腐った卵の匂いで叶えるコールドスリープの夢
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・腐った卵の匂いとその毒性
温泉に行くと腐った卵のような匂いがすることがありますが、これは硫化水素(H2S)ガスの匂いです。硫化水素は毒性が高く、一定濃度以上の硫化水素を吸引すると意識を失い、死に至ります。温泉地、火山、下水道施設、化学工業の工場など、硫化水素による死亡事故が度々報告されています。
硫化水素は呼吸代謝を阻害する作用があり、このために高い毒性をもちます。呼吸は、酸素を取り込んでエネルギーを作り出す過程です。呼吸の過程では、細胞内のミトコンドリアでエネルギーを蓄えるATPが合成されます。ATPは生命活動に必要なエネルギーを供給する、電池のようなものです。
硫化水素は、このATPを作り出すのに間接的に必要な酵素の働きを抑えます*1。硫化水素によりATPが作れなくなる、つまり、生命活動に必要なエネルギーを生み出す電池が無くなってしまうため、死んでしまうのです。
このように、硫化水素は、呼吸という私たちにとって最も重要なシステムを停止させる、すなわち、代謝を止めてしまう恐ろしい毒物です。
しかし、アメリカの研究者らは、硫化水素のこの「代謝を止める」という働きを利用して、医療に役立てることができないかと考えました。
・硫化水素で仮死状態を作り出す
論文はこちら。
H2S Induces a Suspended Animation-Like State in Mice
研究者らは、人が低濃度の硫化水素を吸引すれば、死に至ることなく低代謝状態/低体温状態に移行するという仮説を立てました。硫化水素の処置によって人工的にこのような状態を誘導できれば、大けがをした後や大手術の時に、患者のダメージを極力抑えられることが期待されます。また、移植用臓器の保存方法にも応用可能になるかもしれません。
研究グループはこの仮説を検証するため、低濃度(80ppm)の硫化水素ガスをマウスに吸引させ、マウスの代謝状態の変化を調べました。その結果、硫化水素を吸引させるとマウスの代謝が下がるとともに体温が低下し、まるで冬眠のような状態になることを報告しています。
マウスは80ppmの硫化水素(酸素濃度は17.5%)を含んだ空気を吸引すると、5分後には酸素消費量が通常状態時の50%、二酸化炭素産生量は40%にまで低下しました。さらに6時間後には、両者ともに10%まで下がりました。このときの呼吸回数は、1分間あたり10回でした(通常では120回)。
硫化水素をマウスに吸引させると同時に、周囲の温度を徐々に下げていくとマウスの体温もつられて低下しました。例えば、周囲の温度を8ºCに下げた場合では、マウスの体温は10ºCほどにまで低下しました。一方、通常の空気を吸引しているマウスでは、環境温度が低下しても体温の低下は見られませんでした(下図)。これは、私たち恒温動物が、環境温度の高低に関わらず体温を一定に保つ機能をもっているからです。つまり、硫化水素を吸引すると、恒温動物の体温調節機能が失われることが分かりました。
図: 環境温度変化に対するマウスの体温変化。通常環境:赤線、硫化水素環境:青線。
マウスに見られるこの代謝低下と体温低下のパターンは、冬眠動物が冬眠に入る過程で見られる現象と一致していました。つまり、硫化水素によって冬眠のような状態に人工的に誘導することができたことになります。
硫化水素を吸引させたマウスを元の通常環境に戻すと、代謝も体温も元通りに回復しました。回復後の行動テストの結果、障害などの異常は見られませんでした。
ただ、硫化水素吸引後のマウスの長期的な影響は観察していないので、その後に本当に障害が出ないかは不明です。また、この研究では最長で6時間までしかマウスに硫化水素を曝露していません。憶測ですが、この程度の濃度の硫化水素でも、マウスに長時間暴露させると死んでしまうため、6時間だけ硫化水素を暴露した際のデータを発表したもと思われます。
いずれにしても、上述のような医療目的のために、硫化水素で一時的に人体を低代謝/低体温状態にすることは将来的に可能になるかもしれません。冬眠研究の成果とも併用し、代謝調節に関わる各因子に働きかける物質を丹念にチェックしていくことで、長期間の低代謝状態を実現できるような薬剤ができる可能性もあります。このような薬剤は医療以外にも、惑星間移動時のコールドスリープ技術の確立に貢献することでしょう。
【関連論文】
*1:電子伝達系のシトクロムcオキシダーゼの機能を可逆的に阻害する