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「ヒアリに刺されて年間100人死亡説」を検証する

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ヒアリ Solenopsis invicta. 撮影:松本吏樹郎(大阪市立自然史博物館)(CC BY 4.0)


2017年になって、神戸、名古屋、大阪、そして東京で相次いで発見されている、侵略的外来種のヒアリ(Solenopsis invicta)。ヒアリは人を刺し、確率はきわめて低いものの、ときに死に至らしめることもある。このことから、連日のように報道されるヒアリ発見のニュースは、少なくない人々を不安にさせている。


前回の記事で紹介した、日本語で書かれた唯一のヒアリ書籍『ヒアリの生物学』には、アメリカでは1年間で1400万人ほどがヒアリに刺され、そのうち100人ほどが死亡していると書かれている。*1


ヒアリの生物学―行動生態と分子基盤

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(追記:Amazonで在庫切れの場合、出版社に問い合わせると入手できる可能性があるそうです。出版社のサイトはこちら。)


ヒアリに対して不安を感じる源の大きな部分は、この「ヒアリで年間100人死亡説」に依るところも大きいのではないだろうか。だが、よく調べてみると、この説は、はっきりとしたデータを元にしているわけではないことが、分かってきた。


・「100人説」はどこから


この部分は『ヒアリの生物学』の著者らによる調査が元になっているわけではなく、Taber氏により2000年に出版された別の書籍『Fire ants』を引用したものである。


Fire Ants (Texas a&M University Agriculture Series, 3)

Fire Ants (Texas a&M University Agriculture Series, 3)


たしかに、『Fire ants』には以下のような一文がある。

The number of deaths per year has been estimated at one hundred but is probably underestimated because the possibility of fire ant attack is rarely investigated when the cause of death is unknown.

(クマムシ博士による訳)
ヒアリに刺されて死亡する人数は年間100以上と推定されてきたが、死因不明の場合には、死因がヒアリの可能性かどうかが調査されることは少なく、おそらくこの数字は少なめに見積もられている。


このように、『Fire ants』にはたしかに「ヒアリで年間100人死亡」と書かれているわけだが、この部分にはどの文献も引用されていない。つまり、これは著者であるTaber氏の見解のようだ。だが、この「100人説」の根拠となるようなデータや説明は、『Fire ants』の中には見られなかった。


・文献をたどる


そこで、他にヒアリによる死亡者数のデータを示している文献がないかを探したところ、1989年に出版された、Rhoades氏らによる論文に行き着いた。


Rhoades氏らは、29,300人の医者(救急医、小児科医、アレルギー専門医、かかりつけ医など)にアンケート用紙を郵送し、過去にヒアリに刺されたことによりアナフィラキシーショックを起こした人を知っているかどうかを問い合わせた。


その結果、29,300人のうち8.6パーセントにあたる2,506人の医者から回答があった。回答により得られたケースのうち、84例が死亡したケースで、2例が重篤なケースだった。


これらの84例の報告のうち、重複しているケースを省くと、最終的には致死的なケースは32例となった。このうち少なくとも2例は最終的に回復したとされ、実際に死亡したケースは、30例と見積もられた。


ところで、科学論文やWikipedia(英語版)を含めた少なくない文献に、このRhoades氏らの論文を引用して「ヒアリによる死亡例は年間80ほど」と書かれているが、上述のようにこれは重複したケースを含むものであり、正確な引用がなされていない。おそらく、Abstract(要旨)のみの情報が拾われて記述され、拡散しているのだろう。


話を戻そう。つまり、ヒアリに刺されて死亡した例は、1989年までに、累計ではっきりと判明しているのが30例ということになる。もちろん、このアンケートに未回答のままの医者の中に、ヒアリが原因で死亡した人を知っている人がいるかもしれないし、ヒアリに刺されて死んだのに、死因が心臓発作や原因不明とされているケースもあると考えられる。この30例というのは、あくまでも「最低でもこの数字」というものだ。


また、Prahlow氏とBarnard氏は、1998年までの50年間で、ヒアリに刺されて死亡した人数を、過去の文献調査により見積もった。調査された文献には、Rhoades氏らの論文も含まれる。その結果、累計で少なくとも44人が死亡していたことが判明した。


これらの結果から、少なくとも1998年までは、ヒアリに刺されたことが原因で死亡した例は、年間で1〜2人が記録されていたことになる。これ以降で、ヒアリによる死亡数をきちんと調査した文献は、見つからなかった。


・ヒアリの危険度は


ヒアリによる正確な死亡数ははっきりと分かっていないが、同じように死に至らしめるハチなどと比べることで、その危険性を相対的に推定することはできる。


アメリカ合衆国労働省は、2003年から2010年の8年間で、労働者が作業中に昆虫やクモに刺されたことにより死亡した人数が、累計で83人、年間平均で10人程度だと発表している。この83人のうち、52人(64パーセント)はハナバチ、11人(13パーセント)はスズメバチやアシナガバチ(6パーセント)、7人はクモ、そして3人(4パーセント)はヒアリを含むアリが死亡原因としている。


この結果を見ると、ハナバチなどに比べて、ヒアリによる被害の割合が、思ったよりも低いように感じる。だが、このデータの解釈の仕方には、注意が必要だ。


このデータは労働者を対象にしたものであるため、死亡事案が発生した場所が、農場などに偏っている。つまり、このデータには、農場などの環境を好むハナバチに高頻度で遭遇した結果が反映されているかもしれない。たとえば、公園や自宅の庭が主な行動範囲の子どもの場合では、また別の結果になるかもしれないのだ。
 

・まとめ


今回の調査からは、「ヒアリに刺されて年間100人死亡説」を裏付ける文献は見つからなかった。また、1年の間にヒアリに刺されて死亡する実際の人数についても、知ることはできなかった。


しかし、だからといって、「ヒアリに刺されて年間100人死亡説」をデマとするのも早計だろう。もしかすると、アメリカ国内の専門家の中には、公表されたない何らかの情報を根拠とし、この「100人説」を支持する人が一定数いるのかもしれない。


また、「100人説」を根拠とする公開データが見つからないからといって、「安心してよい」と言うこともできないだろう。いずれにせよ、仮に「100人説」が真実だとして、ヒアリに刺されて死ぬ確率は0.001パーセント以下であり、そこまで神経質になりすぎる必要はないと思われる。


アメリカでは、ヒアリ被害の対策や啓蒙も盛んになされており、以前よりも人々がヒアリに対して警戒するようになっている面もあるだろう。ただ、その一方で、アメリカではヒアリの生息域が拡大するだけでなく、その生息密度も増加している。アメリカの人口も増えており、ヒアリに遭遇する人が増えていない、とも言い切れない。


国際社会性昆虫学会日本地区会のウェブサイトによると、現在、この死亡者数について調査中とのことなので、そのうち、より正確な数字が出てくるかもしれない。


※本記事は有料メルマガ「クマムシ博士のむしマガ」392号「ヒアリの生物学」から抜粋したものです。

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【参考資料】

『ヒアリの生物学』東 正剛、緒方 一夫、S.D. ポーター 著 東 典子 訳

『Fire ants』Taber S.W. 著

Rhoades et al. (1989) Survey of fatal anaphylactic reactions to imported fire ant stings. J. Allergy Clin. Immunol. 84:159-62.

Prahlow and Barnard (1998) Fatal Anaphylaxis due to fire ant stings. Am J Forensic Med Pathol. 19: 137-142.

Pegula and Kato (2014) Fatal injuries and nonfatal occupational injuries and illnesses involving insects, arachnids, and mites. Beyond the Numbers 3: 1-13.

ヒアリに関するFAQ: 国際社会性昆虫学会日本地区会

Kemp et al. (2000) Expanding habitat of the imported fire ant (Solenopsis invicta): A public health concern. J. Allergy Clin. Immunol. 105:683-691.


