クマムシ博士のむしブロ

クマムシ博士が綴るドライな日記

クマムシが30年ぶりに覚醒

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南極クマムシAcutuncus antarcticus©Kazuharu Arakawa


南極で採取され、30年間保存されていたコケの中にいたクマムシが復活したことを報告した論文が出版された。これはクマムシにおける生存期間の最長記録。


Tsujimoto et al. 2015 Recovery and reproduction of an Antarctic tardigrade retrieved from a moss sample frozen for over 30 years. Cryobiology (in press).


この研究を主導したのは、国立極地研究所の辻本惠特任研究員。今回、辻本博士らは、南極のドローニング・モード・ランド地域にある昭和基地近くで1983年に採集されたのちに当研究所の冷凍室(−20ºC)で保管されていたコケを、3℃で24時間おいて融解。その後、水を張ったシャーレの中で24時間給水した。コケの中からは2匹のクマムシが伸びきっていない状態で見つかった(体が伸びきったクマムシはだいたい死んでいる)。この2匹とも、しばらくすると動き出した。この2匹を寒天培地に移し、餌としてクロレラ(クロレラ工業株式会社の生クロレラV12)を与えて飼育を試みたところ、このうちの1匹は卵を産んで子孫を残した。もう1匹は卵を産むことなく20日後に死亡。追記:コケの中には他にも体の伸びきったクマムシが何匹かいたが、死んだものとして追跡観察は数週間しても復活しなかったとのこと(辻本さんからの私信)。


さらにコケの中からはクマムシの卵も見つかり、給水後の6日目に孵化。孵化したクマムシもクロレラを食べて成長し、子孫を残した。このように、長期間の保存のあとにクマムシの繁殖能力が維持されていたことを報告されたのは、本研究報告が初めての例である。


子孫を残した2個体のクマムシはいずれもAcutuncus antarcticus。南極で見つかるクマムシとしてよく知られている種類だ。慶應義塾大学クマムシ研究グループでも、辻本博士から分与された本種を研究対象にしている。慶應の荒川さんが撮影したこの南極クマムシはこちら。



これまで、クマムシの最長生存記録は、乾燥状態(乾眠)のツメボソヤマクマムシ属Ramazzottius oberhauseriの卵のもので、9年間だった。ただし、これは室温で保存された場合の記録。クマムシは乾眠になると代謝が停止するため実質的な老化は起こらないとみなせるが、環境中の酸素により酸化が起こるために生態にダメージが蓄積し、ある程度時間が経つと死んでしまうと考えられている。ただし、低温で保存すれば酸素分子による損傷を軽減できるため、理論的にはより長期間の生存が可能になると予想されていた。


今回報告されたクマムシが、コケの中で乾燥状態でいたのか水を含んだ凍結状態でいたのかは定かではないと著者らは書いている。ただ、コケ自体が湿っていたため、少なくともある一定以上の期間はクマムシは水を含んだ凍結状態でいたのだろう。クマムシは高い凍結耐性をもつものも多いのだ。クマムシのこの凍結モードはクリプトバイオシスのなかのクライオバイオシス(凍眠)というもの。


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クマムシのクリプトバイオシスとその種類


クマムシのような動物でも数十年単位で生存できることが報告されたことで、より長期間にわたって永久凍土中などに生きたまま閉じ込められているクマムシがいる可能性も感じさせられます。クマムシのような高等生命体が火星、エウロパ、エンセラドゥスなどで眠っていたとしても、不思議には思わない。個人的には。


【参考書籍】

クマムシ研究日誌


【関連記事】

「クマムシに外来遺伝子17%」は真実か

クマムシトリビア総集編



※本記事は有料メルマガ「むしマガ」325号「クマムシが30年ぶりに覚醒」の一部です。

クマムシ博士のむしマガVol. 325【クマムシが30年ぶりに覚醒】

2016年1月10日発行
目次

【1. はじめに「クマムシが30年ぶりに覚醒」】
南極クマムシが30年の時を経て復活した。

【2. むしコラム「新産業で激変を強いられる街と人」」】
「クマムシに外来遺伝子17%」という報告の妥当性を探る。

【3. Q&A「クマムシ細胞は老化するのか」】
クマムシに見られる防御機構はクマムシの老化を抑えるのだろうか。

【4. おわりに「クマムシの味は」】
今年はクマムシの実食企画が浮上。クマムシを育てて食べるための計画を紹介。

【料金(税込)】 1ヵ月840円(初回購読時、1ヶ月間無料) 【 発行周期 】 毎週

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「クマムシに外来遺伝子17%」は真実か


クマムシは緩歩動物門を成す動物群である。系統上は節足動物や有爪動物(カギムシ)に近いとされているが、まだこのあたりの議論は続いている。クマムシは高い乾燥耐性やその他の環境耐性をもつ。クマムシの系統上の位置や環境耐性メカニズムを知るためにも、本生物のDNAに書き込まれた遺伝情報を調べることは必須である。私たち日本のクマムシ研究グループは、クマムシのなかでも*1とくに高い耐性をもつ種類のヨコヅナクマムシのゲノム解析を進めてきた。


・ノースカロライナ大学の研究グループによる報告


そんな中、2015年11月23日にアメリカのノースカロライナ大学の研究グループがクマムシのゲノム解析に関する論文を発表した。


Boothby et al. 2015. Evidence for extensive horizontal gene transfer from the draft genome of a tardigrade. PNAS (Early Edition)


ノースカロライナ大の研究グループが用いたのは、ドゥジャルダンヤマクマムシという種類。このドゥジャルダンヤマクマムシ、もともとはイギリス・ボルトンの池の底から採集されたものだ*2。イギリスのScientoという会社は、このドゥジャルダンヤマクマムシの系統を通信販売している。本種は入手しやすく、緑藻類を与えることで容易く増やせる。
 

ドゥジャルダンヤマクマムシのゲノム解析結果は驚くものだった。このクマムシのDNA上にある全遺伝子38,145個のうち17.5%にあたる6,663個が他の生物に由来するものだったと結論づけていたのである。DNAは基本的に親から子へと受け継がれるが、他生物のDNAが入り込み定着することもある。他生物からの外来DNAが取り込まれることは水平伝播とよばれ、とくに珍しいことではない。今回の報告で驚いたのは、取り込まれたとされる外来遺伝子の割合である。動物ではゲノム中の外来遺伝子の割合はおおむね2%以下であり、これまでで最も高い割合で外来遺伝子をもつことが報告されていた、乾燥耐性をもつヒルガタワムシでも、9.6%だった*3


ドゥジャルダンヤマクマムシが取り込んだとされる外来遺伝子のうち、9割は細菌に由来するもので、他には古細菌、植物、カビ、ウィルスに由来するものもあった。これを模式的に表すと、以下のようになる(図1)。クマムシのDNAの中に、細菌に由来するDNAが入り込んでいることがわかるだろう。


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図1. ドゥジャルダンヤマクマムシのDNAに入り込んだ細菌DNA


これらの外来遺伝子の中にはDNA修復酵素や抗酸化にかかわる酵素をコードする遺伝子も含まれており、ドゥジャルダンヤマクマムシが他生物種から取り込んだこれらの遺伝子を使って環境耐性能力を高めているのではないか、と著者らは主張している。乾燥はDNA鎖切断や酸化を引き起こすため、これに対抗する手段として、外来遺伝子の産物であるこれらの酵素が役立っているかもしれない、というわけだ。さらに著者らは、ドゥジャルダンヤマクマムシが乾燥する際にDNA切断と修復が繰り返される過程で、外来DNAが取り込まれたのではないかと推測している。


・やや無理のある論理構成


私がこの論文を読んで、最初にこう思った。著者らの説明の仕方がやや誠実さに欠けているのではないか、と。


まず、上述したように、このドゥジャルダンヤマクマムシの系統は水辺に住んでいたものである。つまり、ほとんど乾燥しない環境に住んでいたわけで、乾燥による選択圧をうけにくい。実際に、ドゥジャルダンヤマクマムシの乾燥耐性はあまり高くなく、非常にゆっくりと乾燥させないと仮死状態(乾眠)に入れずに死んでしまう*4。本種の乾燥耐性やその他の耐性を調査し報告した論文も、まだない。


それにもかかわらず、著者らはあたかもドゥジャルダンヤマクマムシが一部のクマムシ種と同様に高い乾燥耐性や環境耐性をもっているかのように、論文上で議論している。クマムシの強さを説く上で引用している論文は、私たちのものも含めて耐性が高い他種のクマムシを研究したものである。世間一般、そして、クマムシが専門ではない生物学者が抱く「クマムシ=強い」というイメージを使い、あえて読者がミスリードするような論理展開をしたと思われかねない書き方なのである。


ちなみに著者らは、ヨコヅナクマムシの紫外線耐性を解析した私たちの論文を引用して「クマムシでは放射線でDNA二重鎖切断が起こる」とも書いてあるのだが、我々の論文ではそのようなことを示していない*5。私たちは紫外線照射でクマムシのDNA上にできたチミン二量体しか解析しておらず、DNA鎖が切断されたかどうかは解析していないので、ちょっと不適切な引用をしているのだ。


いずれにしても、ドゥジャルダンヤマクマムシは乾燥をあまり経験しないので、乾燥に起因したDNA切断とその修復によって外来DNAが頻繁に取り込まれることは考えにくい。本種は乾燥耐性が低いので、外来遺伝子が耐性を担保している、というのも無理のある論理である。


・ライバル研究グループからの反論
 

私自身は上述のような懐疑をもったが、国内外のゲノム研究の専門家からは、本論文で示されたデータそのものがお粗末であることが指摘され始めていた。そのような状況の中、ライバルのUKのエジンバラ大学の研究グループから反論が出された。審査つき論文ではなく、bioRxivという論文の仮置き場的サイトでの発表である。ノースカロライナ大の研究グループの論文が発表されてから1週間後のことだ。


エジンバラ大の研究グループは10年ほど前から、今回ゲノムが解析されたドゥジャルダンヤマクマムシの同じ系統を用いてゲノム解析を行なってきた。論文発表こそしていないものの、ドゥジャルダンヤマクマムシのゲノムデータベースをすでに公開していた。なお、ノースカロライナ大の研究グループが発表した論文には、エジンバラ大の研究グループが公開したデータベースについては触れていない。


