Science Experiment)や分光計のCRISM (Compact Reconnaissance Imaging Spectrometer for Mars) が搭載されています。今回、これらの機器を用いた観測により、火星表面に液体の水が存在する可能性が示唆されたのです。
Credit: NASA/JPL/University of Arizona
火星表面の奇妙な現象「RSL」
マーズ・リコネッサンス・オービターは以前、火星表面にRSL(Recurring Slope Lineae)とよばれる不思議な現象を見つけました。火星の地表の傾斜に狭い線状の地形が、現れたり消えたりするのです。このRSLは暖かくなると現れ、寒くなると消えるといった、季節に関係した挙動を示すことも分かりました。火星表面上には、このRSLが複数見つかっています。
Credit: NASA/JPL/University of Arizona
Georgia Institute of Technologyの大学院生Lujendra Ojha氏らは、このRSLが現れたり消えたりするのは「地表に液体の水が流れたりしみ出しているから」と考えました。そして、この仮説を検証するため、RSLにどのような物質が存在するかを調べるため、主にCRISMを用いた成分分析を行ないました。
RSLは液体の水によって作られているかもしれない
化学物質は、それぞれに固有の吸収スペクトルを示します。この性質を利用して、CRISMで火星地表の複数のクレーター斜面にできたRSL付近の吸収スペクトルのデータを取りました。その結果、RSLが大きく(長く)発達したときには、過塩素酸塩のような水和塩(過塩素酸マグネシウムや過塩素酸ナトリウムなど)が存在することが示唆されました。このように、時間的にも位置的にも、RSLが出現し拡張する現象にあわせて、これらの水和塩と思われる物質の特徴が観測されたわけです。よって、液体の水も同じ場所にあると考えられたのです。
なぜ水和塩があると、水がそこに存在すると言えるのでしょうか。これは、火星地表付近の塩水が蒸発した結果として水和塩が生じる可能性を示した先行研究を根拠にしているようです。仮にこれらの水和塩が塩水中に含まれていたとすると、きわめて低い温度(場合によってはマイナス70ºC)まで塩水が凍らずに液体のまま保たれることが推測されます(水に塩や砂糖などの溶質を溶かすと、融点が下がっていきます)。
では、この液体の塩水が地表に存在するとして、これはどこからやってくるのでしょうか。氷が溶け出して水が染み出るということが考えられますが、研究者らは、赤道付近のRSLの環境では地表近くで水が氷として存在することは難しそうだと述べています。また、過塩素酸塩の潮解現象(大気中の水蒸気をとりこんで液化させ水溶液になること)により水が供給されるかどうかも、まだ検討の余地があるようです。研究者らは、RSLが存在する火星上の場所ごとに、水が供給されるメカニズムが異なるのではないか、と推測しています。
「火星表面に液体の水が存在する」ことを示す根拠は弱い
ここまで読んで分かるように、研究者らが今回発表した「火星表面に液体の水が存在する」という主張は、直接的に液体の水を採取したり見たわけではなく、水和塩らしき物質の存在から推測したストーリーに基づいています。液体の水の供給メカニズムについても証拠は示しておらず、こちらも憶測でしかありません。つまり、研究者らやNASAの「液体の水がある」という主張を裏付ける証拠は、ひじょうに弱いものです。おそらく、研究者らは今回の研究成果を当初はNatureやScienceといったトップジャーナルに投稿したものの、主張の裏付けが弱いことから論文掲載を拒否され、Natureの姉妹紙であるワンランク下のNature Geoscienceに投稿したのだと思われます。
また、これまでNASAが会見を開いてセンセーショナルに発表した「大発見」は、のちに疑問符のつくものとなるパターンが多いし、今回も油断できない、と思ってしまう面もあります。ただし、今回は研究データ自体が堅いものではないし、そういう意味では逃げ道が作ってあるので、火星に液体の水がずっと見つからなくても当事者はあまり責められないと思いますが。いずれにしても、RSL付近に探査機を送り、そこで直接的に液体の水を検出することが大事です。
色々と書きましたが、今回の研究成果により、火星表面に液体の水がある可能性が以前よりも高まったのは事実でしょう。本研究成果が今後の火星探査計画にポジティブな影響を与えそうです。RSL付近に液体の水が直接的に確認されれば、そこに生命体が潜む可能性も飛躍的に高まります。サンプルリターンで火星生命体を捕獲、なんてことも夢に見てしまう。でも、慎重な心構えをもちつつ、今後の研究に期待したいところですね。
宇宙生物学については、以下の書籍がお薦めです。宇宙生物学分野の幅広い取り組みと歴史が詳細に解説されており、今回の研究でも登場した分光計を用いた惑星の成分分析についても記述があります。