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【追記】

1. 『ヒアリの生物学』の出版元である海游舎のサイトへのリンクを追加しました。(2017年7月14日)

*1:ヒアリの生物学』には、年間死亡者が80人いるとする説も紹介している。この部分は、Kemp氏らの論文を引用したものだ。そして、このKemp氏らの論文では上に挙げたRhoades氏らの論文を引用したものだ。上述のように、Rhoades氏らの論文で述べている80人という数は重複したケースを含むものであり、Kemp氏は正確に引用していない。

『ヒアリの生物学』でヒアリの生態を知る

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Image: Insects Unlocked (Creative Commons CC0 1.0 Universal Public Domain Dedication)


2017年5月、神戸港で国内では初となるヒアリが発見された。さらに同年6月には名古屋港と大阪港でもヒアリが確認された。ヒアリは原産地の南米からアメリカ、オーストラリア、そしてアジア諸国へと侵入、定着しており、その分布域を拡大している。


ヒアリは針をもち毒を打ち込んで攻撃し、場合によっては人間を死に至らしめるともある。このことから、国内のメディアでも「殺人アリ」ヒアリについて大きく取り上げるようになってきたが、この侵略的外来種が実際にどの程度脅威となりうるのかについて、正確かつ詳細な情報源が限られているのが現状だ。


この生物について国内で入手できる情報源のうち、もっとも豊富な情報を提供してくれるのが書籍『ヒアリの生物学』だろう。


ヒアリの生物学―行動生態と分子基盤

ヒアリの生物学―行動生態と分子基盤


(追記:Amazonで在庫切れの場合、出版社に問い合わせると入手できる可能性があるそうです。出版社のサイトはこちら。)


2008年に出版された本書には、次のような一節がある。

ヒアリは将来日本を侵略するだろうか?答えは「イエス」である。問題は、いつ、どこに侵入するかということだ。


9年前に出版された本書は、まさに今の日本の状況を言い当てていた。今回は、本書からの情報を中心に、この生物の生態、侵略の経過、そして対策などを見ていきたい。


・ヒアリとは


ヒアリは広義には「刺されると火傷のような痛みを起こすアリの総称」だが、狭義には南米原産のSolenopsis invictaのことをいう。ここでも、このS. invictaをヒアリとよぶことにする。ちなみにinvictaとは「強い、やっつけられない」という意味。まさしく、このアリの絶望的なまでのタフさを言い表している。


触角の先に2節からなるふくらみがあることと、お腹の近くの腹柄に2つのこぶがあることが、ヒアリの形態の特徴。


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Image: ヒアリのワーカー. 『ヒアリの生物学』より著者の許可を得て掲載


ヒアリは日当たりの良い場所に巣を作る。原産地の南米よりも侵入先のアメリカなどの方でヒアリが繁栄しているが、これは宅地や公園などの都市環境がヒアリにとって好都合なこともあるようだ。人間がせっせとヒアリのための環境を整えている事実は、なんとも皮肉である。


ヒアリの巣はマウンド状のアリ塚を形成する。


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Image: ヒアリのアリ塚. 『ヒアリの生物学』より著者の許可を得て掲載


日本ではこのようなアリ塚を作るアリはほとんどいないため、もしヒアリがそれなりの規模の巣を作っていれば、これが目印になる。コロニー内のアリの数は数万〜数十万にもなる。つまり、大きなコロニーには、鳥取県の全人口と変わらない数のアリが暮らしているわけだ。


突然の雨に見舞われても、ヒアリは怖気づかない。ヒアリたちは互いに組み合ってイカダをつくり、水たまりに浮いて避難する。恐るべき生存能力。


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Image: TheCoz (Creative Commons Attribution-Share Alike 4.0 International)


他のアリと同様に、ヒアリは巣内に女王アリとワーカーがいる(真社会性)。女王アリは1時間に80個のペースで卵を産み、一生の間に200〜300万個の卵を生産する。ワーカーはすべてメスだが生殖能力はない。ワーカーの大きさは2.5〜6ミリメートルとばらつきがあり、小型ワーカーは主に巣内の仲間の世話や採餌を、大型ワーカーは主に餌となる種子を砕いたり巣を掘ったりする。


ワーカーには、女王アリや仲間の防衛という重要な任務がある。平均して、小型ワーカーは1回の攻撃で7刺し、大型ワーカーは4刺しする。攻撃力は小型ワーカーの方が高い。


女王アリが生殖力をもつ新女王とオス(有翅虫)を産む時期は、ワーカーが1刺しあたりに注入する毒の量は1.5倍となり、攻撃力が増す。この攻撃力増大は、自分たちの血縁者を守る適応的行動だと考えられる。この攻撃力の変化が女王アリからのシグナルにより引き起こされるのか、興味深いところだが、よくわかっていないようだ。



ヒアリの動画


・ヒアリの毒


アメリカでヒアリに刺される人は年間1400万人であり、毎年100人ほどが死亡していると推定された(註: この値は推定値であり、実際の数については議論がある→こちらで検証しました)。ちなみに、日本でスズメバチに刺されて死亡する人は、年間20人ほど。日本国内の交通事故で亡くなるのは4000人ほどだ。


ヒアリに刺されると激痛が走り、刺された箇所が赤く腫れあがる。ヒアリは一度に何度も刺すため、同じ場所に複数の腫れができる。ハチに刺された時には見られない膿疱ができるのが特徴だ。


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Image: ヒアリに刺されたあと. 『ヒアリの生物学』より著者の許可を得て掲載


ハチ目のうち毒を合成するハチやアリのほとんどは、毒成分のほとんどはタンパク質らしい。だがヒアリ毒はアルカロイド毒であるソレノプシンが主成分であり、この生合成経路も備えている。ソレノプシンは膜表面タンパク質の機能阻害や神経間のアセチルコリン伝達阻害を引き起こす。幼児が一度に多数のヒアリに襲われると、この直接的な毒作用で呼吸困難に陥り、死亡することもあるようだ。


通常、ヒアリに刺されても1週間ほどで治癒するが、すでにヒアリに刺されたことがある人は過剰反応を起こし、アナフィラキシーショックを引き起こすこともあり、最悪の場合は死に至ることもある。


ヒアリに刺された時は、漂白剤を同量の水で薄めて患部を洗浄し、かゆみを抑える抗ヒスタミン剤や細菌感染を防ぐ薬を塗っておく。市販の虫刺され薬で良いようだ。万一アナフィラキシーショックを起こした時はエピネフリン(アドレナリン)など、ステロイド薬を注入したりと、病院で内科的処置を行わなければならない。


ただし、ヒアリに刺されて死ぬ確率は14万人に1人(0.001パーセント以下)程度ときわめて低いことを覚えておきたい。


・ヒアリ侵略の歴史


ヒアリが南米からアメリカに侵入したのは1930年代と考えられており、それ以降生息域を拡大し続けている。上述のように、ヒアリにとって好適な日当たりの良い開けた環境が多いことも分布域拡大の原因だが、南米に存在していたような天敵がアメリカにいないことも、ヒアリが新天地で繁栄した大きな理由のようだ。


アメリカでは1950年代から1980年代にかけて、総額1億7千万ドルもの巨額の費用をかけて殺蟻剤を散布するなど対策を講じたが、ヒアリを撲滅することはできなかった。この間、有機塩素系農薬の散布による他生物への悪影響も顕在化し、レイチェル・カーソンによる『沈黙の春』に代表される環境保護運動の盛り上がりもおきた。そして残念ながら、人間や生態系に影響のない殺蟻剤の開発もうまくいかなかった。


結局、アメリカでは原産地よりもはるかに高密度のヒアリが生息することとなり、アメリカから他国への侵入と定着を許すまでになってしまった。アメリカ以外にも中国や台湾など、日本はヒアリ保有国と活発に貿易をしており、ヒアリが知らずに輸入されるリスクに常にさらされている。


・ヒアリの被害


日本では「殺人アリ」としてヒアリへの恐怖が高まっているように見える。確かに、日本でヒアリが定着可能なエリアは関東以南と幅広く、自宅、路上、公園などの日常生活の場で子どもなどを中心にヒアリの脅威にさらされると予想され、人的被害は無視できない。


ただ、日常的にヒアリに刺されていた台湾出身の知人らは、ヒアリに刺されても死ぬことはまずないので、不快以上の感想はなく、日本の報道は大げさだ、と私に言っていた。これについては、首肯できるところがある。


ヒアリが及ぼす人的被害のリスクをどう見るかは、個々人で異なるだろう。ただ、一つ言えることは、ヒアリの被害は人への影響にとどまらないということだ。


ヒアリは広食性で昆虫などの節足動物の他に植物も食べる。ジャガイモ、トウモロコシの種子、柑橘類の木を食べ、作物への被害は無視できない。


さらに、ヒアリは生まれたばかりの脊椎動物を襲う習性があり、ニワトリやウシといった家畜の仔も殺されたり盲目にさせられることがある。これらに対する策にもコストがかかり、畜産業への被害は甚大だ。また、野生の希少種への影響も懸念される。


他にもヒアリにより不動産や観光地の価値が下がったり、ヒアリが電線をかじるなどして電気系統にダメージが与えられるなど、ヒアリによる被害は広範である。アメリカではヒアリによる経済損失は年間で50〜60億ドルにも及ぶ。ヒアリはただの「不愉快な生きもの」として片付けられないわけだ。


日本のどこかでヒアリがすでにコロニーを作っていたら、我々はなす術がないのだろうか。これについては、ヒアリが侵入してからの経過時間に依存しそうだ。女王アリは新コロニーを創設してから2年ほどは繁殖できる有翅虫を産まないため、それまでに殺蟻剤などを使用して徹底した駆除を行えば、撲滅できる可能性はある。