エジンバラ大の研究グループによる解析では、全部で23,021個の遺伝子が予測された。これは、ノースカロライナ大の研究グループによる報告に比べて15,000個ほど少ない数である。さらに、このうち細菌に由来すると思われる遺伝子は496個だった。こちらも、先行論文で示された6,000個を超える遺伝子に比べて著しく低い数字だ。


また、エジンバラ大の研究グループはドゥジャルダンヤマクマムシのゲノムサイズ(DNA量)をDNA染色による方法*6とバイオインフォマティクス解析の二通りで調べたところ、DNAの塩基数はそれぞれ1.1億と1.35億と推定した。ノースカロライナ大の研究グループも同じ二通りのやり方でゲノムサイズを推定している。以前のDNA染色による方法で推定した塩基数は0.75億1.5億((((Gabriel et al. 2007. The tardigrade Hypsibius dujardini, a new model for studying the evolution of development. Dev. Bil. 312, 545–559. 75Mbはhaploidでのゲノムサイズだったので、diploidの数値に修正した。))))であり、今回のバイオインフォマティクス解析による推定塩基数は2.1億となっており、こちらの研究グループによるゲノムサイズの推定値は手法間で大きな開きがある。


これらの比較をもとに、エジンバラ大の研究グループは、ノースカロライナ大の研究グループが今回報告した「ドゥジャルダンクマムシに存在する多数の外来遺伝子」が、実験ミスで混入した細菌などに由来するものだと主張している。
 

・二つの研究グループの解析結果がなぜ異なるのか


このように、両研究グループのデータと主張は大きく異なる。これは、なぜだろうか。まず、クマムシの回収方法の違いが後のデータの不一致を生んでいることが考えられる。


ドゥジャルダンヤマクマムシは体長が0.3mmほどと小さく、1匹から得られるDNA量はきわめて少ない。よって、ゲノムDNAを解析するには、多数のクマムシをまとめて集めてすりつぶしてDNAを抽出する必要がある。このときにやっかいなのが、培地中で餌として与えている緑藻や、培地に湧いてきた細菌などが混入することだ*7。これらの混入を排除するためには、DNAを抽出する前にはクマムシを絶食させて消化管内の内容物を排泄するまで待ち、念入りに純水で洗浄するのが望ましい(抗生物質を使うのも一つの手)。エジンバラ大の研究グループはフィルターを使い、クマムシ以外の微生物を洗い流している。だが一方のノースカロライナ大の研究グループはフィルターを使っておらず、洗浄のやり方がきわめて甘い*8。これだと、細菌がわんさか混入してもおかしくない。


ノースカロライナ大の研究グループが推定した多数の他生物種由来の遺伝子数は、この混入によって説明がつきやすい。だが、なぜ、そもそも他生物の混入が起きたかどうかがわからなくなってしまうのだろうか。これは、ゲノム解析を行なう際のテクニカルな部分に原因がある。ゲノム解析を行なうとき、まず、ある生物から抽出したDNA鎖を短く切り刻んで断片化する。次に、これらの短いDNA断片を人工的に複製し、それぞれのDNA断片の塩基配列を読む。そのあとで、ジグゾーパズルを作るようにDNA断片どうしをコンピューター上でつなぎ合わせて再構成する。


この技術を使うと、たとえば今回のように、クマムシのDNAに細菌のDNAが入り込んでいるのか、あるいは、クマムシと一緒に細菌が混入した結果として別々のDNAが混ざっているのかが判別しづらくなる(図2と図3)。


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図2. クマムシのDNAに細菌のDNAが入り込んでいる場合


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図3. クマムシと細菌が混ざった場合


図2と図3で調整されたDNA断片を見ると、結果として似たようなDNA断片の構成になっているのがわかるだろう。


ノースカロライナ大の研究グループは、この図3のような細菌の混入がないかを一応チェックしている。同一のゲノム上にクマムシと他生物種のDNAが入っている(図1と図2のような場合)かを調べたのである*9。その結果、ランダムにピックアップした107個の外来遺伝子のうち、104個の遺伝子が同一ゲノム上に存在すると推定された。


だが、エジンバラ大の研究グループは、各遺伝子の塩基の組成の違いや、遺伝子が実際に使われている(発現している)かを調べた結果*10、ノースカロライナ大の研究グループによって示された6,000個以上の外来遺伝子のほとんどが細菌の混入によるものと結論づけた。


興味深いことに、エジンバラ大の研究グループは、上述のノースカロライナ大の研究グループが「ランダムに選んだ」107個のうちおよそ半分にあたる57個の遺伝子は、混入によるものではないと推定している。6,000個以上のたいはんの遺伝子が混入によるものと推定されたにもかかわらず、である。偶然にしては出来すぎた値ではないだろうか。


この他の両者のデータを比べても、エジンバラ大の研究グループのデータと主張のほうが理に適っているように思える*11。もちろん、それとて真実であるとは断言できないし、今後、別の研究グループによる解析も待たれるところだ。


最後に。この両研究グループは、どちらも基本的には進化発生学的な興味でクマムシの研究を行っており、クマムシがもつ高い耐性についての興味は二の次のようだ。だから、耐性はあまり高くないが、飼育が簡便でよく増えるドゥジャルダンヤマクマムシを使っているのだろう。その一方で、私を含めた日本のヨコヅナクマムシゲノムプロジェクトチームのメンバーは、クマムシの耐性への関心のほうが強い。地上最強ともいえるヨコヅナクマムシのゲノムからは、またひと味違った、面白い物語が語られるのではないかと期待している。


【参考書籍】

次世代シークエンサー―目的別アドバンストメソッド (細胞工学 別冊)


※本記事は有料メルマガ「むしマガ」321号「「クマムシに外来遺伝子17%」は真実か」の一部です。

クマムシ博士のむしマガVol. 321【「クマムシに外来遺伝子17%」は真実か】

2015年12月11日発行
目次

【1. はじめに】サイエンスZEROの収録が終わりました
リハーサルではうまくいかず。放送事故だけは避けたい・・・。

【2. むしコラム「「クマムシに外来遺伝子17%」は真実か」】
「クマムシに外来遺伝子17%」という報告の妥当性を探る。

【3. おわりに「いきもにあに参加します」】
これから京都に行ってきます。いきもにあのクマムシさんのお店で待っています。

【料金(税込)】 1ヵ月840円(初回購読時、1ヶ月間無料) 【 発行周期 】 毎週

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*1:現在、クマムシの種類は1200種以上が知られている。

*2:Gabriel et al. 2007. The tardigrade Hypsibius dujardini, a new model for studying the evolution of development. Dev. Bil. 312, 545–559.

*3:Boschetti et al. 2012. Biochemical diversification through foreign gene expression in bdelloid rotifers. PLoS Genet 8(11):e1003035.

*4:ドゥジャルダンヤマクマムシの乾燥耐性については私自身が確認しており、ノースカロライナ大学の研究グループも学会発表で報告しているが、論文発表はまだない。

*5: Horikawa et al. 2013. Analysis of DNA repair and protection in the tardigrade Ramazzottius varieornatus and Hypsibius dujardini after exposure to UVC radiation. PLoS One, 8: e64793.

*6:フローサイトメトリーで測る方法のことを指している。

*7:ドゥジャルダンヤマクマムシやその他のクマムシでも、無菌飼育はまだ開発されていない。

*8:緑藻といっしょにしたシャーレに光を当てて負の走光性を利用してクマムシをビーカーに回収し、何度か水を入れ替えて洗浄している。最終的にはビーカーの底に溜まったクマムシを回収しており、これだと細菌などの混入がかなり起こりそう。

*9:Bridged PCR法により、scaffoldにおいてクマムシと他生物種由来の配列をまたぐ増幅をかけている。

*10:GC content、RNA-Seq、coverageなどのデータをもとに判断している。

*11:ノースカロライナ大の研究グループのデータによると、contigのN50が15.2kb、scaffoldのN50が15.9kb。それにもかかわらず、1Mbもの長いscaffoldも複数存在しており、そのすべてが細菌のデータにマッチしているという指摘もある。

クマムシを研究している高校生の「脚ポンプ仮説」について

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めずらしくネット上でクマムシの話題が盛り上がっています。その話題がこちら。


クマムシの足、実は循環器か 京都の高校生の仮説脚光:京都新聞


私が過去に発表した研究成果よりもはるかに注目を浴びています。こうしてクマムシのことが世に広まっていくのはとてもよいことだし、この木津高校科学部の北澤さんのことは応援したいですね。


さて、この記事によると、クマムシの脚が移動ではなく循環器の役割を果たしているのではないかということを、北澤さんが仮説を立てて実験しているとのこと。さらに北澤さんは、クマムシの休眠(乾眠のことと思われる)では体が縮むため、脚を収縮させることで水分を積極的に放出しているのではないかと考えているようです。この研究発表は、今年8月に行なわれた進化学会の高校生部門で最優秀賞を受賞したもようです。


私はこの研究内容についての発表を聞いていないので、この新聞記事の内容以上のことは分かりません。また、新聞記事がこの研究内容のことをどこまで正確に伝えているかも分かりません。前提の情報が不足しているので、この研究内容をきちんと評価することができないのですが、せっかくなので少しこの件に触れてみようと思います。まず、クマムシについての前提知識から解説します。


・クマムシの脚


クマムシは昆虫ではなく、緩歩動物動物門に属する無脊椎動物です。クマムシは4対8本の脚があります。水を浸した寒天培地の上でのしのしと歩行しますが、第4脚目の2本の脚はずるずると引きずるようになっており、歩行に使われているようには見えません。北澤さんが「移動に使われていない」と指摘する脚は、この第4脚のことだと思われます。


・クマムシのガス交換


クマムシは1200種以上が知られていますが、すべてのクマムシは水生生物であり、周囲に水がなければ活動できません。クマムシはこれといった循環器を備えておらず、酸素は体表から拡散する形で体内に浸透します。クマムシの体長はおおむね1mm以下と小さいため、拡散によって酸素をじゅうぶんに供給できるものと考えられています。


・クマムシの脚は循環器か


それでは、北澤さんが指摘しているように、クマムシの脚は循環器としての役割があるのでしょうか。実はクマムシには昆虫のような硬い外骨格はなく、脚には関節もありません。マシュマロマンやベイマックスのようにぶよぶよとした体の中に、液体がつまっている水風船のようなものとイメージしてもらうと分かりやすいかもしれません。


