クマムシ博士のむしブロ

クマムシ博士が綴るドライな日記

アカデミック・ラブ

 四月上旬、北関東のとある学園都市でもようやく桜が咲き始めた。それと同時に、この街に植えられている多数のスギに由来する花粉が、少なくない市民を攻撃していた。


 T大学は、そんな街の一角を占める総合大学である。日本でも有数の広大なキャンパスを擁し、学術面でもノーベル賞受賞者を輩出するなど、誇らしい実績をもつことで知られている。


 そんなT大学の片隅に位置する建物内に、動物生態学研究室がある。この研究室では、昆虫から脊椎動物に至るまで、さまざまな動物についての生態学的研究が行われている。


 毎年4月には、動物生態学研究室では新歓コンパが催される。この年に新しく動物生態学研究室に配属された学部四年生は三名、修士一年生は二名である。学部四年生は全員男、修士一年生は男一名と女一名。研究室で開催される新歓コンパの目的は、表向きは文字通り「新入生を歓迎し親睦を深める」というものだ。コンパの席では研究室のメンバーが自己紹介をし、食べたり飲んだりしながら円滑な人間関係を構築していく。


 だが、男性研究室員にとっては、これとは異なる明確な目的が、この新歓コンパにあった。それは、新入生の女の子にツバを付けることである。


 通常、理系の研究室では男女比が圧倒的に男側に偏っている。このような条件下では、男性陣の間で女性メンバーを巡る奪い合い、つまり雄間闘争が起こる。T大動物生態学研究室でも、研究室員の男女比は三対一と偏っており、例に漏れず雌をめぐる雄間闘争が起きる運命にある。


 よって、彼らににとっての新歓コンパの至上命令は、いかにして自分が他の男性陣をおさえて有利なポジショニングをとり、新入生の女の子にアプローチするか、ということになる。


 今回、新入生の中で女の子は、修士一年生の竹園紗季、ただひとり。竹園紗季は学部時代、東京にある国立女子大学の生物学科に在籍していた。彼女はガの行動生態学に興味があったが、所属学科には生態学の研究室が無かったため、大学院からT大動物生態学研究室に入ってきたのだ。


 女子大出身の紗季は、急に男性ばかりの環境に身を置かれたことで、少し緊張している様子だった。都会の洗練された凛とした雰囲気を醸し出す彼女の存在は、T大動物生態学研究室の中で、少し浮いて映った。しかし、純白のブラウスにかかる黒いネクタイには、ガの刺繍が大きく施されており、彼女が年季の入った虫屋であることを示唆していた。


 「ガ、好きなんだ?」


 修士課程二年生の大鷲京太が、お調子者キャラを全面に出しながら自分の椅子ごと紗季の隣に移動し、話しかけてきた。他の男性研究室員を出し抜いての、先制攻撃である。


 「このガのネクタイ、自分で作ったの?それとも、どこかで買ったの?」


 「えっと、アーティストが昆虫をモチーフにした作品を展示するイベントがあって、そこで買ったんです......。「むしむし大学」っていうイベントなんですけど......。このガはクスサンで......」


 「へぇ。オレ、猛禽類の研究が専門だけど、虫も好きなんだよね」


 「そうなんですか?」


 「うん。でも、このガの刺繍、本当によくできてるね。ちょっと触ってもいい?」


 「えっ」


 京太は、自分の右手を紗季の胸元に近づけた。他の男性研究室員たちを一気に突き放すため、準求愛行動ともいえる接触アプローチ戦略を展開したのである。この戦略が上手くいけば、紗季との距離を一瞬にして縮めることができる。