※本記事は有料メルマガ「むしマガ」313号「NASAが発表した「火星表面に液体の水が存在」の意味」からの抜粋です。
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NASAの「火星における重大な科学的発見」を予想する
2015年9月28日(日本時間は29日)、NASAが「火星に関する重大な科学的発見」について記者発表します。
NASA to Announce Mars Mystery Solved: NASA
発表予定時刻から8時間前にこの予告を知り、自分なりに短時間で発表内容を予想してみました。以前、似たようなNASAの重大発表会見の内容(ヒ素細菌)について予想を的中させましたが、今回はちょっと私の専門からずれるため、本記事は眉唾で読んでいただければと思います。
最初に結論から言うと、今回の重大な科学的発見は、火星生命体の発見ではありません。現在の火星探査スペックでは、まだ「生命体が存在する(した)こと」を言い切れるだけの証拠を集められないからです。それでは、何か。それは、ずばり、「火星地表に液体状の水が存在すること」に関する発表だと思われます。
今回の発表内容を予測するにあたり、記者会見に登場するメンバーの専門分野を最大公約数的に絞り込みました。記者会見に登場するメンバーは以下の通り。
Jim Green(NASA本部の惑星科学ディレクター)
Michael Meyer(NASA本部のMars Exploration Programリーダー)
Lujendra Ojha(Georgia Institute of Technologyの大学院生)
Mary Beth Wilhelm (NASA Ames Research Center職員、およびGeorgia Institute of Technologyの大学院生)
Alfred McEwen(University of Arizonaの教授)
ここで、最初の二名はNASAの偉い人なので、今回の研究内容には直接関係ありません。それ以外の三名は、Mars Reconnaissance Orbiter(MRO)のミッションに関わっており、地質学というキーワードで共通しています。さらに、研究論文はNature Geoscienceに発表予定です。地質学関連の研究内容に違いありません。
さらに、これらの三名は火星地表の観察分析を行なっています。とくにOjha氏は学部時代はMcEwen教授と同じUniversity of Arizonaに所属しており、この二人がキーパーソンとみられます。Wilhelm氏は研究のお手伝い的立ち位置ですが、NASA所属ということ、また、メディア慣れしていることから会見に呼ばれているのかもしれません。
Ojha氏とMcEwen教授は2014年に火星表面に観察されるある現象について報告しています。それはRecurring Slope Lineae (RSL) とよばれるもので、直訳すると「繰り返し現れる傾斜の直線群」となるでしょうか(適当です)。
下の画像のように、直線状の細い線が傾斜に沿って並んでいますが、これがRSLです。
Credit: NASA/JPL/University of Arizona
RSLは暖かくなると現れ、寒くなると消える。季節変化によって繰り返し現れたり消えたりするのですね。不思議な現象です。火星上にRSLがたくさん見つかり、しかも火星の場所によって出現頻度が異なる。というのが、2014年に発表された内容です。
Credit: NASA/JPL/University of Arizona
このRSLが現れたり消えたりするのはなぜなのか。これはもしかしたら、水の流れによってできるのかもしれない。ということで、今回はその謎が解け、RSLの原因が「地表に液体の水が流れたりしみ出しているから」ということをある程度裏付ける証拠を掴んだものと思われます。
ついでに、本研究が関わっていると思われるミッションについて。2005年にローンチされたMars Reconnaissance Orbiterは、火星の周回軌道から火星を探査しています。NASAで推進されているMars Exploration Programの一環です。本探査機のミッションは、火星における水の挙動の歴史を観測すること。水の挙動と生命の存在可能性は密接にリンクしているので、このような研究は重要なのです。
この探査機には高解像度カメラのHiRISE (High Resolution Imaging Science Experiment)や分光計のCRISM (Compact Reconnaissance Imaging Spectrometer for Mars) が搭載されています。HiRISEで火星地表を撮影して小水路の痕跡がないかどうかを観察したり、CRISMで鉱物の化学組成分析を行なうことで、過去から現在に至るまでの水の挙動の歴史を解明しようとしています。鉱物の種類によって水がその場所にどう存在していたか、あるいは作用しているかがわかったりするのですね。また、HiRISEやCRISMでは水の挙動も把握することができるようです。
