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【書評】『ゲノム編集の衝撃 「神の領域」に迫るテクノロジー』 来るべき未来に備えて正しい理解を

ゲノム編集の衝撃―「神の領域」に迫るテクノロジー:NHK「ゲノム編集」取材班 著


「今、もっともエキサイティングなバイオテクノロジーは何か」。この質問に対し、多くの生命科学者は次のように答えるだろう。「それはゲノム編集だ」、と。本書は、ゲノム編集がどのような技術で、この技術がいかに未来を変えうるかについて解説した良書である。


ゲノム編集とは、遺伝子の本体であるDNAの狙った位置を切り貼りするなどして「編集」し、その生物のすべての遺伝情報、すなわちゲノムを改変する技術である。ゲノム編集により、有用な農作物の作出や、遺伝性疾患の治療ができるようになると期待されている。ゲノム編集技術のひとつであるCRISPR/Cas9(クリスパー・キャスナイン)システムの確立により、この技術が爆発的に普及するようになった。


以前、むしブロでゲノム編集について解説した記事を公開したところ、大きな反響があった。ただ、これまでに国内で出版されたゲノム編集関連の書籍は研究者向けのものばかりで、一般向けに書かれた入門書のような存在は皆無だった。本書は生物学についての専門知識がなくても容易に読み進められるように書かれており、ゲノム編集を「いろは」から知りたい読者にとって良好な解説書となっている。


入門書といっても、書かれている内容は本格的だ。国内外の専門家たちへの丹念なインタビューからは、ゲノム編集技術についての具体的な最新の研究例を知ることができる。とくに巻末に掲載された広島大学の山本卓教授による Q&A形式の解説では、最先端のゲノム編集研究の動向がうまくまとめられている。


ここで、本書で紹介されているゲノム編集の応用例をいくつか紹介しよう。まずは、家畜への応用。もし一頭あたりの食肉用家畜の筋肉を増量することができれば、資源をより効率的に生産することができる。現在、この目的でゲノム編集技術を用い、筋肉が増量したマダイやウシの作製が進められている。


筋肉が増量したこのような家畜は、ミオスタチン遺伝子をゲノム編集で破壊することによって作り出される。ミオスタチン遺伝子がコードするミオスタチンタンパク質は、筋肉細胞を適切な数に抑える役割がある。ミオスタチン遺伝子が破壊されれば、ミオスタチンタンパク質が作られず、抑制が効かなくなる。よって、筋肉の細胞数が正常の場合よりも増加するわけだ。


また、ゲノム編集技術の医療方面への応用例のひとつとして、疾患モデル動物の作製がある。現在まで、医学研究で用いられる疾患モデル動物としてはマウスが主流だ。特定の疾患をもつマウスを遺伝子ノックアウト技術で作り出し研究することで、ヒトへの治療法を探ることができる。だが、マウスとヒトでは生理学的特性が異なる部分もあり、マウスで得られた知見がヒトでも一致するとは限らない。


そこで開発されつつあるのが、マウスよりもヒトに近い、サルの疾患モデルの作製である。遺伝子ノックアウト技術では、サルに対して遺伝子改変を行うことが困難だった。だが、ゲノム編集はサルの遺伝子を改変することができる。国内でも、実際にゲノム編集を使って、免疫不全のコモンマーモセットというサルの作製に成功している。本書では、この他にもゲノム編集の応用例が多岐に渡って紹介されている。


ところで、本書はNHKの「ゲノム編集取材班」により製作され2015年夏に放映されたNHK『クローズアップ現代』の「“いのち”を変える新技術 ~ゲノム編集最前線~」の内容が土台となって書籍化されたものである。だが、番組の放映から一年後に出版された本書には、ゲノム編集の新技術や、各国政府と研究者コミュニティによる本技術への見解など、多くの新情報が追加されている。ゲノム編集は文字通り日進月歩の技術であり、この技術に対する社会の反応も刻一刻と変わり続けているのだ。


ゲノム編集技術はヒトへの応用も可能だ。機能拡張のために好ましい性質を持った子ども「デザイナーベイビー」の設計にもつながりうる。このため、ゲノム編集については生命倫理の議論を避けて通れない。ゲノム編集に対して、漠然とした不安や恐怖を抱く人もいるだろう。ゲノム編集について冷静な議論を進めるためには、この技術への正確な理解が不可欠である。本書のような媒体が、少しでも多くの人に届くことを願う。


ヒトの遺伝子改変はどこまで許されるのか ゲノム編集の光と影 (イースト新書Q)

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ヒトの遺伝子改変について、生命倫理学の専門家による深い洞察が記された一冊。クマムシ博士のレビューはこちら。

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※本記事は書評サイトHONZに寄稿したものです


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