 だが、そうはうまくいかなかった。これを黙って見ていられなかった、研究室員がいたのだ。研究室内ヒエラルキーの最上位に君臨するポスドクの観音台則夫である。


 「大鷲、おまえ、そんなことするから彼女いない歴二十三年なんだぞ。ちったぁ女心勉強しろや」


 「えっ?なんスか?オレ、ちょっと竹園さんと昆虫について語ってただけっスよ」


 京太と則夫の闘いが始まった。しかし、この雄間闘争ではヒエラルキー上位の者が圧倒的に有利である。闘争は則夫のペースで進む。


 「竹園さん。こいつねぇ、さっき昆虫好きをアピールしてたけど、ラボで企画している昆虫採集旅行に参加したこと一度も無いんだよ。うそなの、うそ」


 「い、いやっ、最近、昆虫好きになったんスよ!本当っス!」


 「それじゃあ、お前、俺の研究材料のキチョウの学名言ってみろよ」


 「えっ...と......」


 「Eurema hecabeだよ。ほら、昆虫のこと全然知らねーじゃん」


 声を出さずに苦笑いするだけの紗季を前に、則夫は続ける。


 「大鷲さぁ、女心もそうだけど、本業の自分の研究テーマについても、もっと勉強しろよな。この前の進捗セミナー発表でも、データの取り方が全然ダメダメだったし。サンプリングする前に、どのくらいのサンプルサイズが必要かとか、どの解析手法を採用するかとか、ちゃんと検討しとけっつーの」


 「あ...はい......」


 「鳥の研究は、ただでさえデータ取りにくいんだからよ。おまえ、ドクター行きたいって言ってるけど、それだと何年かかっても学位とれないよ?わかってる?」


 「......」


 「竹園さんもこれから分かってくるだろうけど、研究ってやっぱストラテジーが重要だからさ。ま、その辺は俺に聞いてくれれば何でもアドバイスするから、遠慮なく絡んできてよね。同じ虫屋どうし、同じ鱗翅目屋どうしだしさ」


 則夫はアカデミックなアドバイスをするように見せかけて、京太をとことんディスった。京太が女性から人気がなく、さらに研究室内のヒエラルキーが低いことをアピールすることで、相対的に自分がいかにオスとしての力があるか、そして優れているかを、これでもかと紗季に見せつけたのである。グループ内の下位のサルが自分に完全降伏するさまを、晒したわけだ。


 結局、則夫の思惑通り、紗季は則夫が京太よりも質の高い魅力的なオスとして認識するようになった。新歓コンパは、則夫が研究室内ヒエラルキーでの自らの地位を利用し、紗季にツバをつけることに成功したのだった。


 その後も、則夫はセミナーやミーティングで京太やその他の男性研究室員をディスり続けた。もちろん、自分のオスとしての優位性をアピールするためだ。研究室内には、教授をのぞいてはポスドクの則夫がヒエラルキーの最上位を占める。


 男性大学院生たちは、誰も則夫を敵に回して紗季にアプローチすることを許されなかった。サルのグループ内で、力のあるボスに誰も逆らえないのと同じだ。


 則夫は、紗季の研究も積極的にサポートした。彼女が野外調査をする際には自家用車を出したり、研究のディスカッションと称して二人きりでファミレスでの食事に誘った。


 則夫のポスドクとしての給与は、決して高くなかった。それでも、日産マーチで出迎えたり、ロイヤルホストで食事を奢るようことは、京太や他の貧乏大学院生には、決してできない芸当であった。研究室内には、オスとして則夫を上回る価値を持つ男性研究室員は皆無だったのである。


 もちろん、大学の研究室の外の世界を見れば、則夫よりもはるかにオスとしての魅力をもつ男性はゴマンといる。外見だって、則夫は決してイケメンとはいえない。だがしかし、日本の大学院生は、日夜研究をするので忙しく、研究室の外部の人間と接触する機会がきわめて乏しいのである。よって、人間関係は研究室内ですべて完結するため、恋人候補も研究室内のメンバーに限られてくる。


 研究室内でもっとも質の高い異性に魅かれるのは、当然の帰結なのだ。それは、紗季も例外ではなかった。研究室というきわめて閉鎖的な環境でしか異性の質をジャッジできない条件下に置かれたため、則夫のことをオスとしてきわめて頼れる存在として、いつしか憧れるようになっていった。


 新歓コンパから四ヶ月後、お盆を前もそて紗季と則夫は交際することになった。京太の心の叫びを代弁するかのように、けたたましく鳴くセミたち。


 そして、三年が経過し、また新しい春がきた。T市民が待望していた、T市と東京を結ぶ鉄道路線が、ついに開通した。この春、大鷲京太は博士課程三年生になっていた。


 この間、京太に恋人が出来たことは一度としてなかった。彼女いない歴も二十六年間に更新した。動物生態学研究室に、紗季以外に好みの女の子がいなかったわけではない。だが、アタックしたところで振り向いてくれる女の子がいるようには感じられなかった。そしてなにより、京太にはアタックする意欲そのものが失われていたのである。