しかし、有翅虫を生産するようになると、生息域が爆発的に拡大していくので、完全な撲滅は困難になるだろう。


・ヒアリ対策


ヒアリを定着させないためには、早期の発見と防除が鍵となる。また、定着してしまった場合に備えて、ヒアリ駆逐のための基礎研究をすでに進めておく必要もありそうだ。「倒せない」ヒアリにも天敵が存在し、たとえばノミバエはヒアリに寄生して殺す生態をもつため、生物的防除の手段として研究が進められている。


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Image: ヒアリ頭部から羽化するノミバエ. 『ヒアリの生物学』より著者の許可を得て掲載


日本には世界的に見てもアリの専門家の層が厚く、ヒアリの生態を理解し弱点を探るためのプロジェクトを国の支援のもとに立ち上げてもよいだろう。


侵略的外来種として名高いヒアリは、基礎生物学にとって興味深い対象でもある。ヒアリのコロニーには女王アリが1匹しかいない単女王制コロニーと、2匹以上の女王アリが同居する多女王制コロニーがある。面白いことに、単女王制コロニーと多女王制コロニーでは、そこにいるヒアリのGp-9遺伝子の遺伝子型が異なる。


Gp-9遺伝子は、ヒアリ体表の匂い物質の合成に関わっていると考えられている。多女王制コロニーに共存している女王どうしの血縁関係はほとんどないため、この遺伝子の「印」だけで同居するかどうかを決めていることになる。例えるなら、血液型が同じというだけで赤の他人の家族と同居し、世話するようなものだ。


このGp-9遺伝子は、ヒアリの体表に「レッテル」を貼ることで、同じ「レッテル」、つまり、同じ遺伝子型をもつヒアリ個体に仲間を受け入れさせて利他行動を促している。結果として、同じ遺伝子型のコピーが増えていくことになる。


これは利己的遺伝子の典型と考えられ、「緑ひげ遺伝子」とよばれる。緑ひげ遺伝子の存在はリチャード・ドーキンスにより1970年代に予言されたが、それが1990年代にヒアリのGp-9遺伝子として実際に発見されたことになる。


このように、ヒアリは社会生物学のモデル生物として、興味深い知見を提供してきた。これから日本でアリ研究者を目指す若い世代にとって、(日本国内で研究するのは難しいかもしれないが)ヒアリは防除研究と行動生態学研究の両方において魅力的な材料に映るのではないだろうか。


・最後に


ここに紹介したヒアリの生態は、『ヒアリの生物学』の内容のごく一部であり、さらに詳しい内容を知りたい人はぜひとも本書を手にとってみてほしい。とはいえ、Amazonでは品切れが続いているので、出版社さんにはなんとかして本書を世の中に流通させてほしいものなのだが。(追記:出版社に問い合わせると入手できる可能性があるそうです。出版社のサイトはこちら。)


※本記事は有料メルマガ「クマムシ博士のむしマガ」392号「ヒアリの生物学」から抜粋したものです。

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・参考資料


『ヒアリの生物学』東 正剛、緒方 一夫、S.D. ポーター 著 東 典子 訳

ヒアリの生物学―行動生態と分子基盤

ヒアリの生物学―行動生態と分子基盤

Red imported fire ant: Wikipedia

ヒアリ(Solenopsis invicta)の国内初確認について:環境省

ストップ・ザ・ヒアリ:環境省

ヒアリに関するFAQ

兵庫県内で発見された特定外来生物ヒアリ(Solenopsis invicta)について

小さな侵入者”ヒアリ”を退治せよ!: academist


【関連記事】

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【追記】

1. ヒアリによる死亡者数について註をつけました。(2017年7月6日)

2. ヒアリによる死亡者数100人という通説について検証した記事を追加しました。(2017年7月10日)

3. 『ヒアリの生物学』の出版元である海游舎のサイトへのリンクを追加しました。(2017年7月14日)

NASAが発表した「TRAPPIST-1の系外惑星群」のインパクト

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Image credits: NASA/JPL-Caltech (images used under NASA media usage guidelines)


アメリカ時間の2017年2月22日、NASAは系外惑星に関する新たな発見について記者会見を開いた。その新発見の内容とは、「ひとつの惑星系に7つの地球サイズの系外惑星が存在すること」だった。これら7つの系外惑星のうち、3つは地表に液体の水が存在しうるハビタブル(生命棲息可能)な惑星である可能性が示された。


生命を宿せるような「第二の地球」候補になりうる系外惑星が3つも同じ惑星系内で確認されるのは、初めてのこと。今回の発見は、我々が想像していた以上に太陽系の外には生命の星がありふれていることを示唆する、重要な発見といえる。


・系外惑星とは


系外惑星とは、太陽系の外に存在する惑星のことである。これらは恒星の周りを公転している。観測技術の発達により最初の系外惑星が発見されたのは、1990年代に入ってからのこと。その後の観測精度の向上により、現在までに3449個の系外惑星が確認されている。2016年には、ケプラー宇宙望遠鏡により観測された系外惑星候補のうち、1284個が一気に系外惑星として認定された


これらの系外惑星の中には、地球の数倍〜10倍程度のサイズで、岩石でできているものもある。これらはスーパーアースとよばれる。さらに2016年3月時点では、地球のサイズの2倍以下で、なおかつ液体の水が存在しうるハビタブルゾーンにある系外惑星は、21個が確認されていた。


・TRAPPIST-1の系外惑星


系外惑星をもつ惑星系の中でも、TRAPPIST-1系は、生命を探すアストロバイオロジー研究における「スター」として注目され始めた惑星系である。TRAPPIST-1は赤色矮星であり、太陽系から40光年先の水瓶座の方向に位置する。TRAPPIST-1の大きさは太陽の0.08倍しかなく、表面温度も非常に低い。


2016年、このTRAPPIST-1を周回する3個の地球型系外惑星TRAPPIST-1b、TRAPPIST-1c、そしてTRAPPIST-1dの存在が、トラピスト望遠鏡によって取得されたデータから示された。そしてこれらの系外惑星は、生命を育める可能性があるとして、一気に注目されるようになる。


・3個ではなく7個だった


ベルギー・リエージュ大学のMichael Gillon氏が主導する研究グループは、系外惑星TRAPPIST-1dのデータが少しおかしいことに気づいた。そこで今回、新たにトラピスト望遠鏡を含む複数の地上の望遠鏡と、スピッツァー宇宙望遠鏡による観測により、以前取得したTRAPPIST-1dのデータが、実は1個ではなく4個の惑星をとらえたものであることが判明した。かくして、TRAPPIST-1dはTRAPPIST-1d、TRAPPIST-1e、TRAPPIST-1f、TRAPPIST-1gに増えた。


さらに研究グループは今回、TRAPPIST-1の軌道の一番外側に、新しひとつの惑星TRAPPIST-1hの存在を確認。これにより、もともと全部で3個だと思われていたTRAPPIST-1の系外惑星の数は7個になった。


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Credits: NASA (images used under NASA media usage guidelines)


ところで、なぜこのような間違いが起きたのだろうか。それは、データの取得と分析方法にある。系外惑星を見つける手法の一つに、トランジット法がある。これは、惑星が主星の前を横切る(トランジットする)ときの減光を検出することで、間接的に系外惑星をみつける手法だ。もし主星の減光期間が一定で、周期的に同程度の減光が観測されれば、その恒星の周りを惑星が回っていると推測できる。


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Credits: NASA Ames (images used under NASA media usage guidelines)


前回の研究では、トランジット法による周期的な観測ができなかった。しかも、複数の系外惑星が間を置かずに次々に主星の前を通り過ぎたデータを取得したため、あたかも1個の惑星が主星の減光をもたらしたように見えてしまったのである。このように、論文では捏造でなくても、誤った結果を提出してしまうことがある。論文発表はあくまでも、仮説の提示をすることに過ぎないのである。


・地球に似ている惑星たち


話を元に戻そう。TRAPPIST-1に近い6個の系外惑星は、質量が地球の0.4〜1.4倍、半径が0.77〜1.13倍の範囲に収まることが分かった。非常に地球に似通った惑星であることがうかがえる。


ただし、これらの系外惑星は主星であるTRAPPIST-1にきわめて近いところを周っており、その公転周期も1.5〜12日間と驚くほど短い。それでも、TRAPPIST-1e、TRAPPIST-1f、TRAPPIST-1gなどは地球ー太陽間に比べて主星に20倍以上も近づいているにもかかわらず、地表に液体の水を維持しうると考えられている。これは、TRAPPIST-1が太陽に比べるときわめて低温の赤色矮星であるため、TRAPPIST-1との距離が近くても、惑星はさほど熱くならないと考えられるからである。


ただし、TRAPPIST-1と距離が近すぎるため、これらの系外惑星たちは「潮汐ロック」により、惑星の半面が常にTRAPPIST-1を向いており、もう片方の半面はその反対の方向に面していると考えられる。つまり、片方は常に昼で、もう片方は常に夜という環境である。これは、月も同じ。このような環境が、地球とはだいぶ異なる。