体の動きは筋肉によって調節されます。体性筋によって脚の内側が引っ張られると脚が収縮します。このとき、体腔内で平衡状態になっている静水圧に逆らって体液が「押される」ために、体内で水流が起こります。この反対に脚を伸ばすことでも水流が起こるので、体腔内で体液が循環するようになります。顕微鏡で観察すると分かるのですが、クマムシの体腔内には貯蔵細胞とよばれる浮遊している細胞があります。クマムシが動くと、この浮遊細胞が体液の水流によって動き回るようすを見ることができるのです。次の動画で、そのようすを見ることができます。



つまり、クマムシは脚を動かすことで体液を循環させて酸素を体内に行き渡らせている、ということが言えます。脚が循環器の役割を担っているとも言えるでしょう。実はこのことは1983年に出版された『The Phylum Tardigrada』という総説に書かれています。北澤さんがこの文献を読まずに「脚には循環器の働きがある」という仮説を立てたのであれば、よい観察と着想をしていたことになります。


・クマムシの乾眠と体の収縮


路上のコケなどに棲んでいる陸生のクマムシは、周囲の水がなくなると脱水して乾眠とよばれる仮死状態になります。このとき、つぶした空き缶のように、クマムシの体も前後で縮み収縮します。この縮んだ形態を樽とよびます。ヨコヅナクマムシが乾眠に移行するようすを撮影した次の動画を参照してみてください。



北澤さんは「(体の)収縮率が一定の比率にあるときに生存する傾向がある」ことを観察したそうですが、これもその通りです。クマムシが乾燥したときに収縮して樽型にならずに体が伸びていると、死んでいる場合が多く、水をかけても復活しません。北澤さんはこのことから「脚を意図的に収縮させて計画的に水分を出している」と、脚ポンプ説を提唱したようです。


ただ、こちらについては、次のような知見があります。まず、クマムシは急速に脱水すると乾眠に入れずに死んでしまいます。つまり、死なずに乾眠に移行するためには、ゆっくりと脱水することが重要なのです。体が伸びた状態に比べ、縮んだ樽型になることにより、体からの脱水をゆっくりにすることができます。体がボール状に近くなるため、体積あたりの対表面積を小さくすることができるからです。


以上が私の意見です。繰り返しますが、北澤さんの研究内容の詳細が分からないので、少しずれたことを書いている可能性があることをご了承ください。いずれにしても、文献へのアクセスや専門家との接触が制限される中で、観察と実験からこのような独創性のある仮説を導き出したところについては、評価に値します。進化学会の審査委員も、回答が用意されているような課題をじょうずに解く力よりも、このように柔軟に発想する力を評価対象にしていたのでしょう。このままクマムシ研究を継続していただければ、個人的にもとても嬉しいです。


・裾野が広がるクマムシ研究


クマムシ研究はマイナーなジャンルですが、2015年6月にイタリアで開催された国際クマムシシンポジウムでは、参加者数が初めて100人の大台に乗りました。同シンポジウムに参加した国内のクマムシ研究者も11名と、過去最高を記録。クマムシ研究者は確実に増え続けています。


そしてもっと驚くのが、クマムシ研究を行なっている中学生と高校生の多さです。この1〜2年でクマムシ研究のことで問い合わせてくる中高生や教員が劇的に増えてきました。私が発行しているメールマガジン「むしマガ」上でも中学生(中学生クマムシ博士と名付けている)が毎月のように実験結果を投稿してきており、それに対して私がアドバイスをしています。中学生クマムシ博士が行なっている「クマムシに対する低酸素の影響に関する研究」の内容は非常にレベルが高く、このまま継続すれば国際科学雑誌にも掲載されるような成果になりそうです。


クマムシ研究人口も増えてきたことだし、バーチャルなクマムシ研究所を設立し、10代のクマムシ研究者やその他のプロ・アマチュアクマムシ研究者を集められれば面白そうだな、と思っています。Facebookグループの中でそれぞれの研究の進捗状況を報告し合ったりとか。どうかな。来年の春にはクマムシ研究会の開催も予定していますし、クマムシ研究の裾野がもっと広がってくれればいいですね。


・クマムシ参考資料


せっかくなので、クマムシについてより深く知りたい人のための参考資料を紹介します。


クマムシ?!―小さな怪物:鈴木忠 著


クマムシ飼育のパイオニア的存在、慶應大准教授の鈴木忠さんによるクマムシ本。クマムシ研究の古い文献情報や図版も豊富。平易な文章で書かれており分かりやすい。


クマムシを飼うには―博物学から始めるクマムシ研究:鈴木忠 森山和道 著


サイエンスライター森山和道さんによる鈴木忠さんへのインタビュー。


クマムシ研究日誌:堀川大樹 著


私のこれまでのクマムシ研究人生を綴った本。クマムシを知りたい人はもちろん、これから研究者を目指す人にもおすすめ。


クマムシ博士の「最強生物」学講座:堀川大樹 著)


クマムシについての記述は3分の1、残りは面白い生きものや研究者について。


クマムシ観察絵日記:ナショナルジオグラフィック
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イラストでおくるクマムシ観察記録。


クマムシ日記
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慶應義塾大学クマムシ研究グループのクマムシ日記。


それから、有料メールマガジン「むしマガ」ではクマムシ研究のQ&Aも充実しています。ちょっとしたクマムシ研究コミュニティとしての役割ももつ媒体なので、よろしければこちらもどうぞ。

ノーベル賞受賞者トウ・ヨウヨウ氏はダンゴムシをつぶしたか

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1951年当時のトウ・ヨウヨウ氏(右)。This image is now in the public domain.


2015年のノーベル医学生理学賞は抗線虫薬剤の開発で大村博士、Campbell博士、そしてトウ氏の三名が共同受賞しました。大村さんは研究もさることながら生き方が格好よい。すでに国内メディアでいろいろと取り上げられているので、ここではトウ・ヨウヨウさんの「抗マラリア薬剤アルテミシニンの開発」について書きます。今年のノーベル賞の中で、個人的にもっとも興味を引いた研究成果でした。


1960年代後半、国家機密プロジェクトでマラリア撲滅のための研究が開始します。このときすでにクロロキンなどの抗マラリア薬剤が存在していましたが、これらの薬剤に対して耐性をもったマラリア原虫が出現。既存の抗マラリア薬剤の効果は弱くなっていました。


中国中医科学院で漢方薬コースを受講したトウさんの研究グループは、2000種以上の漢方薬草からマラリアに効果のある物質を抽出・生成しようと試みます。そして、漢方薬草のひとつであるクソニンジン(Artemisia annua)にたどり着きます。この植物の抽出物をマラリアにかかったマウスに与えたところ、原虫の増殖を抑制し症状を緩和する効果が見られたのです。しかしながら、この実験結果の再現性はあまり芳しくありませんでした。


トウさんらは中国医学に関する古書『肘後備急方』を参照しました。『肘後備急方』は『応急処置法の手引き』という訳になるでしょうか。この本はもともとは葛洪(ガ・ホン)(284年〜346年)によって1700年ほど前に書かれた書物です(トウさんが実際に参照したのは1574年に出版された復刻版と思われる)。彼女はこの中の「青蒿一握以水二升漬絞取汁盡服之(ひとつかみのクソニンジンを2リットルの水に浸し、しぼりとったその水を飲むこと)」という記述に注目しました。


そして、高温処理によりクソニンジンから抽出物を得るやり方だと、抗マラリア活性をもつ物質が失活すると考えました。低温処理で得たクソニンジン抽出物はマウスとサルにおいて高い抗マラリア活性をもつことがわかり、のちにこの活性をもつ実体がアルテミシニンであることを突き止めます。アルテミシニンはクロロキンに耐性のあるマラリア原虫の増殖抑制にも有効でした。アフリカだけでも、この薬剤で毎年10万人以上の命が救われていると推測されています。


さて、トウさんが研究のヒントにした『肘後備急方』ですが、マラリアの症状を治療するために書かれていた内容がなかなか面白い。前述のクソニンジンによる処方の他に、以下のようなものがあります。

鼠婦豆豉二七枚合搗令相和未發時服二丸欲發時服一丸


中国語で、しかも昔の文章なので解読するのがなかなか難しいのですが、この方面に強いむしマガの優秀なメンバーに翻訳をしてもらいました。ここで鼠婦はダンゴムシ、豆豉はトウチです。この一文を訳すと、次のようになります。

ダンゴムシとトウチ二七つを一緒につぶして混ぜる。症状がまだ出ないときはそれを二つ、症状が出始めるときは一つ服用すること。

 

トウさんはこの書物に書かれていた、このダンゴムシも調べた可能性があります。ダンゴムシを何十匹も採ってきて、ぐりぐりとすりつぶす。しぼりとったダンゴムシ・エキスをマラリアにかかったマウスに投与したものの、とくに目立った効果が得られなかったのかもしれない。


この他にも『肘後備急方』の同じページには「五月五日にニンニクの皮を使って〜」という記述もあります。「五月五日」と薬を摂取する時期をわざわざ指定しているのは、各臓器の機能が日周期や年周期をもつという伝統的中国医学の考えに基づいているためでしょう。


ちなみにこの『肘後備急方』を書した葛洪は医学者であり道教学者でもありました。「不老不死の仙人になるための方法」について書いた本もあり、今の時代の視点で見れば彼の言説の一部はトンデモに映りますが、少なくとも1700年前にクソニンジンにマラリアの症状を抑える何かが含まれていたことは見抜いていたわけで、大昔の人々の知恵には感嘆します。


人知れず眠っている古文書の中に、ブロックバスターの種がまだ転がっているのかもしれませんね。


※本記事は有料メルマガ「むしマガ」314号「2015年ノーベル賞を振り返る」の一部です。

クマムシ博士のむしマガVol. 314【2015年ノーベル賞を振り返る】

2015年10月12日発行
目次

【1. はじめに】鶴岡生活

ずっとここに住むのであれば、やっぱり車は必需品ですね。アイニードアカー。

【2. むしコラム「2015年ノーベル賞を振り返る」】
日本人二人が受賞した2015年のノーベル賞。今回は医学生理学賞と化学賞を中心に、受賞内容を振り返ります。

【3. おわりに「クマムシトーク生放送」】
最近のニコニコ・クマムシチャンネルでの生放送には慶應の研究者たちに次々とゲスト出演してもらっています。

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クマムシでも分かる。ノーベル賞候補・ゲノム編集技術「CRISPR/Cas9システム」

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ゲノム編集技術、CRISPR/Cas9。今年のノーベル賞(化学賞あるいは医学生理学賞)受賞候補として大きく注目されているが、仮に今年の受賞が無くても、近い将来確実に受賞することだろう。今回は、この革命的テクノロジーの概要をできるだけ分かりやすく解説する。