 日頃から則夫にさんざんコケにされ続けた京太は、研究室内ヒエラルキーの下位から脱することができなかった。このようなヒエラルキー地位にいる限り、周囲からはオス的魅力に欠けるダメ男子として見なされてしまう。女の子からモテなくなるのだ。


 こうなると京太自身も、研究室内での自分のヒエラルキー地位と非モテ度合いを、嫌でも認識せざるをえなくなる。すると、ますます自信が失われる。自信が失われると、オス的魅力も失われていく。学年が上がっても下位ヒエラルキーから脱することができず、ますますモテなくなる。


 京太の身に起きたこの現象は、ネガティブ・モテ・フィードバック (NMF) とよばれる。NMFは、隔離された閉鎖的個体群内で生じやすい。理系研究室は、そのような閉鎖的個体群の代表例である。


 NMFに陥り、セミの幼虫のような地中生活を余儀なくされていた京太だったが、今年は大きな転機が訪れた。則夫が研究室を去ることになったのだ。


 教授が科研費を獲得することができず、則夫をこれ以上ポスドクとして研究室が雇えなくなったのだ。則夫はアカデミックポストに就くことができず、東北の小さな博物館で非常勤の学芸員として働くことになった。そしてこの異動が引金となり、則夫と紗季が別れることになったのだ。


 研究室内でボスザルとして君臨していた則夫がいなくなったことで、京太がヒエラルキーの最上位に進出できるチャンスが出てきた。さらに、紗季も今やフリーの存在だ。じゅうぶんに栄養を蓄えたセミの如く、京太は長い地中生活に終止符を打ち、高々とそびえる桜の木に登る準備を始めた。羽化をするまで、もう秒読み段階だ。


 ポスドクの則夫が去ったことで、博士課程三年生の京太が研究室内での最上級生となった。新歓コンパやラボミーティングでは、最上級生である京太が主に仕切ることになった。


 京太は思い出していた。新歓コンパやラボミーティングで、自分が則夫にさんざんコケにされ続けたことを。


 「オレがあいつにやられたことを、後輩にはしたくない」


 などとは、京太は微塵にも思わなかった。


 則夫が自分にしたことを、そのまま後輩にもする。そう固く誓っていた。


 「後輩たちを徹底的にコケにしよう。則夫が自分をコケにすることで研究室内ヒエラルキー最上位の地位を保ち、自分が紗季や他の女の子に手出しできなくなったように」


 その信念のもとに、新歓コンパでは後輩の男性研究室員を容姿から性格に至るまで、徹底的にこき下ろした。ラボミーティングでは、後輩の研究能力だけではなく人格までも否定した。とりわけ、野外調査直前の京太のディスりは熾烈を極めた。野外調査期間中、京太は研究室を留守にする。その間に、他の男性研究室員がつけ上がるのを抑制する必要があるからだ。


 「オレはオオタカの研究者だ。オオタカは肉食だ。だからオレも肉食だ。そして最強の肉食男になるのだ」


 森の中でオオタカのメイティング・ビヘイビアーの観察をしながら、京太は紗季とのメイティング・ビヘイビアーを夢見ていた。


 後輩をコケにし続けた甲斐があり、京太は研究室内ヒエラルキーの最上位を占めるようになった。則夫が去ったことにより空白となったボスザルのポジションを、ついに獲得したのだ。


 それまでは路上の隅に生える干涸びたコケを見るような目で京太を見ていた女性研究室員たちの接し方も、大きく変化していた。自分の研究内容の相談を京太に持ちかける女子の後輩が、出現したのである。京太の研究能力が、この短期間で大きく向上したわけではない。ボスザルとして振る舞う京太のことを、女性研究室員が頼れる存在として認識し始めたのである。


 オスとしての魅力が現れ始めた京太は、自信も出てきた。そして、研究室内でよりいっそうボスザルらしく振る舞うようになった。すると、さらに女性研究室員が京太を慕うようになり、プライベートな相談までする女子も出てきた。京太はついに、生まれてはじめてモテはじめ、モテ度も日を追うごとに向上していった。