HiRISE. Credit: NASA/JPL/University of Arizona
Image captured by CRISM. Credit: NASA/JPL/University of Arizona
もしも火星の地表に今も液体の水が存在するのであれば、これは大変にエキサイティングなことです。これまで、火星には地下に氷が存在することが確認されていましたが、地表に、しかも液体状で水が存在することになれば、火星表面に生命が存在する可能性も俄然として高まります。ということで、期待もこめて今回の予想を行なってみました。
ちなみに、今回のNASA会見発表で登場予定の一人であるMary Beth Wilhelm氏は、私がNASAエームズ研究所に勤務していたときに同じ施設におり、面識があります。ただし、今回の件では、会見発表内容について、彼女から一切の情報提供を受けていないことを、ここに誓います。
宇宙生物学については下記の本がおすすめです。
※本記事は有料メルマガ「むしマガ」312号「NASAの「火星における重大な科学的発見」を予想する」からの抜粋です。
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【追記(2015.9.29)】
NASAの会見は「現在の火星表面に液体の水が存在することが示唆された」というもので、本記事に書いた予想が的中しました。本研究発表について、新たに解説記事を書きました。
また、今回の予想について少し違っていた点がありました。本記事ではMary Beth Wilhelm氏の貢献度は低いものと予想しましたが、実際には論文の第二著者であり、本研究にかなり大きな貢献をしていました。私がNASAエームズ研究所にいた頃、Wilhelm氏はまったく異なる研究を行なっていたため、このような過小な予想をしてしまい、Wilhelm氏にはお詫びいたします。
ベジタリアン・チーズに見る、バイオテクノロジーが道徳心を刺激する時代の幕開け。
Photos courtesy of Biocurious
バイオテクノロジーが医療や食料生産に応用されるようになって久しい。遺伝子操作により、ヒトのホルモンを効率よく分泌する大腸菌が作られ、害虫に負けない農作物などが作られてきた。ただ、「人工」や「遺伝子組換」という単語に拒絶反応を示すナチュラル志向派も多い。科学技術の発展にともないたびたび起きてきた公害や薬害に対する印象から、あえて先端医療や遺伝子組換食品を避け、自然療法やオーガニック食材を好む層も一定数存在する。
最近のバイオテクノロジーは、そんなナチュラル志向だったり、道徳心の高い人々をターゲットに利用されるようになってきた。その顕著な例が、遺伝子改変酵母を用いて人工チーズを作ろうとする「ベジタリアン・チーズ」プロジェクトだろう。
このプロジェクトはカリフォルニアのベイエリアにあるバイオハッカースペースのCounter Culture LabsとBiocuriousによって進められている。かれらは2014年6月にクラウドファンディングサイト「Indeegogo」で資金を募り、700人近くの支援者から3万7千USドルを集めた。
実は私もこのプロジェクトに支援していたりする。
このプロジェクトでは、酵母にウシのミルクの成分となるカゼインなどのタンパク質をコードする遺伝子を組み込んで、これらのタンパク質を生産しようと計画している。ベジタリアンの人のなかには、劣悪な飼育環におかれている家畜が生産したミルクから作られるチーズを食べたくない人もいるし、家畜を育てるために起こる環境破壊に対してネガティブな感情をもつ人もいる。もしもウシを使わずに人工的にチーズをつくることができれば、この懸念はなくなる。
酵母に入れる遺伝子はウシに由来するので、酵母からできるチーズもウシのミルクからできるそれと同一である。さらに酵母自体は遺伝子組換え生物だが、このチーズは酵母が作ったタンパク質だけが含まれるのでDNAフリーである。つまり、このベジタリアン・チーズ自体は遺伝子組換え食品にあたらない。遺伝子組換え食品嫌いの人も気にしなくてよいというわけだ。
もしもこのベジタリアン・チーズが生産可能になったとすれば、たとえこれが従来のチーズより高い値段であったとしても、ベジタリアンや、上述のような意識をもつ人たちがすすんで購入するはずだ。なにせ、大気汚染を懸念して、かなり割高な電気自動車を使用する人だっているくらいなのだから。もちろん、電気自動車もベジタリアン・チーズも、従来の自動車やチーズよりもコストダウンしていく可能性もじゅうぶんにあるが。
人工物や遺伝子組換えに拒否反応を示す人々を、遺伝子組換え技術でなだめる、という構図もなんだかおかしいように見えるが、バイオテクノロジーも単なる効率向上のみでなく、人々の道徳心を刺激して市場を拡大する方向にどんどんと使われ始めていくのではないだろうか。
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