ゲノム編集技術


バイオテクノロジーの中で今もっとも注目されているのがゲノム編集技術だ。ゲノムとは、ある生物におけるすべての遺伝子の情報をひっくるめたものをさす。今、このゲノムを意のままに改変することができるようになりつつある。この技術はさまざまな生物学現象のメカニズムを解明する上での重要なツールになるほか、有用な家畜や農作物の作出や、遺伝性疾患の治療などへの応用も期待されている。


従来、遺伝子組換え生物をつくる場合は、外来遺伝子をゲノムの中の特定の位置に入れることが難しかった。これらの遺伝子は運び屋のウィルスなどにもたせて細胞内に注入されるが、ゲノムの中のランダムな場所に入ってしまう。また、ゲノムの中の特定の位置を狙って遺伝子を入れたりその遺伝子を破壊することもできたが、その効率はあまりよいものではなかった。


2013年、ゲノム編集技術に革新がおきた。それが、CRISPR/Cas9(クリスパー・キャスナイン)システムの実用化である。


CRISPR/Cas9システム


CRISPR/Casは細菌や古細菌がウィルス感染を防御するために発達させた免疫防御システムである。このシステムは現九州大学教授の石野良純氏らによって発見された。細菌はバクテリオファージなどのウィルスにより感染され殺される危険に脅かされている。細菌のCRISPR(Clustered Regularly Interspaced Short Palindromic Repeats)システムは侵入したウィルスのDNAをバラバラにし、その中で特定の塩基配列をもつ断片を細菌自身のゲノムに取り込む。こうすることで、それぞれの種類のウィルス特有DNA塩基配列、つまり、IDをコレクションし、記憶することができる。すでに侵入したことのあるウィルスが細菌内に再度侵入すると、細菌がもっているウィルス・コレクションDNAから写しとられたコピー(RNA)がその侵入ウィルスのDNAを照合して見つけ出す。RNAにガイドされて一緒にやってきた酵素Casタンパク質が、そのウィルスDNAをちょん切ってやっつける。こういう仕組みである。


Doudna博士とCharpentier博士の研究室は、CRISPRシステムのタイプ2に着目。このシステムを人類が利用しやすいようにするため、改良・シンプル化を試みた。こうして確立されたこのゲノム編集技術CRISPR/Cas9システムは、様々な生物の遺伝子を改変することを可能にした。ガイドRNA鎖と酵素Cas9が一緒になってターゲットのゲノムDNA上の塩基配列を認識して切断する。下の図のように、ガイドRNA鎖の塩基配列と対応する配列(と隣接するPAM配列)をもつゲノムDNA上の位置が認識され、そこでCas9によってこの場所が切断される。


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このとき切断されたゲノムDNAは修復されるが、このときにDNA塩基配列の一部が欠損したり他の配列が挿入されて変異がおこる(下図左)。また、挿入したい外来遺伝子をCas9らと一緒に細胞内に注入すると、狙った場所にこの外来遺伝子を入れることもできる(下図右)。


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もしCRISPR/Cas9システムを会社のアクティビティに例えたら


すこし話がやや難しくなってきたので、CRISPR/Cas9システムを会社における解雇手続きに例えて説明しよう。

かんぽ商事の営業部はそこそこの業績をあげており、表立った不具合はみえなかった。しかし、決算時に営業部が使用した経費をよく調べてみると、不自然な出費が莫大にあることが判明。経理部のR子は営業部の中の誰かが不正に経費を使用していることを疑い、調査を開始した。そして、ついにD島が架空の領収書を作成して会社の金を横領していることをつきとめた。R子はC村社長を連れて営業部に乗り込んでいった。

R子「C村社長!こいつです!D島が横領の犯人です!」

C村「なに!けしからん!D島、おまえはクビだ!!」

D島「クビ切られた!」


もうおわかりだろう。ここで、


営業部=ゲノムDNA

D島=ゲノムDNA上の特定の場所

R子=ガイドRNA鎖

C村社長=Cas9


である。R子(ガイドRNA鎖)がゲノムDNA(営業部)上の特定の場所(D島)を特定し、一緒に連れてきたCas9(C村社長)によって(クビを)切ってもらったわけだ。もちろん、切断したDNAのところに、新しく外来遺伝子を組み込むこともできる。ダメ社員をクビにしたことによって空いた穴のところに、新しい社員を補充するように。


CRISPR/Cas9システムの長所は、ゲノムDNA上の狙った場所の塩基配列をもとに、これに対応する塩基配列をもつRNA鎖を設計できることだ。この他のゲノム編集ツールとして使用されていたZFNやTALENでは、酵素がDNA塩基配列を認識していた。酵素はタンパク質であり、これを特定のDNA配列を認識するように設計するのは、ひじょうに手間と時間がかかる。CRISPR/Cas9で使われるRNA鎖を設計するのはこれに比べて格段に簡単なのである。


ちなみにCRISPR/Cas9システムの特許は現時点でMITのZhang博士が保有している。だが、特許申請はDoudna博士とCharpentier博士の方が早かった。Zhang博士の方が後出しだったわけだが、ファスト・トラックを使いDoudna博士とCharpentier博士よりも早く特許を取得してしまったのだ。Doudna博士とCharpentier博士は米国特許商標庁に再審査をするように申し立てているが、Zhang博士はずっと前からCRISPR/Cas9システムのアイディアを実験ノートに記しており、自分が特許保有者にふさわしいと主張している。特許をめぐり研究者どうしの泥沼合戦が現在進行中であるが、ノーベル賞にはDoudna博士とCharpentier博士のみが受賞するのではないかと見られている。


ゲノム編集と遺伝子治療


革命的といえるゲノム編集技術の登場によって、私たちの未来は大きく変わろうとしている。効果的な遺伝子治療の展望が開けてきたことも、その一例だ。エイズの治療や予防に、ゲノム編集技術の使用が検討されていたりする。


ヒトエイズウィルスHIVが免疫細胞に感染するとき、免疫細胞表面に出ているある特定の受容体(CD4とCCR5)を足場にして細胞内部に侵入することが知られている。もし免疫細胞の受容体遺伝子を取り除くことができれば、免疫細胞表面に受容体がでてくることがなくなる。つまり、ウィルスの足場がなくなるため、感染できなくなる。ゲノム編集技術によって受容体(この場合CCR5)遺伝子を欠損させた免疫細胞を作製し、それを患者の体内に入れてやれば、エイズ免疫不全の進行を遅らせることができる。このほかにも、チロシン血症1型などの先天性遺伝子疾患患者の治療に、ゲノム編集技術を応用することが考案されている。


遺伝子治療を受けた人の体内では、その人がもとからもっているオリジナルなゲノムをもつ細胞と、ゲノム編集により改変されたゲノムをもつ細胞が混在している。ただし、精子や卵のもととなる生殖細胞系列においてゲノム編集が行なわれないかぎりは、その人の子どもに改変されたゲノムが受け継がれることはない。問題となるのは、この生殖細胞系列や受精卵で、ゲノムが編集された場合だ。これには、様々な倫理的な懸念が絡んでくる。


ゲノム編集がつくる未来


CRISPR/Cas9はバイオ研究の世界でたちまち普及することとなった。これまでにないスピードでゲノム編集に絡んだ研究成果が発表されており、その用途や対象生物も多岐にわたっている。


しかし、いや、だからこそ、このゲノム編集テクノロジーは、使い方次第では人類にとって不幸な未来を招きかねない。そんな警告を、研究者らは発している。ゲノム編集テクノロジーを使うことで、オウム真理教のようなハイテクノロジーを備えたクレイジーな組織が、テロ目的で感染力を高めたウィルスをゲノム編集技術で作り出すかもしれない。これはちょっと言いすぎかもしれないが、ただ、受精卵のときに遺伝子改変をおこない、生まれてくる子どもから疾患原因となる遺伝子を除去するだけでなく、その子の知能や容姿をすぐれたものに変えるのが普通になるような未来は、より現実味を帯びている。


ヒトの疾患を治療するために、生殖細胞や受精卵のゲノム編集をおこない原因遺伝子を除去するアイディアは、以前からある。実際に、実験動物を使った基礎研究も進んでいる。ただし、現段階ではゲノム編集技術の精度は完璧にはほど遠く、ゲノム上の狙った位置ではない別の場所に変異を入れてしまうことも多い。こうなると、生まれてくる子どもが何らかの異常をもってしまう可能性も出てくる。それ以前に、出生前の人間の意思を無視して、その赤ちゃんのゲノム情報を勝手に改変してよいのだろうか?という懸念も生じる。


これらの懸念から、世界の科学者コミュニティは、人の受精卵の遺伝子改変をするのを自重してきた。ところが2015年4月、中国の中山大学の研究グループが、そのような空気を読まずに、ゲノム編集技術CRISPR/Cas9でヒト受精卵のゲノム編集を行なったとする研究論文を発表した。



この研究で使用されたのは、不妊治療クリニックから提供された三倍体の受精卵。これは、ひとつの卵に二つの精子が受精した異常な受精卵であるため、発生して正常な子どもになることはない。倫理的な問題をある程度回避しつつ、ヒト受精卵を用いてインパクトのある実験するために編み出した、研究グループの苦肉の策と思われる。


研究グループは、受精卵のゲノム上にあるベータグロビン遺伝子をターゲットにしたゲノム編集を試みた。ベータグロビン遺伝子の変異はベータサラセミアという先天性遺伝疾患をひきおこす。つまり、ゲノム編集技術CRISPR/Cas9でこの部分の変異遺伝子を正常な遺伝子に置き換えられるかどうかを検討したわけだ。


結果として、実験処理をした86個の受精卵のうち、ゲノム上の狙った場所で目的遺伝子が置き換わっていたのは、わずかに数個だけだった。ゲノム上のターゲット以外の場所で改変が起きていた受精卵も少なくなかった。この結果は、べつに驚くことでも何でもなく、他の動物を用いて行なわれた先行研究の結果から想定された範囲内のものである。科学的な新規性という観点からは、それほどインパクトの高い研究結果ではない。


仮にヒトの受精卵を遺伝子治療する目的でゲノム編集を行なう場合は、100%の確度で狙いどおりに変異遺伝子を除去しなければならない。今回の研究結果は、CRISPR/Cas9システムがまだまだ検討余地のある技術であることを示している(もっとも、研究グループは若干古いバージョンのCRISPR/Cas9システムを使っていたようだが)。研究グループも論文の中で「ヒトの受精卵に対する遺伝子治療にCRISPR/Cas9を使うのはまだ早い」と結論づけている。