 京太に起きたこの現象は、ポジティブ・モテ・フィードバック (PMF) とよばれる。NMFと同様に、PMFも研究室のような閉鎖的空間で起こりやすい。則夫も京太も、研究室という閉鎖的な人間関係が存在する空間において、ヒエラルキー下位層のオスをうまく利用し、PMFを創出したのである。


 一見、仲間をディスる男は悪い印象を与えるので、嫌われることはあってもモテることはないように感じる。だが現実には、このような男ほどモテる。テレビのバラエティ番組などでも、他の出演者をディスる「ちょっと感じの悪い」芸能人ほど、実際には人気があってモテるのと同じだ。道徳的で謙虚な男は、実際にはあまりモテない。


 他の女性研究室員と同じく、PMF期に突入した京太を見る紗季の目も次第に変わっていった。紗季はいつしか、研究室内で京太とすれ違うたびに、草原に流れるそよ風が全身を巡るのを感じるようになっていた。自分でも認めたくなかったが、心と体の反応は正直だった。クスサンのネクタイ越しから伝わってくる紗季の胸の鼓動が、京太に届いていた。


 機は熟した。京太は紗季に話しかけた。まずは手堅く、第一稿をサブミットしてみた。


 「この前のプレゼンの時に言ってた解析の問題、もう解決した?」


 「え、いえ、まだちょっと考えてるんです......」


 紗季は少し驚いた表情をしてから目を下に移し、はにかみながら答えた。マイナーリビジョンだ。


 「この子、脈があるぞ」。そう確信した京太は、自信ありげに続けた。


 「あのね、あれはやっぱりNが少なすぎるのが原因だと思うんだよね。Nをもっと増やした方がいいよ」


 「でも、一人で採集しているのでなかなかサンプルがとれなくて......」


 「それじゃ、今度手伝ってあげるよ。」


 「えっ?! でも......」


 レフェリー全員、ポジティブな反応。悪くない。


 D論も目処がついたし、大丈夫だよ。竹園さんももうD2だし、早くデータ取った方がいいからね。 よし、来週に行こう 」


 二人きりでの野外採集にごぎつけた。アクセプトだ。コングラチュレーションズ。


 これを皮切りに、ディスカッションと称した深夜のファミレスデートなど、京太はさまざまな方法で紗季にアプローチを続けた。紗季も自信にあふれた京太の存在に、ますます惹かれていった。


 その後、京太は無事に博士課程を三年間で卒業し、博士号の学位を取得した。卒業後は、T市にあるS総合研究所にもポスドクとして赴任することも決まった。そしてついに、紗季は京太と交際し、半同棲生活をすることに決めた。京太に対しての唯一の懸案事項だった、経済的問題が解決したからだ。


 T市に再び春が訪れた。桜の開花を待たずに、紗季とのメイティング・ビヘイビアーも成立。京太はこれまでの人生で、最良の時代を迎えていた。


 時は流れ、大鷲京太と竹園紗季が交際を始めてから、三年が経過しようとしていた。竹園紗季は京太の指導もあり、無事に三年間で博士課程を卒業。卒業後は、やはりT市にある、昆虫の研究で有名なN資源研究所のポスドクの職に就いた。二人は、T市内にあるアパートで同棲を始めた。


 この二年間、順調な同棲生活を送っていたが、ここのところ、二人の周りには重たい空気が流れ始めていた。京太の勤め先のS総合研究所でのポスドク任期があと三ヶ月で終了するにもかかわらず、次のポジションがまだ決まらないからだ。


 この一年近くの間に、京太は大学の助教や研究所のポスドクなど合わせて十以上のポジションの公募に応募したが、すべて落ちた。書類による第一次審査すら通らなかった。文部科学省による若手研究者対象の奨学生制度である、学術振興会特別研究員になることも叶わなかった。


 公募選考の際に重要なのは、研究業績だ。この研究業績は、具体的には国際科学誌に掲載された論文の本数と質によって判断される。京太の場合、筆頭著者として二報の論文を発表していた。