こういった環境条件の惑星は、生命が棲むには厳しいかもしれない。だが、惑星上に局所的に適度な環境があれば、そこに生命がいてもおかしくはないだろう。


・今後は大気を分析


今回の研究により、TRAPPIST-1の系外惑星群の「第二の地球」モデルとしての魅力がいっそうと深まった。今後のアストロバイオロジーの研究対象として、これらの系外惑星のベールがさらに脱がされていくことだろう。


今後、既存の地上や宇宙の望遠鏡により、これらの系外惑星の大気を分析していくことになるはずだ。トランジット分光法という方法により、系外惑星の大気を透過した主星の光を分析することで、大気のどの物質が光を吸収したかを推定できる。とくに、2018年に打ち上げられる予定の次世代宇宙望遠鏡「James Webb Space Telescope」のにより、大気組成の詳細な分析がなされるだろう。


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希望的観測だが、もしもこれらの系外惑星に水や酸素やメタンなどが同時に見つかれば、生命存在の可能性が格段に高まる。これらの分子は、生命活動による積極的な供給がないと、共存できないと考えられているからだ。植物のサインなどキャッチできれば、これは大変なことになる(次世代宇宙望遠鏡のスペックでどこまで高い精度のデータが取れるかは不明だが)。


いずれにしても、宇宙探査は今後ますます生命探査と同義になっていくだろう。太陽系外でも太陽系内でも生命が存在する大きな証拠が得られれば、それは人類の思考の根幹に計り知れない影響を与え、価値観の大転換を促すはずだ。その瞬間が訪れるのがあと10年なのか20年なのかは、誰にもわからないが。


さて、最後に、先日行った「クマムシ博士のNASA会見発表内容予想」の自己採点をしようと思う。正直、今回は予想難易度がだいぶ高かった。当初、「系外惑星の大気の分析」が発表内容だと思っていたが、これは違っていた。だが、次のように、当たっていた部分もある。

その系外惑星の表面温度が「液体の水」を保持できる範囲内である可能性、つまり、ハビタブル(生命棲息可能)な惑星である可能性が強く示唆されるような内容も、今回の発見に含まれるのではないかと予想する。

(中略)

今回はTRAPPIST-1の系外惑星群をフィーチャーした可能性が高い。


「ハビタブルな惑星である可能性が強く示唆されるような内容」、そして、「TRAPPIST-1の系外惑星群」というかなり狭い範囲で特定の系外惑星群を予想できていた。このポイントは高い。よって、今回は総合して65点の出来だったのではないかと思う。この点数が高いか低いかは、各読者のご判断にお任せしたい。


※本記事は有料メルマガ「むしマガ」374号「NASAが発表した「TRAPPIST-1の系外惑星群」のインパクト」からの抜粋です。

www.mag2.com


【参考資料】

第二の地球を探せ!  「太陽系外惑星天文学」入門 (光文社新書)

第二の地球を探せ! 「太陽系外惑星天文学」入門 (光文社新書)

系外惑星の探索の歴史から、その発見の手法について網羅的に解説した良書。アストロバイオロジーの文脈での系外惑星を知りたい人にとくにおすすめの一冊。


NASA Telescope Reveals Largest Batch of Earth-Size, Habitable-Zone Planets Around Single Star

These seven alien worlds could help explain how planets form

Gillon et al. (2017) Seven temperate terrestrial planets around the nearby ultracool dwarf star TRAPPIST-1. Nature


【関連記事】

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NASAの「太陽系外の惑星に関する発見」を予想する

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Image credit: NASA JPL/Caltech (images used under NASA media usage guidelines)


NASAは2017年2月22日(日本時間は23日未明)、「太陽系外惑星についての新たな発見」について記者会見を開催すると公式サイトでアナウンスした。


www.nasa.gov


・系外惑星について何かしらの発見


私、クマムシ博士はこれまでに「ヒ素をDNAに取り込む細菌」や「火星表面に液体の水」、そして2016年には「エウロパの間欠泉」など、NASA発表の予想を的中させてきた。このイベントは恒例になりつつあり、NASAが会見をアナウンスすると、現役のNASA職員からも予想について聞かれるようになった。



ちなみに、こちらの小野さんのようにNASA内部の人だからといって、今回の会見内容を知っているわけではない。NASAにはセンターがいくつもあり、同じセンター内でも部署や専門分野が異なれば、発見内容を知る由もない。私も以前NASAに所属していたが、今回の件については、もちろん何も知らされていない。


さて、今回の発見は「太陽系外の惑星」、いわゆる「系外惑星」に関するものであることが、NASA公式サイトで明示されている。実は、2016年にも系外惑星について同様の記者会見が開かれ、このときは1000を超える多数の系外惑星が認定された、という内容の発表だった。


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しばしばNASAの記者会見アナウンスでは、「ヒ素細菌」のときのように「重大な発見」など、その重要性を強調する形容詞がつけられるが、今回はそのような大げさな感じはない。また、前回の「エウロパ間欠泉」のように、わざわざ記者会見するのかわからないような、科学的インパクトがそれほど大きくない成果を発表することもある。


ただ、今回は科学誌Natureに発表する研究成果ということで、科学的インパクトはそれなりに大きく「セクシー」な内容と思われる。


・記者会見出席メンバーから発見内容を予想する


それでは、今回は系外惑星について、どんな知見が得られたのだろうか。2016年の時のように、また、多数の惑星が系外惑星リストに加えられるのだろうか。


今回の発見の内容を知る手がかりは、記者会見に出席するメンバーにある。各メンバーの属性、つまり、得意とする専門分野を調べれば、どのような内容かを絞り込める。さっそく、ここで公式サイトに掲載されている記者会見出席メンバーを見てみよう。


Thomas Zurbuchen, associate administrator of the Science Mission Directorate at NASA Headquarters in Washington

Michael Gillon, astronomer at the University of Liege in Belgium

Sean Carey, manager of NASA's Spitzer Science Center at Caltech/IPAC, Pasadena, California

Nikole Lewis, astronomer at the Space Telescope Science Institute in Baltimore

Sara Seager, professor of planetary science and physics at Massachusetts Institute of Technology, Cambridge


1人目のThomas Zurbuchen氏はNASA本部の人だ。NASA本部の偉い人は発見内容の本質には無関係な、ただの調整役。なので、この人からは何の情報も引き出せないのでパスする。


2人目のMichael Gillon氏は、ベルギーのリエージュ大学に所属する天文学者。NASAの所属でないのにもかかわらず、わざわざNASA主催の会見に出席するところがポイント。Gillon氏はトラピスト望遠鏡(TRAPPIST)を用いて、系外惑星系の観測を行っている。今回のキーパーソンだろう。


3人目のSean Carey氏はNASA Spitzer Science Centerのマネージャー。Carey氏について検索をしても、彼の専門分野の詳細についてはよくわからない。ただし、彼がNASA GoddardでもNASA Amesでもなく、NASA Spitzer Science Centerの所属というのは、ヒントになるだろう。NASA Spitzer Science CenterはNASA JPLに関係のあるセンターと思われ、スピッツァー宇宙望遠鏡(Spitzer Space Telescope)を運用している。


4人目のNikole Lewis氏はアメリカ・ボルチモアにある宇宙望遠鏡科学研究所に所属する天文学者。彼女の専門は系外惑星の大気の解析。しかも、スピッツァー宇宙望遠鏡を用いた解析にも関わっている。これらは大きなヒントになる情報だ。


5人目のSara Seager氏はマサチューセッツ工科大学の宇宙物理学者。系外惑星の大気の解析などで功績がある。TEDでも系外惑星についてプレゼンをしている。



これら5人のメンバーのバックグラウンド調査からは、「系外惑星」の他に「望遠鏡」や「大気分析」といったキーワードが引き出された。つまり、これらのキーワードをつなげてみると「望遠鏡で系外惑星の大気分析をした」となる。つまり、今回は「系外惑星をたくさんみつけた」という量的な発見ではなく、「特定の系外惑星の大気を分析して何かがわかった」という質的な成果なのだろう。


・生命を育める系外惑星についての報告か


さらに、もうひとつ大事な前提がある。ここ最近の宇宙探査の目的は、地球外生命の探索がメインになっている。これは、アストロバイオロジー(宇宙生物科学)が扱う研究分野だ。実際に、ここ数年、NASAが開くこのような会見はすべて、アストロバイオロジーに関わる成果報告の場になっている。今回の発見も間違いなく、アストロバイオロジーに根ざしたものだろう。


アストロバイオロジーを軸とした、系外惑星の大気の分析。ずばり、今回の発見内容は、「ある系外惑星に生命が存在しうる大気成分がみられた」というものだろう。たとえば、あるスーパーアース(岩石成分でできている地球の数倍程度の大きさの系外惑星)の大気に水蒸気、酸素、二酸化炭素、メタン、オゾンなどが観測された、などである。


これは一部、上の小野さんの予想ともかぶる。私としては、これにプラスアルファとして、その系外惑星の表面温度が「液体の水」を保持できる範囲内である可能性、つまり、ハビタブル(生命棲息可能)な惑星である可能性が強く示唆されるような内容も、今回の発見に含まれるのではないかと予想する。