この論文発表を受けて、世界中で熱い議論が渦巻いている。もっとも、この研究を行った研究グループも、その研究成果を掲載した中国のジャーナル(中華人民共和国教育部、日本の文科省のような組織がバックアップ)も、一種の炎上マーケティング的な手法で科学界や世間の注目を集めている部分もあるため、今おきている状況は向こうの思う壷になっている、という印象も受ける。


いずれにしても、異常なものとはいえ、ヒトの受精卵を使ったゲノム編集研究が実行されたことで、ヒト受精卵をつかった研究にますます拍車がかかるかもしれない。第二、第三の受精卵を使ったゲノム編集実験が実施されれば、社会からの反発もより大きくなる。そうすると、ゲノム編集の研究分野全体の進展が妨げられかねない。そんな懸念が生じている。アメリカ国立衛生研究所NIHでは、ヒト受精卵を使用する研究には研究費を出さない声明を出した。イギリスでは研究者が政府ににヒト胚を使った実験の許可を申請している。何ができて何ができないのかの線引きを明確にする必要があるだろう。


さて、実は健康な子どもを得る目的では、安全面で大きな不安を抱える受精卵のゲノム編集よりも、もっと現実的な方法がある。それは、着床前診断だ。


着床前診断では初期の発生段階にある胚を扱い、先天性遺伝子疾患の原因遺伝子の有無を調べる。変異遺伝子をホモ(父母から受け継いだ両方の遺伝子型が同じタイプ)で受け継いでいない胚を選択して着床させることで、遺伝子疾患をもたない子どもを授かることができるわけだ。もちろん、このやり方でも優生学の復興につながりかねないとする倫理上の問題も、あるにはある。だが、ゲノム編集に比べれば、こちらはずっと「おだやか」なやり方だ。


ヒューマンからハイスペック・ヒューマンやネオ・ヒューマンに


では、受精卵や生殖細胞にゲノム編集技術のメスが入ることはないのだろうか。これは、今すぐには考えられないが、将来的にはじゅうぶんありえると思う。そして、その用途は遺伝子治療にとどまらず、好きな遺伝子を取り込ませた子ども、つまり、デザイナーベイビーをつくる用途に使われる可能性もある。試験管ベイビーも昔は倫理的に反対する人が多かったが、今では普通に世間に受け入れられている。時代とともに、倫理や道徳の概念は変化するのだ。


現在、先進国では高精度医療(Precision Medicine)の実現に向けた基礎研究がハイスピードで進んでいる。数万人から100万人を対象とした全ゲノム解析結果と各人の健康データや生活習慣をひもづけることで、新たな疾患原因遺伝子や長寿遺伝子などがあぶり出されてくることが期待されている。将来、個人の全ゲノム解析が手軽に行なえるようになり、ゲノム編集技術が改善されて安全性が保証されるようになれば、生まれてくる子どもに「長生き」「病気への抵抗性」「賢さ」を司る遺伝子セットをもたせる文化が生じるかもしれない。子どものファッションを決めるくらいの感覚で、好みの遺伝子をピックアップして我が子に実装させる。そんな世の中がくるかもしれない。


はじめは富裕層がこのテクノロジーを使い、自分たちの子どもを遺伝的なハイスペック・ヒューマンに仕上げる。遺伝的背景に起因した能力に差が出るようになり、遺伝格差が生じる。テクノロジーのコストダウンに応じて、ある国では人口のほとんどがハイスペック・ヒューマンに。こうなると、これまでヒト集団に一定の割合で存在していた遺伝子が、将来はほぼ消滅していたり(疾患原因遺伝子など)、ほとんどの人に備わっていたり(長寿遺伝子など)するだろう。環境による遺伝子の淘汰・選択がおこりづらくなるわけだ。


さらにはヒト以外の生物のハイスペック遺伝子も取り入れ、もはやヒトではない何かに・・・。そう。人類は自らを編集して、ネオ・ヒューマンに進化する。羽毛をはやした学生たちが飛行能力を競う「リアル・鳥人間コンテスト」が開催。いやなことがあると乾いて眠ってしまう博士、「リアル・クマムシ博士」も誕生。そんな世の中に絶対ならないなんて、誰が言えるだろうか。


欲望という名の川がいったんひとつの方向に流れ出せば、止めるのは難しい。ゲノム編集技術は、パンドラの箱を開けてしまったのかもしれない。


ゲノム編集についての一般向けの良書ゲノム編集の衝撃―「神の領域」に迫るテクノロジーが出版された。本書は生物学についての専門知識がなくても容易に読み進められるように書かれており、ゲノム編集を「いろは」から知りたい読者にとって良好な解説書となっている。


ゲノム編集の衝撃―「神の領域」に迫るテクノロジー:NHK「ゲノム編集」取材班 著


クマムシ博士による本書のレビューはこちら。

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こちらはヒトの遺伝子改変について、生命倫理学の専門家による深い洞察が記された一冊。


ヒトの遺伝子改変はどこまで許されるのか ゲノム編集の光と影:石井哲也 著


クマムシ博士のレビューはこちら。

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【追記】


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私が専門としている極限環境動物クマムシにおけるゲノム編集技術の確立のためのクラウドファンディングを行っています。CRISPR-Cas9システムでクマムシの耐性に関わると思われる遺伝子を壊し、耐性の低下が見られないかを検討できます。ただ、クマムシの遺伝子改変技術は未熟なため、研究の最初のステップを行うためのサポートを募集しています。ご興味のある研究者の共同研究も募集しています。


※本記事は有料メルマガ「むしマガ」290号と291号「ゲノム編集がおこす社会変革(前編)(後編)」からの抜粋です。

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【参考資料】

実験医学 2014年7月号 Vol.32 No.11 ゲノム編集法の新常識! CRISPR/Casが生命科学を加速する

今すぐ始めるゲノム編集〜TALEN&CRISPR/Cas9の必須知識と実験プロトコール (実験医学別冊 最強のステップUPシリーズ)

遺伝子医療革命―ゲノム科学がわたしたちを変える

Jinek et al. (2012) A Programmable Dual-RNA–Guided DNA Endonuclease in Adaptive Bacterial Immunity. Science, 337, 816-821

Liang et al. 2015. CRISPR/Cas9-mediated gene editing in human tripronuclear zygotes. Protein and Cell, 6, 363-372

Urgency to rein in the gene-editing technology: Protein and Cell

Engineering the perfect baby: MIT Technology Review

A conversation with Jennifer Doudna on Cas9 and human germline gene editing: Knoepfler Lab Stem Cell Blog

The big blind spot on CRISPR for human embryo editing: PGD: Knoepfler Lab Stem Cell Blog


【関連記事】

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NASAが発表した「火星表面に液体の水が存在」の意味

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Credit: NASA/JPL/University of Arizona


NASAが予告していた「火星に関する重大な科学的発見」の発表が、2015年9月28日(日本時間は29日)に行なわれました。会見内容は「現在の火星表面に液体の水が存在することが示唆された」というものでした。


NASA confirms evidence that liquid water flows on today’s Mars: NASA

Ojha et al. (2015) Spectral evidence for hydrated salts in recurring slope lineae on Mars. Nature Geoscience


ということで、私の予想がしっかりと当たりました。5年前のNASAの会見発表内容も的中させているので、二回連続的中。それでは、改めて今回の発見について見てみましょう。


「液体の水」と「生命」


生命体が棲める可能性のある環境の範囲を、ハビタブルゾーンといいます。ハビタブルゾーンの定義はいろいろとありますが、シンプルに言えば「水が液体で存在しうる環境範囲」となります。火星は水が液体で存在しうる環境を備えた惑星であり、生命体が潜んでいてもおかしくない・・・いや、いるはずだ。と、我々のような宇宙生物学者たちは期待に胸を膨らませてきました。


はたして火星に水は存在するのか。あるいは、過去に存在したのか。NASAは異なるタイプの探査機をつぎつぎと火星に送り、調査をしてきました。そして、2008年には火星探査機フェニックスが地表のすぐ下に凍った水を見つけました。火星内部には多量の水があり、地下に生命が潜んでいる可能性が強く指摘されるようになりました。


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Credit: NASA/JPL-Caltech/University of Arizona/Texas A&M University


2005年にローンチされた探査機、マーズ・リコネッサンス・オービターは、火星の周回軌道を回りながら、主に火星の表面における水の挙動の歴史を観測しています。この探査機には高解像度カメラのHiRISE (High Resolution Imaging Science Experiment)や分光計のCRISM (Compact Reconnaissance Imaging Spectrometer for Mars) が搭載されています。今回、これらの機器を用いた観測により、火星表面に液体の水が存在する可能性が示唆されたのです。


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Credit: NASA/JPL/University of Arizona


火星表面の奇妙な現象「RSL」


マーズ・リコネッサンス・オービターは以前、火星表面にRSL(Recurring Slope Lineae)とよばれる不思議な現象を見つけました。火星の地表の傾斜に狭い線状の地形が、現れたり消えたりするのです。このRSLは暖かくなると現れ、寒くなると消えるといった、季節に関係した挙動を示すことも分かりました。火星表面上には、このRSLが複数見つかっています。


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Credit: NASA/JPL/University of Arizona


Georgia Institute of Technologyの大学院生Lujendra Ojha氏らは、このRSLが現れたり消えたりするのは「地表に液体の水が流れたりしみ出しているから」と考えました。そして、この仮説を検証するため、RSLにどのような物質が存在するかを調べるため、主にCRISMを用いた成分分析を行ないました。


RSLは液体の水によって作られているかもしれない


化学物質は、それぞれに固有の吸収スペクトルを示します。この性質を利用して、CRISMで火星地表の複数のクレーター斜面にできたRSL付近の吸収スペクトルのデータを取りました。その結果、RSLが大きく(長く)発達したときには、過塩素酸塩のような水和塩(過塩素酸マグネシウムや過塩素酸ナトリウムなど)が存在することが示唆されました。このように、時間的にも位置的にも、RSLが出現し拡張する現象にあわせて、これらの水和塩と思われる物質の特徴が観測されたわけです。よって、液体の水も同じ場所にあると考えられたのです。