 一報はT大在籍時に行っていたオオタカのメイティング・ビヘイビアーに関する内容だ。もう一報は、S総合研究所に来てから調査した、関東地方におけるオオタカの分布についてのものだ。いずれも『Journal of Avian Ecology』という、鳥類の生態学に特化した国際科学誌で発表した。『Journal of Avian Ecology』のインパクト・ファクターは2を少し上回るほどであり、生態学関連の雑誌では中堅の部類に入る。


 ポジションの公募における審査の際、論文の質は、その論文が掲載された雑誌のインパクト・ファクターにより判断される。つまり、雑誌のインパクトファクターに論文数をかけたものが、応募者の業績とみなされるのである。


 当たり前だが、各公募では、応募者の中から一人だけが採用される。いくら優秀でも、二番目以下では不採用なのだ。京太の業績はとくに優れたものではなく、書類審査でいつも落とされるのは当然のことであった。公募をかけた側の研究内容と京太の研究内容とがマッチングするケースも、あまりなかった。


 そして、京太には強力なコネもなかった。今も昔も、研究職の公募はコネで決まることが少なくない。京太は、自分よりも業績の少ない人間が、コネで助教の職に決まったケースを何度も見てきた。業績もコネもなく挑む公募が、すべて負け戦になるであろうことは、うっすらと感じていた。


 しかし、まだ最後の望みが残っていた。京太の古巣であるT大動物生態学研究室が、教授の定年退官に伴い、その後釜として助教を募集していたのだ。しかも、今時珍しい、任期のないパーマネントのポジションである。


 パーマネント。ポスドクをはじめとした、すべての任期付研究者が垂涎する響きだ。狭き狭きパーマネントの門をくぐること。それこそが、ポスドク砂漠をさまよう者たちが目指す、最終ゴールなのである。


 パーマネントのポジションをゲットすれば、もう任期が切れて無職になる悪夢を見なくて済む。嫁も見つかる。マイホームも手に入る。この世のすべての苦しみから解放される。皆、そう信じて疑わない。パーマネント、それは果てしない夢でありユートピアだ。


 そのパーマネントのポジションの公募が、自分の出身研究室から出ている。コネという点で、京太はとてつもなく有利な立場にいた。実際に、応募書類を提出する前に動物生態学研究室に挨拶に行ったときも、教授はこう言った。「知らないやつよりも、知っているやつを選びたい」、と。


 だが、京太にはひとつ気がかりなことがあった。動物生態学研究室に在籍時に、京太をさんざんコケにした、あの憎き観音台則夫の存在である。観音台は上っ面だけはよかったので、教授は彼を信頼していた。もし、観音台がこの公募に応募してきたら、教授は自分ではなく、観音台を選ぶかもしれない。そんな不安を抱えていた。


 そこで、動物生態学研究室を訪れた際、後輩である博士課程三年の千現武志を研究室の外に呼び出し、尋ねた。


 「今回の公募、観音台さんは応募してくるのか?なんか聞いたか?」


 武志は、うつむいたまま、おどおどしていた。目を左右に動かし、決して京太の方を見ようとしない。


 無理もない。京太は以前、研究室内で武志のことを、これでもかとコケにしてきたからだ。武志は研究室メンバーの中でも冴えない、大人しい性格の持ち主だったので、京太にとって格好のターゲットだった。


 もともと極端な猫背の武志は、その背中をさらに丸めながら、小声で答えた。


 「い、いえ。多分、観音台さんは応募しないと思います」


 「そうなのか?」


 「観音台さん、研究はもうやめたらしいです。先生が話していました。なんか、どこかの出版社に就職したらしいです」


 (そうだったのか。これで敵はいなくなった)


 京太は、このポジションは自分のものになるという確信を持った。オオタカが縄で縛り付けられた獲物を容易に奪うのと、同じ要領だ。これはいける。そう思った。


 アパートに戻ると、京太は後ろから紗季の肩を両手で掴んで言った。


 「例の公募、もうオレで間違いなさそうだよ」


 「本当に?!」


 紗季は、少し信じられなさそうな目で聞き返した。そんな紗季の不安を掻き消そうと、京太は上機嫌をアピールしながら紗季の肩を揉み出した。


 「マジだって!先生もコネを優先するって言ってたし、他に対抗馬がいないからな」


 「じゃ、今度は期待してる」


 「期待しててよ。それじゃ、どっか食いに行こうか」


 研究作業に追われるポスドクは、自炊をする時間もない。ポスドクカップルの京太と紗季は、夕食をいつも外で済ませる。この日は、T市内のタイ料理屋に向かった。T市には外国人居住者も多く、多国籍料理を楽しめるのも特徴だ。


