クマムシ博士のむしブロ

クマムシ博士が綴るドライな日記

クマムシ集会・イン・パリ


去る2011年8月19日、パリにてクマムシ集会を開催しました。今回は、クマムシ集会のリポートをお届けします。(お店の許可を得て写真を撮影しています。)


★★★★★★★★★★★★


【7:20 pm】


クマムシ集会の会場に到着。この時間でも、パリはまだ明るい。会場は、オペラ座から少し歩いたところにある日本料理店「ふじた」。

パリの日本食料理店では老舗の方で、この日も我々以外に日本人客が何組か来ていた。店内の雰囲気は、昔ながらの寿司屋といったところ。昭和の香りのする落ち着いた店だ。



さて、今回の集会には、多くの参加者が駆けつけてくれた。

以下は、参加者の写真。



その数なんと、500以上。いや、駆けつけてくれたのではなくて、実験室から運ばれてきたのだが。

メッシュの上に、小さな茶色の点々が見えるだろうか。これらが、ヨコヅナクマムシである。このヨコヅナクマムシたち、乾眠状態で代謝が止まっている。つまり、仮死状態であるため、彼らはここに連れて来られたことにさえ気付いてない。いや、ヨコヅナクマムシはメスしかいないので、正確には「彼女ら」か。まぁ、どっちでもいい。

そして、大きなのが1匹。



会津智幸さんが作成したヨコヅナクマムシのぬいぐるみだ。普段は、今の研究室で安全装置として働いてくれている。この第4脚目の形、いつ見ても本物に良く似せたな、と感心する。


さて、人間界からの参加者は、結局私一人。やっぱり、クマムシの集会をネットで告知しても、パリでは人は集まらないよな。フランス人の知人を誘ってもよかったんだけどね。いや、いますよ。リアル知人。本当ですって。

ともあれ、今回の集会は、クマムシたちと私がだらだらと日本食を楽しむ会となった。


【7:30 pm】


フランスに引越してから日本料理店に来たのは、今回が初めて。メニューで日本語を見るのも久しぶり。とりあえず、キリンビールとにぎりの上を注文する。


ビールが出た後、すぐににぎりも出してくれた。早い。



あー、やっぱり寿司は最高。外国の寿司はシャリが残念なものが多いが、ここのシャリは本物の味。お通しの枝豆も塩加減、茹で加減、ともに文句なし。パリでちゃんとした日本食にありつけて、よかったよかった。


それにしても、まさか自分がこうしてフランスに住むことになるとは、以前は想像もしなかった。


私がクマムシの研究を始めたのは、神奈川の大学に在籍していた学部4年生の夏、今からちょうど10年前だ。研究室に配属されたとき、はじめはバッタの相変異やツノゼミの性的二型などをテーマにしようと考えていたものの、テーマのアイディアがまとまらずに何もしないまま夏を迎えていた。

この研究室では当時、臓器の乾燥保存法や、ダイエット効果を促進する音響風呂の開発など、ユニークな研究が行われていた。その前にはクマムシの高圧耐性に関する研究も行っていたことがあり、臓器を乾燥して保存するというアイディアは、クマムシが乾燥した状態で生きながらえる能力をヒントに出されたものだ。

研究室の教授からは、クマムシの話を授業などで頻繁に聞かされていたため、私はクマムシがメジャーな研究材料だと思い込んでいた。クマムシはもう研究され尽くされているだろうから、今さらやってもあまり意義がない。そう思っていた。

しかし夏休みのある日、かつてクマムシを研究していたOBが研究室にやって来て、私にクマムシを見せてくれた。干からびたクマムシが水を吸収し動き始めたのを実際に見たその時、直感的に「これを研究しよう!」という衝動が湧いてきた。

その後クマムシに関する過去の文献をデータベースで検索したところ、予想に反してこの生物の生態や耐性は、それほど研究されていないことが判明した。もともとあまのじゃくな性格なこともあり、マイナーなジャンルの研究をしたいと思っていたため、この条件も、私にとってぴったり合致した。

このようなないきさつで、クマムシの研究を始めたのだったが、その後10年もこの生き物と付き合っていくことになろうとは、当時は想像できなかった。


【8:00 pm】


にぎりの上を完食。続いて、「本日のおすすめ」のさばを頼むことにする。せっかくここに来たからには、寿司を思う存分食べておきたい。



このしめさば、塩味がやや強いが、クセがあって美味しい。

板前さんは、カウンター客に話しかけることもなく、黙々と寿司を握っている。昔ながらの職人気質オーラを感じる。だが、こちらから話しかけると気さくに応じてくれる。



カウンターの隣に座った女性に、かんぴょう巻きとかっぱ巻がそれぞれ15貫ほどが出された。しかし、この女性は、何やら戸惑っている。

話を聞くと、かんぴょう巻とかっぱ巻を、野菜のおかずのような料理だと勘違いしていたらしい。なので、彼女はそれとは別に白飯も注文していた。見ると、茶碗にはまだ大盛りのご飯が残っていた。

この女性、フィンランドから一人でパリに観光に来たという。本当は友人と2人で来るはずだったのだが、その友人が病気で来れなくしまったらしい。払い戻し不可のチケットを買ったため、仕方なく一人でパリに来たのだそうだ。まだ二十代ほどに見えるが、コンサルタント関係の会社を経営しているとのこと。もらった名刺にも、肩書きはCEOと書いてあった。