なぜ水和塩があると、水がそこに存在すると言えるのでしょうか。これは、火星地表付近の塩水が蒸発した結果として水和塩が生じる可能性を示した先行研究を根拠にしているようです。仮にこれらの水和塩が塩水中に含まれていたとすると、きわめて低い温度(場合によってはマイナス70ºC)まで塩水が凍らずに液体のまま保たれることが推測されます(水に塩や砂糖などの溶質を溶かすと、融点が下がっていきます)。


では、この液体の塩水が地表に存在するとして、これはどこからやってくるのでしょうか。氷が溶け出して水が染み出るということが考えられますが、研究者らは、赤道付近のRSLの環境では地表近くで水が氷として存在することは難しそうだと述べています。また、過塩素酸塩の潮解現象(大気中の水蒸気をとりこんで液化させ水溶液になること)により水が供給されるかどうかも、まだ検討の余地があるようです。研究者らは、RSLが存在する火星上の場所ごとに、水が供給されるメカニズムが異なるのではないか、と推測しています。


「火星表面に液体の水が存在する」ことを示す根拠は弱い


ここまで読んで分かるように、研究者らが今回発表した「火星表面に液体の水が存在する」という主張は、直接的に液体の水を採取したり見たわけではなく、水和塩らしき物質の存在から推測したストーリーに基づいています。液体の水の供給メカニズムについても証拠は示しておらず、こちらも憶測でしかありません。つまり、研究者らやNASAの「液体の水がある」という主張を裏付ける証拠は、ひじょうに弱いものです。おそらく、研究者らは今回の研究成果を当初はNatureやScienceといったトップジャーナルに投稿したものの、主張の裏付けが弱いことから論文掲載を拒否され、Natureの姉妹紙であるワンランク下のNature Geoscienceに投稿したのだと思われます。


また、これまでNASAが会見を開いてセンセーショナルに発表した「大発見」は、のちに疑問符のつくものとなるパターンが多いし、今回も油断できない、と思ってしまう面もあります。ただし、今回は研究データ自体が堅いものではないし、そういう意味では逃げ道が作ってあるので、火星に液体の水がずっと見つからなくても当事者はあまり責められないと思いますが。いずれにしても、RSL付近に探査機を送り、そこで直接的に液体の水を検出することが大事です。


色々と書きましたが、今回の研究成果により、火星表面に液体の水がある可能性が以前よりも高まったのは事実でしょう。本研究成果が今後の火星探査計画にポジティブな影響を与えそうです。RSL付近に液体の水が直接的に確認されれば、そこに生命体が潜む可能性も飛躍的に高まります。サンプルリターンで火星生命体を捕獲、なんてことも夢に見てしまう。でも、慎重な心構えをもちつつ、今後の研究に期待したいところですね。


宇宙生物学については、以下の書籍がお薦めです。宇宙生物学分野の幅広い取り組みと歴史が詳細に解説されており、今回の研究でも登場した分光計を用いた惑星の成分分析についても記述があります。


地球外生命を求めて マーク・カウフマン (著))


※本記事は有料メルマガ「むしマガ」313号「NASAが発表した「火星表面に液体の水が存在」の意味」からの抜粋です。

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NASAの「火星における重大な科学的発見」を予想する

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NASAの「火星における重大な科学的発見」を予想する

2015年9月28日(日本時間は29日)、NASAが「火星に関する重大な科学的発見」について記者発表します。


NASA to Announce Mars Mystery Solved: NASA


発表予定時刻から8時間前にこの予告を知り、自分なりに短時間で発表内容を予想してみました。以前、似たようなNASAの重大発表会見の内容(ヒ素細菌)について予想を的中させましたが、今回はちょっと私の専門からずれるため、本記事は眉唾で読んでいただければと思います。


最初に結論から言うと、今回の重大な科学的発見は、火星生命体の発見ではありません。現在の火星探査スペックでは、まだ「生命体が存在する(した)こと」を言い切れるだけの証拠を集められないからです。それでは、何か。それは、ずばり、「火星地表に液体状の水が存在すること」に関する発表だと思われます。


今回の発表内容を予測するにあたり、記者会見に登場するメンバーの専門分野を最大公約数的に絞り込みました。記者会見に登場するメンバーは以下の通り。


Jim Green(NASA本部の惑星科学ディレクター)

Michael Meyer(NASA本部のMars Exploration Programリーダー)

Lujendra Ojha(Georgia Institute of Technologyの大学院生)

Mary Beth Wilhelm (NASA Ames Research Center職員、およびGeorgia Institute of Technologyの大学院生)

Alfred McEwen(University of Arizonaの教授)


ここで、最初の二名はNASAの偉い人なので、今回の研究内容には直接関係ありません。それ以外の三名は、Mars Reconnaissance Orbiter(MRO)のミッションに関わっており、地質学というキーワードで共通しています。さらに、研究論文はNature Geoscienceに発表予定です。地質学関連の研究内容に違いありません。


さらに、これらの三名は火星地表の観察分析を行なっています。とくにOjha氏は学部時代はMcEwen教授と同じUniversity of Arizonaに所属しており、この二人がキーパーソンとみられます。Wilhelm氏は研究のお手伝い的立ち位置ですが、NASA所属ということ、また、メディア慣れしていることから会見に呼ばれているのかもしれません。


Ojha氏とMcEwen教授は2014年に火星表面に観察されるある現象について報告しています。それはRecurring Slope Lineae (RSL) とよばれるもので、直訳すると「繰り返し現れる傾斜の直線群」となるでしょうか(適当です)。


Ojha et al. (2014) HiRISE observations of Recurring Slope Lineae (RSL) during southern summer on Mars. Icarus, 231. pp. 365–376.


下の画像のように、直線状の細い線が傾斜に沿って並んでいますが、これがRSLです。


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Credit: NASA/JPL/University of Arizona



RSLは暖かくなると現れ、寒くなると消える。季節変化によって繰り返し現れたり消えたりするのですね。不思議な現象です。火星上にRSLがたくさん見つかり、しかも火星の場所によって出現頻度が異なる。というのが、2014年に発表された内容です。


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Credit: NASA/JPL/University of Arizona


このRSLが現れたり消えたりするのはなぜなのか。これはもしかしたら、水の流れによってできるのかもしれない。ということで、今回はその謎が解け、RSLの原因が「地表に液体の水が流れたりしみ出しているから」ということをある程度裏付ける証拠を掴んだものと思われます。


ついでに、本研究が関わっていると思われるミッションについて。2005年にローンチされたMars Reconnaissance Orbiterは、火星の周回軌道から火星を探査しています。NASAで推進されているMars Exploration Programの一環です。本探査機のミッションは、火星における水の挙動の歴史を観測すること。水の挙動と生命の存在可能性は密接にリンクしているので、このような研究は重要なのです。


この探査機には高解像度カメラのHiRISE (High Resolution Imaging Science Experiment)や分光計のCRISM (Compact Reconnaissance Imaging Spectrometer for Mars) が搭載されています。HiRISEで火星地表を撮影して小水路の痕跡がないかどうかを観察したり、CRISMで鉱物の化学組成分析を行なうことで、過去から現在に至るまでの水の挙動の歴史を解明しようとしています。鉱物の種類によって水がその場所にどう存在していたか、あるいは作用しているかがわかったりするのですね。また、HiRISEやCRISMでは水の挙動も把握することができるようです。


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HiRISE. Credit: NASA/JPL/University of Arizona


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Image captured by CRISM. Credit: NASA/JPL/University of Arizona


もしも火星の地表に今も液体の水が存在するのであれば、これは大変にエキサイティングなことです。これまで、火星には地下に氷が存在することが確認されていましたが、地表に、しかも液体状で水が存在することになれば、火星表面に生命が存在する可能性も俄然として高まります。ということで、期待もこめて今回の予想を行なってみました。


ちなみに、今回のNASA会見発表で登場予定の一人であるMary Beth Wilhelm氏は、私がNASAエームズ研究所に勤務していたときに同じ施設におり、面識があります。ただし、今回の件では、会見発表内容について、彼女から一切の情報提供を受けていないことを、ここに誓います。


宇宙生物学については下記の本がおすすめです。

地球外生命を求めて マーク・カウフマン (著))


※本記事は有料メルマガ「むしマガ」312号「NASAの「火星における重大な科学的発見」を予想する」からの抜粋です。

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【地球外生命体?】 NASAの会見内容を予想してみる


【追記(2015.9.29)】


NASAの会見は「現在の火星表面に液体の水が存在することが示唆された」というもので、本記事に書いた予想が的中しました。本研究発表について、新たに解説記事を書きました。


NASAが発表した「火星表面に液体の水が存在」の意味


また、今回の予想について少し違っていた点がありました。本記事ではMary Beth Wilhelm氏の貢献度は低いものと予想しましたが、実際には論文の第二著者であり、本研究にかなり大きな貢献をしていました。私がNASAエームズ研究所にいた頃、Wilhelm氏はまったく異なる研究を行なっていたため、このような過小な予想をしてしまい、Wilhelm氏にはお詫びいたします。

TOKYO FMラジオ「クロノス」に収録出演しました

告知を忘れていましたが、6月24日(水)、TOKYO FMラジオ「クロノス」に収録出演しました。


クロノス:TOKYO FM


収録スタジオにて、DJの中西哲生さんに抱っこされるクマムシさん(現在はプレゼント募集は終了しています)。



中西さん、Jリーグ創設期に名古屋グランパスで活躍していた時代の印象が強いのですが、今はラジオの仕事もしていたのですね。クマムシさんと中西さんが一緒に写真におさまっているのを見るのは、なんだか不思議な気分です。


※本記事は有料メルマガ「むしマガ」297号「国際クマムシシンポジウムが始まります」の一部です。

クマムシ博士のむしマガVol. 297【国際クマムシシンポジウムが始まります】

2015年6月21日発行
目次

【1. はじめに】国際クマムシシンポジウム

三年に一度開催される国際クマムシシンポジウムに出発してきます。

【2. むしQ&A「子どもを産まない理由」】
子どもを産まない理由、メルマガ読者さんの生の声を紹介。

【3. おわりに「イメチェン・クマムシさん」】
クマムシさんの新しい姿が完成に近づきつつあります。今後、このイメチェンした新しい姿でクマムシさんの活動範囲が広がりそうです。

【料金(税込)】 1ヵ月840円(初回購読時、1ヶ月間無料) 【 発行周期 】 毎週

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おばあちゃんのクマムシポエム

先日、千葉県立中央博物館でのクマムシ観察会のあと、ひとりの女性が僕のところにやってきました。今年の4月に掲載された毎日新聞のクマムシ記事に触発されてクマムシに興味をもち、クマムシを題材にした詩を書いたというのです。参照されたクマムシ記事はこちらですね。