 「今日は、就職の前祝いだな」


 紗季のグラスにエビスビールを注ぎながら、京太はつぶやいた。


 「はい、カンパーイ。私も研究者として早く安定したいな~」


 「紗季は大丈夫だって。オレがT大に紗季のためのポジションを用意してやるから」


 「調子に乗んなっての!どんだけ上から目線なんだか......」


 「あははは」


 二人は饒舌になった。こんなに楽しい夕食は、いつ以来だろうか。ビールの瓶が、すぐに空になった。


 午後九時をまわり、店内では女性タイ人店員たちがカラオケを大音量で歌い始めた。ねっとりとしたタイの歌を聞いていると、ここが北関東の新興住宅地であることを忘れそうになる。店員らのミニスカートが気になり、京太の視線はついついそちらに行ってしまう。


 「なにジロジロ見てんのよ」


 「いや、見てないって」


 京太は、はぐらかすようにグラスを口に運んだ。紗季を見ると、まだこちらを睨んでいる。胸元のネクタイに鎮座するクスサンも、その大きな目で紗季と一緒に自分を睨みつけているような気がした。四つの目で睨まれた京太は、不意に小さな恐怖に襲われた。


 それから一ヶ月が経過した初雪の日、アパートに一通の封筒が届いた。差出人はT大学。あのパーマネント助教公募の、書類一次審査の結果通知が来たのだ。


 京太がその薄い封筒を開くと、中にはA4サイズの紙が一枚だけ入っていた。紙面には文字が数行だけ印刷されており、余白部分がやたらと目立った。文書の二行目に、こう書かれていた。


 「書類審査の結果、残念ながら貴殿は不採用となりました」


 何度読んでも、そう書いてあった。京太は二次審査の面接への道すら通れず、不採用になったのだ。京太は、直立のまま動けなかった。まるで、液体窒素に放り込まれて瞬間凍結した金魚のように。


 「なぜだ......なんで?......なんでオレが.......なぜ?......なんで?.......なんでだ......??」


 同じフレーズを何度も繰り返した。そして、脳内のすべての神経回路が切断されたように、思考が停止した。その衝撃は、論文をリジェクトされた時の比ではなかった。


 「ただいまー。すごい雪だねー......ん?ど、どうしたの......?」


 いつもと何かが違う。紗季は、何かただならぬ自体が京太に起きたことを察した。


 京太は、死んだ魚のような目をゆっくりと紗季に向けた。そして、テーブルの上に置いた審査結果通知書を、力なく指で差した。


 審査結果通知書を読んだ紗季は「えっ」とだけ声を発し、口を閉じた。1DKの空間は、これまでに経験したことのない重い沈黙に支配された。無音の室内に、時折、雪が落ちる小さな音だけが、淋しく響いた。


 翌日、一通のメールが京太に届いた。教授からのものだった。


 採用できずに申し訳なかった、という謝罪から始まるメールの文章を読み進めていった京太は、再びディープ・フリーズした。


 教授は京太ではなく、あの猫背の後輩の千現武志を助教に採用していたのだ。実は、武志もこの公募に応募していたのである。


 教授が武志を採用したという事実。これは、教授が自分の後釜にふさわしいのは武志であり、京太ではないと考えていたことを示していた。そのことを、京太は受け入れることができなかった。目眩とともに、視界が真っ白になっていくのを感じ、意識が遠のいていった。


 右手に激痛が走り、京太は意識を取り戻した。目の前には無惨に破壊されたVAIOのノートパソコンがあった。無意識のうちに、自分のノートパソコンに鉄槌を下していたのだ。何度も、何度も。