他にも、彼女が日系の製造業の会社で働いていたとか、昔、フィンランドの自宅で日本人の子供をホームステイで受け入れたことがあるとか、そんな話を聞いた。私がクマムシのことについて知っているか尋ねると、何それ、知らない、と返された。そこでクマムシのことについて色々と説明すると、不思議そうに、そして、興味深そうにこちらの話を聞いてくれた。いや、もしかしたら私を変わった人間だと思いつつも、気遣って優しく対応してくれただけかもしれない。ぬいぐるみは、本当に気に入ってくれたようだったが。



【8:40 pm】


板前さんが納豆巻を握っていたので、つい食べたくなり、これも追加注文する。ついでに、えびと鰻のにぎりも。納豆も鰻も、フランスに来て食べるのは初めてだ。



さすがに食べ過ぎた・・・。


そういえば、今はクマムシ集会の最中だった。一応、話をクマムシに戻そう。


最初にクマムシを自分で見つけた時の感動は、今でも覚えている。多摩川の河川敷でコケを採り、シャーレに入った水に浸して顕微鏡で見ながらしばらく探していると、まるでほ乳類の様に動く影が見えた。確かチョウメイムシとオニクマムシだったと思う。こんな場所から生き物が出てくるとは、と驚きながら何時間も観察していた。今では当たり前のように毎日クマムシを見ているので、もうあの頃な新鮮な気分を味わうことはできないのは、ちょっと残念だ。


学部を卒業した後は、北海道にある大学の大学院に進学した。ヨコヅナクマムシは、札幌市の豊平川に架かる、とある橋の上に群生していたコケから見つかった。修士課程一年の夏だった。



もっとも、その当時はこの種の和名が存在せず、彼らを「ツメボソヤマクマムシ属の一種」と呼んでいた。この発見から4年後に、私がヨコヅナクマムシと名付けたのだった。

博士課程進学後は大学院の研究室に籍を置いたまま、茨城や東京や群馬の異なる研究室に居候させてもらいながら、クマムシの研究を進めた。北海道の研究室にはほとんど帰ることはなく、かなり変則的な研究スタイルだったと思う。指導教官が超放任主義だったのが幸いしたが、本来であれば、私のこんなわがままは通用しなかっただろう。各地の異なる研究室で色々な方に出会って指導を受けたことも、今では大きな財産だ。

ただ、博士課程の時は、博士号を取るのを半ば諦めかけたこともあった。実験室でうまい具合に飼育できるクマムシがいなかったため、クマムシを増やして実験し、データを取ることができなかったからだ。しかし、博士課程二年の秋、ヨコヅナクマムシが藻類を食べることを偶然発見し、飼育方法を構築することができた。おかげでデータも取ることができ、奇跡的に博士課程三年間で学位を取得できた。自分の研究成果を基盤とし、ヨコヅナクマムシを使ったゲノム解析プロジェクトも立ち上がり、クマムシの研究を加速する体制が整いつつあった。

しかし、博士号を取得後は結局ポスドクのポジションを見つけられず、非常勤講師をやりながらクマムシの研究を続けていた。様々な公募に応募したが、ことごとくはじかれた。テクニシャンの募集に出したこともあったが、だめだった。何度公募に出しても、どこにも引っかからない。アラサーにもなって定職にも就かず、一日の大半を、へんてこりんな虫いじりに費やす毎日。こんなのでいいのか。そもそも、自分は研究者に向いていないのではないか。そう自問し続けることも多くなり、いったんアカデミアの世界から離れようとも考え始めていた。

博士号取得から丸一年が経とうとしていた時、面接の末に補欠となった学振PDの事務局から、不採用の通知が届いた。これでとどめを刺されたと思った。当時の研究室の仲間は、落ち込んでいた私に話しかけないように気遣っていた。

その一週間後、応募していたNASAのフェローシップ事務局から、一通のEメールが届いた。書き出しに"Congratulations!"とあった。採用だった。唯一出した国外のポジションへの応募、それも一番ハードルが高いと思っていたNASAのフェローシップに通るとは予想していなかったので、自分も周囲も驚いた。

研究を続けられる環境が得られ、もちろん嬉しかったのだが、それと同時に国内には自分の受け皿が無いのだと悟った。私の学位取得のための研究活動には、当然国の税金がつぎ込まれている。学振DCも貰っていた。しかし、学生時代に築いた資産をプロとして還元できる場が、国内では限られていた。その一方で、アメリカの懐は大きかった。少し釈然としない思いもあった。

アメリカに2年滞在した後、今度はフランスの研究機関から誘いの声がかかった。こっちでクマムシをやってほしい、と頼まれた。だから今こうしてパリに住み、ここでクマムシたちと一緒に寿司を食べていたりする。

思えば遠くへ来たものだ。


【9:25 pm】


食べたいものも食べたし、今回のクマムシ集会は、このへんでお開きに。外に出ると、ようやく空が暗くなり始めていた。店の近くのチュイルリー公園は、まだ多くの観光客で賑わっていた。



この10年間を振り返ってみると、自分はいつもクマムシに導かれて歩いてきたことに気付かされる。文字通り様々な場所を点々としてきたし、多くの大切な人々との出会いもあった。

私はまだ、しがないポスドクの立場だし、今後、アカデミアの世界でずっと研究活動を続けていける保証はない。しかし、全く根拠はないのだけれども、まだ当分はクマムシたちと一緒に歩んでいく気がする。そんな、ちょっと友情にも似た、不思議な縁を感じずにはいられないのだ。

これから先、このへんないきもは、私にどんな世界を見せてくれるのだろう。予想できない未来を、楽しみにしている自分がいる。