クマムシ:地球最強の多細胞生物 その生態と耐性の秘密:毎日新聞


この女性、御歳85歳とのことでしたが、実際の年齢よりも十歳くらい若くみえるたいへん快活な方でした。今回の観察会には他に82歳の男性も参加しており、クマムシが文字通り老若男女のハートに響いていることを実感しました。


それでは、こちらの女性が書いた詩を許可を得た上でここに転載します。

「クマムシ」


新聞の頁をめくって
なぞなぞ科学で知ったクマムシ君
一ミリにも見たない小さな体で君達は
ヒマラヤ山中から百五十メートル余りの海底にも臆せず
百度で六時間の熱から放射線にも平気
液体ヘリウムによる、マイナス二六九度にも耐え
真空のカプセルから取り出して、水を与えたら
見事に蘇生した。
その上、百二十年前のコケを水に浸したら
這い出したという生命力


君達は何者・・・・?
どうしてそこまで生にこだわるのですか


クマムシに問うたところで
返事が返ってくるはずもないけれど--
飛びつきたくなる不老長寿の生き神様
ひれ伏してもいい
その不思議な力を私達にも--


まって下さい、自然をこわしたり、争ったり
この星を根こそぎ自分達のものに
しようとするあなた方に
その資格があるでしょうか


今に、
言葉を持たない者達の
声なき声が、湧きあがるでしょう
 

この星が、宇宙から
吐き出されるかもしれないのに・・・・・・そうきっと


その声は、まさか、クマムシ君--


SFの原作になりそうな壮大な世界観ですね。クマムシのフォースを手に入れようとした人間にクマムシやその他の生物が怒り狂い大地を揺らす。地軸が歪んで地球の環境が激変、そこで人類がとった手段は・・・。「風の谷のナウシカ」、「スターウォーズ」、「インターステラー」が混ざりあった世界を想起させます。自分が85歳まで生きられたとして、その歳になってここまでのイマジネーションを発揮できるかどうか。まったく自信がない。


※本記事は有料メルマガ「むしマガ」296号「水の中の小さなクマをさがす」の一部です。

クマムシ博士のむしマガVol. 296【水の中の小さなクマをさがす】

2015年6月14日発行
目次

【1. はじめに】HONZ

おすすめ本レビューサイトHONZでレビュワーをすることになりました。

【2. むしコラム「水の中の小さなクマをさがす」】
池の中にクマムシがいるのは事実。しかし、池や川のように恒常的に水があるような水域からクマムシを見つけるのは、ひじょうに難しい。水辺のクマムシを探しにフィールドワークを行なったようすを紹介。

【3. おわりに「おばあちゃんのクマムシポエム」】
クマムシ観察会が終わったあと、ひとりの女性が僕のところにやってきました。今年の4月に掲載された毎日新聞のクマムシ記事に触発されてクマムシに興味をもち、クマムシを題材にした詩を書いたというのです。

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クマムシバーを一日限定オープンします

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月に吠える通信より


ゴールデン街のバー「月に吠える」で一日店長をすることになりました。場所は「月に吠える」というプチ文壇バーです。

日時:7月4日(土)19〜24時頃(予約不要)
料金:チャージ500円、ドリンク700円〜
会場:プチ文壇バー「月に吠える」
東京都新宿区歌舞伎町1-1-10 新宿ゴールデン街G2通り
http://bar.moonbark.net/


大人の方々のご来店をお待ちしています。クマムシにちなんだドリンクなどが出るかもしれません。どれくらいお客さんが来てくれるかは未知数ですが、もし混雑してくるようであればゆずりあっていただければと思います。


この「月に吠える」の店主コエヌマカズユキさんは、文学を盛り上げるためにこのバーを開いたのだとか。運営しているサイトも、バーのサイトとは思えないほど充実しています。こちらでも、ライターのマナ・コノさんを交えてインタビューしてもらいました。


【前編】宇宙空間でも生きる? 地上最強の生物を愛した男:月に吠える通信


こちらのお店は文壇バーと銘打っていますが敷居は低いので、びくびくせずにいらっしゃっていただければ幸いです。もちろん、女ポケモンや男ポケモンをお持ちの方は、連れてきていただいてかまいません。(何のことか分からない方は「ポケモン 文壇バー」でググってみましょう)


※本記事は有料メルマガ「むしマガ」298号「第13回国際クマムシ学会を終えて」の一部です。

クマムシ博士のむしマガVol. 298【第13回国際クマムシ学会を終えて】

2015年6月29日発行
目次

【1. はじめに】第13回国際クマムシ学会を終えて

先週はイタリア・モデナで開催された国際クマムシ学会に参加していました。三年に一度開催される本学会は、過去三回の参加者がいずれも70人台で頭打ちとなっていましたが、今回は一気に100人の大台に乗りました。今回の国際クマムシ学会のときにも日本人研究者のあいだで日本版クマムシ学会を開こうか、という話合いをしていました。もしかしたら、あと半年後くらいに国内のクマムシ学会を一般公開で開催するかもしれません。やるからには500人くらいの聴衆を集めたい。実現しそうなころにまた連絡しますので、どうぞお楽しみに。

【2. むしQ&A「ヤマトシジミと放射線、議論ふたたび」】
ここ最近、チョウの一種ヤマトシジミを検索して僕のブログを訪れる人がまた増えてきました。僕はこのような疑問をブログやこのメルマガに書いてきましたが、2013年になってこのような疑問に対する反論を含んだ論文が、出版されていました。

【3. おわりに「クマムシバー・イン・ゴールデン街開催決定」】
嘘から出た誠のような話ですが、ゴールデン街のバーで一日店長をすることになりました。場所は「月に吠える」というプチ文壇バーです。

【料金(税込)】 1ヵ月840円(初回購読時、1ヶ月間無料) 【 発行周期 】 毎週

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千葉県立中央博物館でクマムシ講演&観察会

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6月14日(日)に千葉県立中央博物館でクマムシ講演&観察会を開催します。

千葉県立中央博物館

13:00 から14:15までがクマムシ講義、14:30から16:00までがクマムシ観察会となっています。場所は千葉県立中央博物館の講堂/1階ホール。 当日申込先着150名(小学生以上)で参加費無料。近くの方は来てみてくださいね。


※本記事は有料メルマガ「むしマガ」295号「思考力を必要としなくなる時代に向けて」の一部です。

クマムシ博士のむしマガVol. 295【思考力を必要としなくなる時代に向けて】

2015年6月7日発行
目次

【1. はじめに】韓国旅行に行くなら

韓国で64人がMERSコロナウィルスに感染し、そのうち5人の死亡が確認された。韓国旅行を取りやめた観光客も多い。このウィルスに感染するリスクを考察。

【2. むしコラム「思考力を必要としなくなる時代に向けて」】
今は我々の思考力を使う機会がことごとく奪われている。確かにひとつひとつの情報を吟味していたらきりがない。しかしそれでも、考えることを放棄してはいけないと思う。

【3. おわりに「ゴールデン街から」】
ゴールデン街でクマムシ博士が何かするかもしれません。それは・・・

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よいインターネット

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『クマムシ研究日誌』がようやく発売開始になりました。全国の大型書店の理工書コーナーに並んでいます。上の写真はジュンク堂書店藤沢店のもよう。『クマムシ博士の「最強生物」学講座』と一緒に並べてもらって嬉しい。


さっそく『クマムシ研究日誌』が書評サイト「HONZ」で紹介してもらいました。


『クマムシ研究日誌』研究で培われた、生きるための力 - HONZ


本書から伺える堀川氏の一連の考え方や行動力は、まさに起業家精神(アントレプレナーシップ)に基づいている。虫好きの人はもちろん、生き物にあまり興味がない人であったとしても、試行錯誤する堀川氏の研究哲学に接することで、何かしら示唆を得るところがあるはずだ。


レビュワーは研究系クラウドファンディングサイト「academist」代表の柴藤亮介さん。academistの取り組みについては、このブログでも以前紹介しました。


研究活動支援型クラウドファンディングサイトがオープン


柴藤さんとはそこまでの面識はないのですが、両方とも何かしらの活動をしていると、こういう形でお互いにお互いを評価するようになったりして、よいインターネットをしていると実感しますね。いずれacademistにお世話になることもあるかもしれないし、そのときはどうぞよろしくお願いします。


クマムシ研究日誌: 地上最強生物に恋して


みなさまにおかれましても『クマムシ研究日誌』を読了の際にはブログやSNS、はたまたアマゾンなどに感想を残していただけますと幸いです。クマムシ博士はとても喜びます。


※本記事は有料メルマガ「むしマガ」294号「自分で考えて判断することの難しさ」の一部です。

クマムシ博士のむしマガVol. 294【自分で考えて判断することの難しさ】

2015年5月31日発行
目次

【1. はじめに】クマムシ研究日誌発売開始

『クマムシ研究日誌』が発売開始。週末はクマムシや地球外生命体についてのイベントにも行ってきました。

【2. むしコラム「自分で考えて判断することの難しさ」】
人間は常に無数の情報を取り入れて適切な判断をしていかなくてはならない。自分で考えて判断するのは面倒なので、多くの人が判断基準を安易に他人に委ねてしまう。

【3. おわりに「親子出版」】
母親も本を出版しました。そのタイトルは・・・。

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【書評】『テングザル―河と生きるサル』ボルネオの思い出

テングザル―河と生きるサル:松田 一希著 (フィールドの生物学7)


著者の松田一希氏は僕とは北海道大学大学院時代の同じ研究室の出身で、しかも同級生。松田氏は現在、京都大学で特定助教をしている。拙著『クマムシ研究日誌』は、彼が僕のことを東海大学出版会の編集者田志口さんにプッシュしてくれたことで、企画が持ち上がった。


余談だが、彼はイケメンでおしゃれさんでもあるので、女性向けファッション誌『VERY』が開催したイケダン(イケてるダンナ)コンテストでも400人の中からベスト6まで勝ち進んだ経歴ももつ。2016年には情熱大陸にも出演


松田氏は博士課程に進学後、テングザルの生態学研究をスタートさせた。霊長類のような大型哺乳類の生態調査は根気もいるし、データを集めるのもなかなか難しい。データをとりにくい研究なので、博士号をとるのも必然的に困難となる。非常にリスキーな研究テーマを選んでいるわけだが、裏を返せば、そこまでしてでも、彼はテングザルを追いかけたかった、ということだ。