 破壊されたノートパソコンからは、ゴムの焼けるようなにおいが立ちのぼっていた。濃い、敗北のにおいだった。


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 半年後、京太は太平洋に浮かぶO島にいた。


 環境省管轄下の自然保護官補佐とよばれる職に就いたからだ。京太のことを気にやんだ教授が、彼にこの職を紹介したのだ。


 O島は人気のない孤島だが、希少生物の宝庫として、一部のナチュラリストの間で人気のあるフィールドだ。自然保護官補佐の勤務内容は、研究活動というよりも、管理監督業務に近い。自然公園内の管理や監視、そして生物調査が主な仕事である。もちろんポスドクではない。給与は手取りで二十万円を少し上回るほど。契約期間も一年間で、更新はない。


 紗季との遠距離恋愛生活も、すでに五ヶ月目に入った。交通費がばかにならないので、お互いに会うことはせず、LINEと電話で連絡を取り合っていた。


 京太は研究者として復活するために、相変わらずポスドクや助教の公募に応募し続けていた。そして、相変わらず落ち続けていた。しかし、諦めるわけにはいかない。できれば、T市のどこかの大学や研究所でポジションを得て、また紗季と一緒に暮らしたい。そう願っていた。


 ただ、京太は最近の紗季の反応が気になっていた。以前はLINEでメッセージを送ると数時間以内に返ってきたのに、ここ最近は一日以上経っても既読にならないこともあるからだ。


 紗季の携帯電話に着信を残しても、折り返しかけてくることがなくなってきた。何かあったのかを聞いても、「忙しい」の一言だけで、それ以上のことを話さない。まるで、自分の体の周りを分厚い繭で覆ったクスサンの蛹と対峙しているようだった。


 そんな紗季だったが、彼女のフェイスブックには、食べものや研究者どうしの飲み会での写真が頻繁に投稿されていた。写真には、京太の知っている顔あった。


 その写真の中には、あのT大動物生態学研究室で助教のポジションを得た千現武志の姿もあった。しかも、彼は紗季の隣にポジショニングしている。


 写真の中の武志は、数ヶ月前に会った時とは、まるで別人のように映っていた。武志は不敵の笑みを浮かべ、その目は丸眼鏡越しに京太のことを小馬鹿に見下しているかのように見えた。


 「くそ、アイツめ!アイツさえいなければ、今頃はオレが......」


 京太は、頭の中に無数のフジツボがびっしりと張り付いているような感覚に襲われた。重力にまかせて重くうなだれた頭を、上げることができなかった。


 京太の業務は、大半を歩く時間に費やす。歩行をしている間、脳内は自然と紗季のことで埋め尽くされる。


 「紗季のやつ、オレよりもアイツらとの飲み会を優先しやがって。もう、オレのことなんてどうでもいいに決まってる。あと、絶対に何かを隠している。いや、気のせいかもしれない。でも、あの態度はおかしい......」


 半径十km以内に自分以外は誰もいない雄大な自然の中、京太は延々と紗季のことに考えを巡らせた。来る日も、来る日も。


 そして、いくら考えたところで決して答えが出ないことに気づいた京太は、意を決して紗季にLINEで尋ねることにした。「最近、冷たくなった。これは自分の気のせいじゃない。言いたいことがあったら、正直に聞かせてほしい」、と。


 案の定、紗季からはすぐに返信は来なかった。三十分おきにLINEをチェックしていたが、一日、二日と時間が経っても一向に既読にならない。一日が、何十日間にも感じられた。