今回の観測には、スピッツァー宇宙望遠鏡の分光計などを用いたと思われる(分光トランジット観測)。これは、観測されたスペクトルにより大気の成分を予測する方法である。よって、「地球外生命体そのものの検出」はできない。


以上が、クマムシ博士による今回のNASAの会見内容の予想である。


・さらに突っ込んだ予想をしてみる


さて、おまけで、ここからはさらにもう少し突っ込んだ予想をしてみたい。


今回の成果でフォーカスする系外惑星だが、おそらく新規のものではなく、すでに見つかっている既知のものである可能性が高いと考える。有名なスーパーアースとしてケプラー22bやグリーゼ581gなどがあるが、今回はTRAPPIST-1の系外惑星群をフィーチャーした可能性が高い。


TRAPPIST-1は、太陽系から40光年の距離に位置する、きわめて小さな赤色矮星である。2016年には、このTRAPPIST-1の周りを公転する複数の系外惑星の存在がトラピスト望遠鏡により確認された。これらの系外惑星TRAPPIST-1b、TRAPPIST-1c、そしてTRAPPIST-1dは、生命を宿す可能性があるとして注目されている。そしてこの成果は、今回の記者会見に出席するGillon氏が主導する研究チームによるものだ。


Gillon et al. (2016) Temperate Earth-sized planets transiting a nearby ultracool dwarf star. Nature

de Wit et al. (2016) A combined transmission spectrum of the Earth-sized exoplanets TRAPPIST-1 b and c. Nature


もしかすると、今回は、スピッツァー宇宙望遠鏡によってこれらの系外惑星の大気や表面温度を詳細に解析した結果、「第二の地球」にふさわしい条件をもつことがわかったのかもしれない。そうだとしたら、たったの40光年しか離れていないところにも生命体がいる可能性が出てくるわけで、相当に面白い発見である。


ただ一方で、この予想には不安要素もある。現在の技術では、地球より少し大きいくらいの系外惑星を解析するのは難しい。これらの系外惑星の大気を詳細に分析するためには、まだ打ち上げられていない次世代宇宙望遠鏡「James Webb Space Telescope」の活躍を待たなくてはならないと言われている。スピッツァー宇宙望遠鏡のスペックで、系外惑星の大気をどこまで詳細に分析できるのか、疑問が残る。


若干、もやもやした部分が残るが、これが現段階で私が考えうる、NASA会見内容の予想である。当日の会見を、楽しみに待ちたい。


【追記】2017.2.23


NASA会見が行われ、今回の発見内容が判明した。「ハビタブルなTRAPPIST-1の系外惑星についての新知見」という今回の予想が的中。この発見内容について、解説記事を書いたた。

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※本記事は有料メルマガ「むしマガ」373号「NASAの「太陽系外の惑星に関する発見」を予想する」からの抜粋です。


【参考資料】

生命の星の条件を探る

生命の星の条件を探る

クマムシ博士のレビューはこちら。

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山門 峻: ガリレオ衛星食を用いた分光観測による木星上層大気の構造解析


【関連記事】

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クマムシでも分かる。生殖医療・遺伝子治療技術「ミトコンドリア置換法」

2016年と2017年、遺伝子改変を含む生殖医療技術「ミトコンドリア置換法」が施された子どもが相次いで誕生した。今後の生殖医療動向に大きな影響を与える出来事だといえよう。


ゲノム編集による遺伝子治療の臨床試験も本格化し、今後はヒトへの遺伝子改変実施が急速に行われるようになる可能性がある。ここでは、世界で物議を醸しているミトコンドリア置換法について解説する。


ミトコンドリアとは


私たちの細胞には、ミトコンドリアという細胞小器官が多数存在する。ミトコンドリアには、生命活動に必要なエネルギーを作る役割がある。


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図1. クマムシと細胞とミトコンドリア


細胞に存在するDNAの大部分は核の中に収められているが、ミトコンドリアにも独自のDNAがある(ヒトでは37の遺伝子がある)。細胞と同様に、ミトコンドリアもDNA複製を伴いながら分裂、増殖する。


ミトコンドリアはもともとは別個の細菌であり、それが細胞内に入り込んで共生したと考えられている(細胞内共生説)。ミトコンドリアはSF小説『パラサイト・イヴ』のネタにもなっているので、知っている人も多いかもしれない。


ミトコンドリア病


ミトコンドリアDNAは、核DNAに比べて変異しやすい。ミトコンドリアDNAに起きた有害な変異が修復されないと、正常に機能しない異常ミトコンドリアが生じる。


ミトコンドリアに異常があると、エネルギーを生産する機能が低下する。ミトコンドリア病患者は、脳や筋肉など、とくにエネルギーを要する部位で障害が出やすくなる。ミトコンドリア病の15%ほどはミトコンドリアDNAの変異が原因である(残りは核DNAの変異が原因)。*1


生まれてくる子どものうち5000~10000人に1人が、ミトコンドリアDNAの異常に起因したミトコンドリア病に疾患しているとされる。ミトコンドリア病の重篤さの程度は細胞内の異常ミトコンドリアの割合や変異したミトコンドリア遺伝子の種類によるが、多くは成人する前に死亡してしまう。


すべてのミトコンドリアは母親の卵からのみ引き継がれる。よって、母親のミトコンドリアDNAに異常がある場合、その母親の子どもには異常ミトコンドリアが引き継がれることになる。ミトコンドリア病の有効な治療法は、限られているのが現状だ。


ミトコンドリア置換法


ミトコンドリア置換法は、生まれてくる子どものミトコンドリア病を予防する方法として考案された。この方法では、卵の中の異常ミトコンドリアを、第三者の女性の卵に由来する正常ミトコンドリアで置き換える。


ミトコンドリア置換を施された受精卵には、卵由来の核DNA、精子由来の核DNA、そして第三者に由来するミトコンドリアDNAを含む。つまり、この受精卵から発生した子どもは三人の親に由来するDNAをもつことになる。ミトコンドリア置換法は別名「3人体外受精法(three-person in vitro fertilization (IVF))」ともよばれる。


ミトコンドリア置換法には前核移植法(pro-nuclear transfer (PNT))と卵子紡錘体移植法(maternal spindle transfer (MST))がある。


前核移植法


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図2. 前核移植法


1. 体外受精により、異常ミトコンドリアをもつ母親の卵(母親の核DNAを含む)と、父親の精子(父親の核DNAを含む)を受精させる。

2. 受精卵から核DNA(前核DNA、母親と父親の核DNAを含む)を取り出す。

3. 正常ミトコンドリアをもつ第三者女性の卵(第三者女性の核DNAを含む)と、父親の精子を受精させた受精卵を用意する。この核DNA(第三者女性と父親の核DNA)を除いた受精卵に、2の前核DNA(母親と父親の核DNA)を注入する

4. 正常なミトコンドリアをもつ受精卵ができる。細胞分裂がしばらく進んだ後に、母親の子宮にいれる。


卵子紡錘体移植法


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図3. 卵子紡錘体移植法


1. 変異ミトコンドリアをもつ母親の卵から核DNA(紡錘体-染色体複合体)を取り出す。

2. 正常ミトコンドリアをもつ第三者女性の卵から核DNA(紡錘体-染色体複合体)を移植する。

3. 体外受精により、2の卵に父親の精子(父親の核DNAを含む)を受精させる。

4. 正常なミトコンドリアをもつ受精卵ができる。細胞分裂がしばらく進んだ後に母親の子宮にいれる。


ミトコンドリア置換法の実施


2015年、イギリス議会下院は、ミトコンドリア置換法の臨床試験実施の開始について賛成多数で承認された。だが、生殖医療技術の臨床試験実施の可否について実行力をもつイギリスのヒト受精・胚機構(Human Fertilisation and Embryology Authority (HFEA))は慎重な姿勢をとっており、当国での臨床試験は2016年まで実施されていなかった。


2016年、アメリカのNew Hope Fertility CenterのJohn Zhangらは、ミトコンドリア置換法をメキシコで実施したと発表した。母親のヨルダン人女性は、ミトコンドリアDNA変異に起因したリー症候群というミトコンドリア病を患っており、すでに4人の子どもを流産で失い、さらに2人の子どもも出生後に亡くしていた。


メキシコでは、ミトコンドリア置換法の臨床試験の実施についての法的規制は設けられていない。今回は卵子紡錘体移植法により、母親の核DNAを取り出したのち、正常ミトコンドリアをもつ第三者女性の卵に移植した。その後、父親の精子を受精させ、受精卵を母親の子宮に戻した。


この臨床試験により、男の子が誕生。子どもにはとくに目立った異常は観察されていないという。メキシコの他に、ウクライナや中国など、ミトコンドリア置換法について法整備がされていない国ではすでにこの技術の臨床試験が実施されたとする報告がある。