テングザルはボルネオ島の河畔林に棲む。オスは天狗のような鼻をもつために、このような名前が付けられている。夜から朝方にかけては川辺ですごし、昼は森の中に入っていく。つまり、テングザルを追跡するには川上をボートで移動しながら観察するだけでなく、森の中に入っていくことも必要になる。きわめてタフな調査が要求されるが、そこは研究室のボスである東正剛教授の「パワー・エコロジー」の教えに従い、松田氏は突き進んでいた。


このようなパワー・エコロジーの実践により、彼はテングザルの詳細な行動パターンや食性を明らかにするだけでなく、霊長類で初めての記録となるテングザルの反芻行動を発見した。今や押しも押されもせぬテングザル研究の第一人者となっている。


海外を拠点とした生態学研究でたいせつなことは、実は野生生物と向き合う忍耐力だけではない。地元の住民たちといかに仲良くやっていけるかも、非常に大きな鍵となる。松田氏は流暢なマレーシア語を喋るが、これはすべて現地のマレーシア人とコミュニケーションをとりながら徐々に覚えていったのだそうだ。あくまでも対等な立場として、しかし時には舐められないように、うまく接してゆく。円滑な研究活動の遂行は、このようなコミュニケーション能力にも依存するのである。


さて、実は僕も5年ほど前に松田氏がテングザル調査をしているマレーシアのスカウ村を訪ねたことがある。スカウ村は本当に素朴な村で、そこにいた子ども達の目がとても澄んでいたことが印象に残っている。不注意に川の中に入って釣りをしていて、ワニに食べられてしまう人もいる。野外でランチを食べていると羽アリが多数ごはんに落ちてきて、注意していても食物がアリごと口の中に入ってしまう。そんな、ワイルドな場所だ。


乗り合いの車でサンダカンからスカウ村へ
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スカウ村のようす
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スカウ村を流れる川
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スカウ川の上をボートですいすいと進むと、熱帯林特有の甘い匂いがした。


ボート上の松田氏(右)とマレーシア人の助手さん(左)
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カワセミ
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テングザルじゃないサルたち
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ほどなくして運良く、僕らは川沿いの木々にたたずむテングザルを見つけることができた。


木の上で休むテングザル
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テングザルは思ったよりも落ち着いていて、あまりアクションがない。まあ、大型哺乳類はどれもだいたいそんなものなのだろう。


さらに幸運なことに、テングザルだけではなく、野生のボルネオゾウまで発見。


ボルネオゾウ
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ボルネオゾウにかなり近づくことができた。ただし、あまり近づきすぎると攻撃してくるので、一定の間合いをとらなければ危険だという。


そして、生きものとの遭遇はこれだけでは終わらなかった。野生のオランウータンまで見ることができたのだ。


オランウータン
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「ウォッォッォッォッ!」


吠えたのはオランウータンではなかった。松田氏だ。なんと、彼はオランウータンとコミュニケーションをとり始めたのだ。マレー語だけでなく、オランウータン語も堪能に操れるというわけだ。


いつの間にかこのコラムが僕のボルネオ探訪紀となってしまったが、とにかく本書はテングザルの生態だけでなく、ボルネオ情緒を知るにもうってつけの良書である。


※本記事は有料メルマガ「むしマガ」292号「南極クマムシツアー」の一部です。

クマムシ博士のむしマガVol. 292【南極クマムシツアー】

2015年5月17日発行
目次

【0. はじめに】もうすぐイタリア

来月下旬は三年に一度の国際クマムシシンポジウムがイタリアのモデナで開催されます。イタリアは伝統的にクマムシ研究が盛んで、今もモデナ大学のグループが幅広いトピックでクマムシ研究を精力的に進めています。イタリア料理も楽しみ。

【1. むしコラム「南極クマムシツアー」】
南極のクマムシについては1世紀以上にわたって調査されている。南極クマムシ研究の実態をレポート。

【2. 今週の一冊『テングザルー河と生きるサル』】
ボルネオでテングザルの研究に没頭した男の研究の記録。

【3. おわりに「新宿ゴールデン街ツアー」】
新宿ゴールデン街をはじめてめぐってきました。

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クマムシさんのLINEスタンプをつくってみた

今月のはじめに、クマムシさんのLINEスタンプがリリースされました。イラストはイラストレーターの阪本かもさんに描いていただきました。


クマムシさんスタンプ:LINEストア

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すでに多くの方に使っていただき、毎日1000個のクマムシさんスタンプが送信されています。ダウンロードしていただいたみなさま、有り難うございます。


今回のクマムシさんスタンプはLINEでの審査が3ヵ月以上かかりました。投稿論文のそれと同じくらいの期間ですね。でも、リジェクトもされずリバイズの要求もされず、一発アクセプトだったのでよかったです。中には審査に9ヵ月間かかったものもあったらしいし。


言い換えればそれだけLINEに申請されてくるスタンプが多いわけで。それを物語るデータがあります。LINEスタンプ検索で「クマムシ」と入れると、芸人クマムシのスタンプの他に本物のクマムシをモチーフにしたクマムシを含むスタンプがいくつかヒットします。


「ミジンコ」のスタンプも30個以上ありますね。こういうニッチなスタンプですら、これだけの数がある。クマムシさんのスタンプも、この無数のスタンプの渦の中に埋もれそう。


今回は阪本かもさんにイラストを描いてもらったのですが、ちょっと時間が作れたら自分でも何か作ってみたいですね。「イヤなかんじの博士スタンプ」とか。「進捗どうですか」「Nが足りないね」「その話の新規性はどこ?」などイライラして誰も買わないようなスタンプ。・・・やっぱりやめておこう。


あるスタンプが検索をとおして発見してもらうのは困難です。だけれども、そこそこの規模のコミュニティーであれば、そのコミュニティーの内輪で使い回すようなスタンプを趣味の延長線上で作ってもいいかなと思います。大学のサークルとか学会とか。制作のコストもかからないですしね。


というわけで、こちらのクマムシさんLINEスタンプをどうぞよろしくお願いします。


※本記事は有料メルマガ「むしマガ」291号「ゲノム編集がおこす社会変革(後編)」の一部です。

クマムシ博士のむしマガVol. 291【ゲノム編集がおこす社会変革(後編)】

2015年5月3日発行
目次

【0. はじめに】近況

先週から屋内に籠る生活を続けているため、この心地よい天気を満喫できずにもやもやしています。

【1. むしコラム「ゲノム編集がおこす社会変革(後編)」】
欲望という名の川がいったんひとつの方向に流れ出せば、止めるのは難しい。ゲノム編集技術は、パンドラの箱を開けてしまったのかもしれない。

【2. 今週の一冊『クマムシ研究日誌ー地上最強生物に恋してー』】
クマムシにかけた青春。クマムシ博士の研究日誌。

【3. おわりに「クマムシさんLINEスタンプ」】
クマムシさんのLINEスタンプがリリース。巷で好評です。

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【書評】『毒きのこ-世にもかわいい危険な生きもの』著者らの意図にまんまとはまる

毒きのこ-世にもかわいい危険な生きもの


菌類研究者の白水貴博士(美声)監修の本書は、毒きのこのみに焦点を当てて紹介している。きれいなきのこの写真に、多すぎず少なすぎない説明が付記されており、図鑑として眺めていても楽しい。


きのこは担子菌類のものがおもである。きのこの本体は菌糸で、きのこと指しているあの物体は胞子をつくって飛ばすためにつくられる子実体だ。毒きのこが生成する毒は捕食者から身を守るために発達したものかと思いきや、昆虫はふつうにこれらの毒きのこを食べるらしい。


毒きのこの消化酵素は他の生物では分解できないものを分解し、栄養源として吸収することができる。この強力に発達した消化酵素はヒトの腸の粘膜にダメージを与えて腹痛や下痢を引き起こす。身を守るためというよりは、消化能力を向上させた結果として毒になってしまったともいえる(ただ、毒きのこにはオオワライタケのように中枢神経に作用を及ぼし視覚障害、幻覚、精神錯乱をおこすものもあるので、こちらは上述のよう理由では説明できない)。


本書で紹介されている毒きのこの中でもとくに印象に残ったのが、ドクササコだ。

ドクササコ


食べた数日後、末端紅熱症といって、手足の先や鼻、男性器が腫れ、そこに、焼け火箸を刺されたような激痛が、なんと1か月以上も続きます。別名は、火傷のような痛みから「火傷菌」、その苦しみから「地獄もたし」。地獄のような苦しみで衰弱した例も。その上、有効な治療法はないといいます。


なんて危険で魅惑的な毒きのこだろうか。


毒きのこに統一した特徴はなく、見きわめるのは困難だ。毒性分が不明なきのこすらある。また、食用キノコとして親しまれていたきのこに中毒作用があることがつい最近になって判明した例もけっこうある。


菌類の種数は多く、未記載のきのこも無数にある。当然、まだ未知の毒きのこもたくさんあるという。クマムシ研究者の感覚からすると、きのこのように肉眼で見えるサイズのものは分類がひじょうに進んでいるものだと思っていた。きのこ研究もまだまだ奥が深そうだ。本書をながめていて、きのこを見る目が変わった。著者らの策略にまんまとはまったといったところだろうか。


※本記事は有料メルマガ「むしマガ」290号「ゲノム編集がおこす社会変革(前編)」の一部です。

クマムシ博士のむしマガVol. 290【ゲノム編集がおこす社会変革(前編)】

2015年4月29日発行
目次

【0. はじめに】ニコニコ超会議2015に行ってきた

2年ぶりのニコニコ超会議参加。非リ充の受け皿としてのニコニコ超会議についての考察。

【1. むしコラム「ゲノム編集がおこす社会変革(前編)」】
ゲノム編集テクノロジーの発展で人類の社会はどう変わっていくのか。今回はノーベル賞受賞が確実視されるゲノム編集テクノロジーのCRISPR/Cas9システムについて解説。

【2. 今週の一冊『毒きのこ-世にもかわいい危険な生きもの』】
かわいいけれど危険な毒きのこ。本書は毒きのこの魅力を巧みに見せる。

【3. おわりに「地球知的外生命体のかたち」】
地球外知的生命体がいたとしたら、それはどんなかたちでどんな文明をもつのか。こんな議論を真面目にしている研究者集団がいる。

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