 そしてメッセージを送ってから三日目、林道を歩いていたときに、ついに紗季からの返信があった。


 「返事遅くなってごめんね。。。今、電話していい?」


 京太はすぐさま、紗季の携帯電話にコールした。紗季が電話に出た。紗季と話すのは、十二日ぶりのことだった。


 「もしもし。連絡、あんまりとれなくてごめんね......」


 「...あるんだろ、話したいこと。言ってくれよ」


 「うん、あのね...ちょっと言いづらいんだけど...」


 「うん」


 「あのね......」


 「......」


 「好きな人ができたかもしれない」


 「..................」


 「ごめんね」


 「......誰だよ」


 「ん........」


 「誰なんだよ?」


 「うん、京ちゃんも知ってる人なんだ......」


 「まさか......」


 「千現君」


 「......やっぱり......、あの猫背メガネかよ......」


 「ごめん......」


 「おまえ、嘘つきやがって。「ずっと一緒にいようね」って言ってたくせに。お前の研究だって、オレがずっと面倒見てきたのに......」


 「......」


 「なんなんだよ...。なんなんだよ? なんなんだよ!!!!」

 
 「......」


 「パーマネントかよ」


 「!?」


 「やっぱり、パーマネントなのかよ??パーマネントがいいのかよ!??ああ??」


 「..............そうだよ」


 「っ?!」


 「京ちゃんも言ってたじゃん。「生物にとって、適応度の期待値が大事だ」って。千現君はパーマネント。だから、これから安定した収入が見込める。若くて研究能力もあるし、このままいけば順調に教授になると思う。でも、京ちゃんは一年契約だし、業績もあまり無いから、このままだとアカデミアに残るのは、正直、難しいと思う」


 「......」


 「専門が生態学だと、ドクターを持ってても潰しがきかないから、アカデミア以外の就職も難しいでしょ。私が適応度一以上、つまり、子どもを二人産んで養っていくのは、このまま京ちゃんと一緒だと難しいんだよ。自分でも分かってるでしょ?」


 「オレは...いずれは...」


 「もう聞き飽きたよ!「世界一の鳥類研究者になる」とか「『Nature』三報はいける」とか「オレのモットーは大きな野望と高い志。「オオタカ」なだけに」とか......!現実を見なよ!!まだファーストが二報しかないし、インパクト・ファクターの合計も五にも満たないじゃない!!」


 「......」


 「京ちゃん、千現君のこと「へっぽこコネメガネ」とか言ってたけど、あのコはドクターとる前に、あの『Nature Ecology』に二報出してるんだよ??コネが無くったって、助教になってたよ、絶対。それに......」


 京太は携帯電話を切った。目の前には暗い森が広がっていた。もはや、自分が世界のどこにいるかも分からなかった。いや、自分が、皆が存在する世界そのものと切り離された、異次元の空間に浮遊しているようにも思えた。


 『パ~マネント~♪ パ~マネント~♪ パ~マネント~♪ パ~マネント~♪パ~マネント~♪ パ~マネント~♪ パ~マネント~♪ パ~マネント~♪ パ~マネント~♪ パ~マネント~♪ パ~マネント~♪ パ~マネント~♪パ~マネント~♪ パ~マネント~♪ パ~マネント~♪ パ~マネント~♪ パ~マネント~♪ パ~マネント~♪ パ~マネント~♪ パ~マネント~♪パ~マネント~♪ パ~マネント~♪ パ~マネント~♪ パ~マネント~♪ パ~マネント~♪ パ~マネント~♪ パ~マネント~♪ パ~マネント~♪パ~マネント~♪ パ~マネント~♪ パ~マネント~♪ パ~マネント~♪ パ~マネント~♪ パ~マネント~♪ パ~マネントォォォ~~~~~~♪♪♪』


 それまで普通に鳴いていたセミたちが突如、「パーマネント」の大合唱を一斉に始めた。


 「やめろおおおおおおーーーーーーっ!!!!!」


 京太は耳を塞ぎ、目を閉じたまま、走った。転んでも、木にぶつかっても。日が暮れ、勤務終了時間が終わっても、森の中を、ただただ、走り続けた。


 その後の京太の消息を知る者は、誰もいない。


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 二年後、花粉が舞い桜が咲く季節が、T市にまたやってきた。


 この春、街には新たな命が誕生していた。


 「本当に君そっくり。ほら、目が二重でこんなに大きくて。僕と全然違う」


 「赤ちゃんは成長したらまた顔が変わってくるし、まだどっちに似ているかなんて分からないよ」


 「いやあ、でも、自分の子どもがこんなに可愛く産まれてくるなんて、信じられないね。でも、よかった。自分に似なくて」


 「あ、そろそろミルクあげなきゃ」


 母親は、ぐずる赤ん坊に授乳を始めた。この世に存在する苦しみを一切知らない赤ん坊は、これ以上無い平穏な表情で母乳を飲み続けた。赤ん坊にかけられたよだれかけに施された刺繍のクスサンも、やはり平穏な表情で母親をじっと見つめていた。


 <終>


※本記事は有料メルマガ「むしマガ」191号〜194号にて発表された「アカデミック・ラブ」を一部加筆修正したものです。


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