ミトコンドリア置換法のデメリット


一見すると、ほとんど問題のない治療に見えるミトコンドリア置換法だが、懸念材料は多い。まず第一に問題なのが、卵から卵に核DNAを移植する際に、母親由来の異常ミトコンドリアを少なからず持ち込んでしまうことだ。


技術的な限界で、母親の卵から核DNAを取り出す際に、どうしても異常ミトコンドリアも一緒に取り出してしまう。今回メキシコで行われた臨床試験でも、生まれた子どもの細胞には少なからず異常ミトコンドリアが含まれていた。


持ち運ばれた患者由来の異常ミトコンドリアの割合がたとえわずかだとしても、細胞分裂を重ねるごとにこの異常ミトコンドリアの割合が著しく増加する場合があることが、生体外で行われた実験で確認されている。もしそのようなことが今回の男の子に起これば、成長とともにミトコンドリア病を発症してもおかしくない。


また、核DNAとミトコンドリアDNAは進化の過程で協調関係を築いてきたことを示唆するデータも報告されている。異なる系統のマウス間で正常ミトコンドリアを交換した場合、生体リズムが変化したりストレス耐性が低下するなどの生理的影響が見られた。*2


ミトコンドリアはエネルギー生産だけではなく、幅広い細胞機能にも関わっている。ミトコンドリアにはまだ生物学的に未知の部分が多いため、ミトコンドリア置換法には大きな潜在リスクがある。生まれた子どもが異常をもつようになる可能性は高いかもしれない。ヒトへの実施を本格化する前に、ミトコンドリア置換法により出生したマウスやサルなどの実験動物を長期観察する必要があるだろう。


また、これはミトコンドリア置換法に限らないが、遺伝子が改変された子どもの人権も考慮しなければならない。今回のミトコンドリア置換法の実施により誕生したのは男の子なので、この子のミトコンドリアが子孫に受け継がれることはないが、女の子の場合には子どもにも第三者のミトコンドリアを受け渡すことになる。


今後の展望


現時点では、ミトコンドリア置換法を実際に採用するのは時期尚早に思える。ミトコンドリア置換法の実施には、患者由来の異常ミトコンドリアの持ち込みをできるかぎりゼロに近づけること、そして、出生した子どもの長期的な安全性が保証されることが重要だろう。


だが、すでに臨床試験が始まったあとでは、法規制のゆるい国ではミトコンドリア置換法による治療が次々と行われていきそうだ。これは生殖系列への遺伝子改変に対する意識ハードルが下がることにもつながる。ゲノム編集による生殖系列への遺伝子改変も次第に行われる可能性が高まったと言える。


最初は治療目的で、そして徐々に、より優れた特徴をもつ子どもを誕生させる目的で「デザイナーベイビー」を作ろうとする親と医者が出てくる日も、そう遠くないのかもしれない。ただ、今の段階でミトコンドリア置換法を取り入れるのは、上記の理由から、思いとどまったほうがよいだろう。


※本記事は有料メルマガ「むしマガ」366号「クマムシでもわかる。生殖医療・遺伝子治療技術「ミトコンドリア置換法」」に掲載されたコンテンツの一部です。

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【参考資料】

生殖医療の衝撃: 石原 理 著

ミトコンドリア・ミステリー: 林 純一 著

ヒト生殖細胞系におけるミトコンドリア置換の開始がグローバルポリシーーに与える潜在的影響

ミトコンドリア遺伝病の生殖系列細胞の遺伝子治療へむけた紡錘体置換法

UK moves closer to allowing ‘three-parent’ babies

Reproductive medicine: The power of three

‘Three-parent baby’ claim raises hopes - and ethical concerns

Three-person embryos may fail to vanquish mutant mitochondria

World hails UK vote on three-person embryos

The hidden risks for ‘three-person’ babies

New Herbert lab Nature paper reinforces mitochondrial replacement Achilles heel

Open letter to UK Parliament: avoid historic mistake on rushing human genetic modification

Mitochondrial replacement, evolution, and the clinic

Reproductive BioMedicine Online

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*1:核DNAにもミトコンドリアの機能を制御するタンパク質がコードされている。このうちの76の遺伝子によってコードされるタンパク質は、ミトコンドリア由来のペプチドと相互作用する。

*2:これとは逆に、異なる系統マウスのミトコンドリアを置換することで長寿になったとする報告もある。

ハチミツ嫌いのマルクス

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マルクスは「ニガイー族」の末裔として生まれた女の子。一族の他の者と同様に、小さい頃より外の世界から隔絶されて過ごしていた。


ここでいう外の世界とは、「アマイー」族の社会のこと。ニガイー族はアマイー族から差別を受け、虐げてられていた。


アマイー族の世界は、怪獣のすみかの地下に広がっている。ここの怪獣たちは、朝食には決まってハニートーストを食べる。怪獣はハチミツをてんこもりに塗りたくったトーストを食い散らかす。このハチミツつきトーストのかけらは、アマイー族の聖食となる。


この日はアマイー族が感謝祭を開いていた。アマイー族は、怪獣からの恵みであるハチミツを皆で大いに楽しんでいた。


ニガイー族のマルクスは、生まれてから一度もハチミツを口にしたことがなかった。


ニガイー族の家庭では、魚の骨や腐ったキャベツなど、粗末な食べ物しか食卓に上らない。これまでずっと、マルクスは、アマイー族がハチミツを美味しそうにほおばるのを、遠くから見ていることしかできなかった。


しかしこの日、マルクスは己の欲望をどうしても抑えることができなかった。ついにニガイー族侵入防止用バリケードを突破し、アマイー族の居住区域に侵入。


すると、大通りでハチミツをふるまっていた優しそうなおじさんと目が合った。


「お、可愛いお嬢ちゃんだね。おや、まだハチミツ食べてないのかい?ほら、どうぞ」


マルクスは安堵した。自分がニガイー族とはバレていない。おじさんからもらったハチミツを口にした。夢にまで見た、黄金色に輝くごちそうだ。


だが、どうしたことだろう。ハチミツを口に含んだとたん、この世のものとは思えない苦味がマルクスの脳天を直撃した。


「げええええええええええ」


それはまるで、この世に溢れる怨念と憎悪のすべてを凝縮したかのような苦しさだった。吐いても吐いても、苦味がとれない。涙も止まらない。


「こ、こいつ!ニガイー族だ!!」


さっきまで笑顔だったおじさんが、平成13年夏場所千秋楽の貴乃花のように、鬼の形相になって叫んだ。


それを聞きつけた他のアマイー族たちが、いっせいに集まってきた。アマイー族の一味は、マルクスに容赦ない暴行を加えた。そして、マルクスは再びニガイー族の居住域に連行された。


マルクスは、ニガイー族が差別されている理由を理解した。


アマイー族の聖食であるハチミツを食べることができないニガイー族は、呪われた一族というレッテルを貼られていたのだ。だから多数派のアマイー族は、ニガイー族を隔離する政策をとっていたわけだ。


生まれながらにしてハチミツを受けつけない、自らのニガイー族の血を呪うマルクス。やがて部屋から一歩も出ないまま、大人になった。


そんなある日、天から、これまでに見たことのない紫色の物体が、アマイー族のエリアの方で無数に降っているのを目にした。どうやら、怪獣が落としたようだ。


久しぶりに家の外に出てその光景を眺めていると、ハチミツと同じ、苦々しい臭気を発していた。たまらず、家の中に引き返した。他のニガイー族も皆、おびえて家の中に引きこもった。


それからしばらくすると、遠くから声が幾重にもなって響いてきた。アマイー族の、断末魔の叫びだった。


ただならぬ事態に、ニガイー族はおそるおそるアマイー族のエリアまで様子を見に出かけた。そこで見たものは、アマイー族の屍の数々だった。アマイー族の脇には、あの紫色の物体が転がっていた。


この物体の正体は、食毒剤だった。グルコースに毒を混ぜたものだ。グルコースはアマイー族の好物なので、アマイー族は皆この物体を食べた。


ニガイー族はグルコースを食べない。苦いからだ。ハチミツが嫌いなのも、グルコースが多量に含まれているためだ。しかしこの習性のおかげで、ニガイー族は生き残ることができた。


その後、マルクスとニガイー族は子孫を繁栄させ、自分たちの新しい世界を作った。もう、アマイー族からも誰からも迫害されることはない。ようやく訪れた平和を、皆が謳歌した。


(おわり)


【参考文献】

Wada-Katsumata et al. (2013) Changes in taste neurons support the emergence of an adaptive behavior in cockroaches. Science, 340: 972-975.


※本記事は有料メルマガ「むしマガ」155号「ハチミツ嫌いのローラ」に掲載された記事を一部修正したものです。

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世界初となるゲノム編集技術「CRISPR-Cas9システム」を用いた遺伝子治療が実施される

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中国の研究グループにより、世界初となるゲノム編集技術CRISPR-Cas9システムを用いた遺伝子治療の臨床試験が行われた。


CRISPR gene-editing tested in a person for the first time

PD-1 knockout engineered T cells for metastatic non-small cell lung cancer


ゲノム編集による遺伝子治療は、HIVをジンクフィンガーヌクレアーゼ(ZFN)を用いて行われた例がある。CRISPR-Cas9が使われたのは、今回が初めて。それにしても、世界に先駆けてヒト受精卵にCRISPR-Cas9システムでゲノム編集をしたのも中国だったし、中国はとばしますね。上のNatureの記事内では、専門家がアメリカ対中国の医学研究競争を「スプートニク2.0」とよんでいる。うまい例え。


ゲノム編集技術CRISPR-Cas9システムは、ゲノム上の狙った場所を簡便に改変することができる、生命科学研究における革新的なバイオテクノロジーだ。この技術については以前、詳しく書いた。


horikawad.hatenadiary.com

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今回のゲノム編集を利用した臨床試験の目的は、肺がんの治療。がん細胞は、免疫のはたらきを抑制して免疫細胞からの攻撃を受けないように立ち回ることができる。相手の攻撃力を下げるわけだ。ドラクエでいうとダウンオール。


具体的には、がん細胞表面ににょきっと出ているPD-L1がT細胞表面の受容体PD-1に結合すると、T細胞の活性化が抑制される。T細胞の攻撃力が弱まったのをよいことに、がん細胞はしめしめと増殖する。


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図. 杉山大介・西川博嘉. がん免疫療法:基礎研究から臨床応用にむけて. ライフサイエンス 領域融合レビューより


がんを抑えてやるには、PD-L1やPD-1の働きを抑えてやれば良い。こうすれば、T細胞は攻撃力を維持することができる。このようなアイディアから、これらに結合して働きを阻害する抗PD-1抗体あるいは抗PD-L1抗体の開発が始まった。抗PD-1抗体は、がんの治療薬として承認されている。がん治療のために免疫を強化すやり方は、がん免疫療法とよばれる。


中国の研究グループが今回行ったのは、ゲノム編集によるがん免疫療法である。ポケモンをアメで進化させるように、T細胞をCRISPR-Cas9で強化したわけだ。ポケモン、詳しくないので間違ってたらごめん。


研究グープは、肺がん患者から末梢血リンパ球を集めて、これらにCRISPR-Cas9システムをほどこし、PD-1をコードするPDCD1遺伝子を破壊したT細胞を作成した。


PDCD1遺伝子上の塩基配列と相補的な塩基配列をもつガイドRNAを設計してCas9タンパク質と一緒に発現させれば、Cas9タンパク質はPDCD1に案内されてここを切断する。DNA修復機構が働いて鎖がくっつく過程で変異が入り、結果としてこの遺伝子は破壊される。ゲノム編集によりPDCD1が破壊されたリンパ球を培養して増やし、ふたたび患者に注入して戻した(まだ今回の件は論文になっていないので、実験手法の詳細は不明)。


このT細胞はPDCD1遺伝子が破壊されたため、もはやPD-1は作られなくなる。がん細胞はT細胞表面のPD-1に結合できなくなるため、これにより、T細胞の活性を抑制できなくなる。よって、免疫は強化され 、がん細胞を攻撃し続けることができる。患者へのゲノム編集細胞の注入は、あと何回か行われるらしい。はたして今回の臨床試験がうまくいくのか、今後の経過が待たれる。


今回の場合、安価で使い勝手の良い抗体を用いた治療の方が良いのではないかという専門家の声もある。あとは、標的遺伝子以外の場所に、どれくらいの頻度で変異が入るのかもきになるところ。ったりしないかどうか。どんな副作用がでるのか、どちらがよいか、今後の経過が待たれる。


ゲノム編集技術のヒトへの応用に関しては、生命倫理に沿って慎重に議論を進めるべきだ、という声が大きかった。だが、技術の進展はいつでも、倫理観を劇的に変えてしまう。CRISPR-Cas9システムは、ゲノムだけでなく、私たちの倫理観や道徳観まで簡単に改変しているのかもしれない。


CRISPR-Cas9システムが研究者の間で広まり始めて、まだ数年しか経過していない。ゲノム編集技術 を利用した臨床試験は今後、世界中で加速に進んでいくことだろう。


※本記事は有料メルマガ「クマムシ博士のむしマガ」360号「世界初となるゲノム編集技術「CRISPR-Cas9システム」を用いた遺伝子治療が実施される」から抜粋したものです。

【料金(税込)】 1ヵ月840円(初回購読時、1ヶ月間無料)

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【参考資料】

実験医学 2014年7月号 Vol.32 No.11 ゲノム編集法の新常識! CRISPR/Casが生命科学を加速する

今すぐ始めるゲノム編集〜TALEN&CRISPR/Cas9の必須知識と実験プロトコール (実験医学別冊 最強のステップUPシリーズ)

遺伝子医療革命―ゲノム科学がわたしたちを変える


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【映画レビュー】『X-コンタクト』アクロバティックすぎるクマムシ映画

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ここ数年、日本におけるクマムシの認知度が急速に高まってきた。我が国のクマムシ研究は世界的に見ても進歩しており、下の記事でも紹介したように、2016年には日本の研究グループからクマムシの一種であるヨコヅナクマムシの全ゲノム解読と放射線耐性を向上させるクマムシタンパク質も報告された。


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アニメやお笑いなど、研究以外の様々な方面でクマムシを取り上げてもらうのも、クマムシ研究者として嬉しい。そして、クマムシが盛り上がっているのは日本だけではない。海外、とくに、アメリカでもクマムシの注目度は向上している。日本ではクマムシというと「かわいくて強い」イメージが先行する。


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クマムシさん


一方で、アメリカではむしろ、クマムシは「SFでグロテスクなコワモテ・クリーチャー」というイメージが強いようだ。それは、YouTubeにアップされているクマムシが主人公のオリジナルアニメ『Captain Tardigrade』を見れば明らかである。



この違いは『鉄腕アトム』と『スーパーマン』の差異を見れば理解できる。日本には「強いものは可愛くあるべき」という美徳があるが、アメリカではとにかくタフでマッチョな存在が信頼されるのである。


そんなクマムシがついに、ハリウッド映画になった。原題『Harbinger Down(ハービンジャー・ダウン)』。邦題は『X-コンタクト』である。やはり、ここでもクマムシは「SFでグロテスクでタフ」なアメリカンテイストに仕上がっていた。先日、DVDもリリースされた。


【DVD】映画『X-コンタクト』


予告編はこちら。



この映画の制作陣は『エイリアン』や『遊星からの物体X ファーストコンタクト 』を手がけてきた面々。邦題は『遊星からの物体X ファーストコンタクト』からとったようだ。


【Blu-ray】映画『遊星からの物体X ファーストコンタクト』


さて、クマムシ映画『X-コンタクト』。ハリウッド初となるクマムシをフィーチャーした映画ということで、これはクマムシ研究者ならば「観る」以外の選択肢はない。そこで先日、クマムシ研究所のメンバーと映画館「新宿シネマカリテ」での特別上映を観てきた。


内容はというと、シロイルカの生態調査をするためにカニ漁船に乗り込んだ大学院生の主人公らが引き揚げた氷漬けのソ連宇宙飛行士の死体に寄生していたクマムシがモンスターになって人々に襲いかかるという、かなり斜め上なもの。


驚いたのは、作品中にクマムシが映っていなかったことだ。厳密に言えば、私が知っているクマムシが映っていなかった。クマムシと認識できる唯一のシーンは、生物のデータベースにあったクマムシの写真くらい。


たとえば、シロイルカを研究する主人公が顕微鏡で人間の死体の組織を観察するシーンがあった。観察していた組織はピンク色をしたひも状の何かだったのだが、次の瞬間、すべてを悟った主人公はそれを見て自信満々にこう言い放つ。

クマムシだわ!


え???どこに?????


ピンクの毛糸を拡大したようなブツを「クマムシ」と大スクリーンの中からドヤ顔で言い切られ、新宿の中心で一人絶叫しそうになるほどの衝撃を受けた。クマムシを見たことがないと思われる、哺乳類を研究している学生が、クマムシ歴15年のクマムシ博士以上のクマムシ認識能力を備えていたとでもいうのだろうか。


驚きの描写は、これだけではない。本映画の設定では、1982年にソ連が秘密裏に打ち上げた有人月面探査機から回収されたロシア宇宙飛行士の体にクマムシが寄生した、ということになっている。ソ連の目的は、人間にクマムシの能力を与えて放射線耐性を高めることにあった。


いや、ちょっと待ってくれ。1980年代はまだクマムシ研究がぜんぜん進んでいない時代だ。クマムシの飼育系が確立され始めたのも2000年代に入ってからだ。しかも多細胞生物の遺伝子工学技術だって、未熟だった時代だ。クマムシの遺伝子機能は今でもまだまだ未知なところだらけだし、ヒトへの応用なんてとんでもない。


ただ、ちょっと落ち着いてみると、どうやら遺伝子工学で宇宙飛行士をクマムシ化したわけではないことに気づく。というのも、死体からはクマムシのDNAだけでなく、クマムシ個体そのものが検出されているからだ(上述したようにクマムシ博士にはクマムシが見えなかったが)。


つまり、「クマムシそのものを大量に人体に寄生させてヒトのクマムシ化を試みた」ということらしい。いや、そもそもクマムシは人間に寄生しないし、仮に寄生したとしても、そんな方法でクマムシの能力を付与できるわけない。「SF映画だからなんでもアリ」と言ってしまえばそれまでだが、強引にでも納得できるだけのリアリティはほしいところだ。


さて、宇宙空間で放射線を浴びた変異したクマムシは最終的にモンスター化し、その姿は液状の生物に変化したりするようになる。その形状も、とてもクマムシとは似ても似つかないものだ。本作品には、科学的な監修を行うアドバイザーは誰もいなかったのだろうか。


だが、そんなことはなかった。映画のエンドロールでは、科学監修に二人の博士がクレジットされていたのだ。そのうちの一人、 医学博士のDavid Persing氏は微生物感染症学が専門らしい。


「Real Science of Harbinger Down(X-コンタクトにおける本物の科学)」という、やたら挑発的なタイトルの動画で、彼はこう言っている。

私は微生物が専門で、クマムシについては研究人生の中でまったく接点がなかった。



すがすがしいほどに認めてしまった。「クマムシのことは何も知らない」、と。


クマムシのことを何も知らない微生物感染症学の専門家が監修したから、クマムシが人間に感染して・・・みたいな映画になったのだと判明した。


いや、だから、ね。


なぜ制作チームはクマムシ博士にコンサルを頼まないのか。


さて、アクロバティックすぎる映画本編のレビューはここまでにしよう。だが、これでもまだネタが尽きないのが、この映画のすごいところだ。本編が見せるアクロバティックさは、日本での公開担当者にも引き継がれていたのである。


それは、日本版の公式チラシに如実に表れていた。本作の実際の内容と、アマゾンの画像にも使われているこのチラシに書かれている紹介文が、まったく異なるのである。日本版チラシ制作の担当者は、80分ちょっとの本作品を観ずに紹介文やコピーを書いていたことを確信させられる出来栄えだ。以下、引用しよう。

19XX年、最北端の深海で新たな生命体が誕生していたー。


「それ」は決して起こしてはならなかったー。


19XX年。大学の研究のために祖父の漁船「ハービンジャー号」に乗り込んだ大学生セイディと仲間達。


彼らは深海を調査中、ソ連時代の衛星の残骸を発見する。引き揚げると中には氷漬けにされた飛行士の死体があり、死体には謎の生命体が寄生していた。


新種の生命体の発見だと喜ぶセイディたち。しかし氷の中で活動を停止していた「それ」は、氷が溶け、宇宙飛行士の死体とともに消え去ってしまう。


クルーたちが戦々恐々とする中、「それ」は液状に姿を変えながら出現し、彼らを襲い始めるー。


チラシの冒頭の、キャッチコピーにもなっている「19XX年、最北端の深海で新たな生命体が誕生していたー」という一文。この一文のすべてが間違いだ。


まず、「19XX年」という時代設定。本作は2015年が舞台である。実際に、作中にはスマートフォンやタブレットが登場している。


「深海」も違う。引き上げられた探査機は、深海ではなくわりと海面にプカプカ浮かんで漂流していた。しかも、「衛星」というよりは「探査機」である。


「深海で新たな生命体が誕生」も矛盾している。宇宙飛行士に寄生させたクマムシが宇宙空間で放射線を浴びて変異したというのが、実際の理由付けだ。


ただ、実際の作中でも「サンプルから多数の生物種に由来するDNAが検出された」と言っているシーンもあり、クマムシと海の生物が合体してモンスターになった可能性も示唆している。もしかしたら、この映画の脚本を書いた本人自身も、途中でこの映画をどうしてよいのかわからなくなったのかもしれない。


また、主人公は「大学生」ではなく「大学院生」だ。博士号をとるためにシロイルカのフィールド調査をしている、と述べているシーンがある。


このレベルのチラシの齟齬は、『となりのトトロ』に例えたらこんな感じではないだろうか。

時は第二次大戦。3歳のサツキと生後6ヶ月のメイは、小説家のお父さんと一緒に都会から田舎の一軒屋に引っ越してきた。


それは余命わずかのお母さんを、空気のきれいな家で迎えるためだった。近くの農家の少年カンタに「ゴミ屋敷!」と罵られたが、その家で最初に二人を迎えたのは、イガグリの妖精だった。


ある日、メイは庭で2匹の不思議な生き物に出会った。それはトトロというオバケで、メイが後をつけると、さらに大きなトトロがお茶の間でねそべっていた・・・・・・。


『X-コンタクト』日本版チラシのレベルを実感していただけただろうか。


ちなみに映画館の案内係も、開演前に「お待たせいたしました!これからX・・・(急いでタイトルを確認しにどこかに戻る)・・・あ、すみません、Xコンタクト!の開演です!」といった感じで、本作は割と雑に扱われていた。


最後に。いろいろと書いてきたが、私はもともとクマムシマニアが感銘を受けるようなレベルの内容は初めから期待していなかったし、中途半端に良い出来になるよりは、ツッコミネタの宝石箱のような作品になっていて、本作はむしろよかったと思う。上映後にクマムシ研究所のメンバーとも、作品にツッコミながら盛り上がり親睦も深まった。今では、『Xコンタクト』に深く感謝している。


クマムシについてあまりこだわらないマジョリティーには、B級SFホラー映画として本作品を楽しめることだろう。


だが、次にクマムシがフィーチャーされる映画が製作されるときは、監修者として声がかかるのを期待したい。それが、私の本音だ。


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※本記事は有料メルマガ「クマムシ博士のむしマガ」345号「クマムシSF映画超速レビュー」に加筆修正をしたものです。

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NASA発表の「エウロパに間欠泉の存在」の意味を考える

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Credit: NASA Goddard


現地時間の2016年9月26日にNASAで会見が開かれ、「木星衛星エウロパから吹き出す水と思われる物質を観測した」と発表した。


NASA’s Hubble Spots Possible Water Plumes Erupting on Jupiter's Moon Europa


これは先日、小野雅裕さん藤島皓介さん、そしてここで予想した内容とほぼ一致。今回の予想は優しかった。ただ、私が希望的観測で予想していたエウロパ全域での間欠泉の存在や、有機物の検出については、今回の発表に含まれていなかった。


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エウロパの地表は厚い氷で覆われており、その下には内部海があると信じられていた。液体の水があれば、生命体が潜んでいても不思議ではない。NASAはエウロパの探査計画に力を入れている。


さらに、もしエウロパに間欠泉が存在し、宇宙空間まで吹き出していれば、探査機が海に潜ったり地上に着陸しなくても、間欠泉を突っ込んで成分を分析したりサンプルを採取することも可能になる。今回、ハッブル宇宙望遠鏡の紫外線観測により、エウロパの7時の部分から水蒸気が噴出していることが示唆された。ちなみに、エウロパから吹き出している水の高さはおよそ200kmに達するらしい。


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Credit: NASA


今回の報告は、NASAの動画で2分ほどでよくまとめられているので、英語だがこちらもおすすめ。



ところで、エウロパから間欠泉が吹き出していることを報告したのは、今回が初めてではない。今回の研究グループとは別の研究グループが、2014年にScience誌にて同様の内容の報告をしている。


Transient Water Vapor at Europa’s South Pole: Science


通常、わざわざ大きなアナウンスをしてまで発表する内容には、大きな科学的新知見が含まれる。今回のように、そこまで新規性が高くない研究結果が大々的に報告されるのはまれだ。


今回の発表に踏み切ったのには、ある理由が考えられる。2014年にScience誌で報告されたエウロパの間欠泉のデータについては、そのあとで別の研究グループが同様の観察をしても確認できず、再現性が取れていなかった。間欠泉が吹き出るのは恒常的ではなく、エウロパと木星の距離によって出たり出なかったりすると考えられたが、「エウロパに間欠泉はない」という主張をする研究者も出てきた。


エウロパから間欠泉が噴出しているのか、していないのか。このどちらかによって、NASAや他の宇宙開発機関によるエウロパ探査の計画は大きく変わってくる。もし間欠泉があれば、上述したように、探査がやりやすくなり、その意義も理解されやすい。予算もつきやすくなる。一方で、もしも間欠泉がなければ、セクシーな研究プロポーザルを書く難易度は上がる。実際に、エウロパ探査に関わる研究者らは、この問題に頭を悩ませていたことがリポートされている。


Plumes on Europa tease NASA mission planners


エウロパに間欠泉があるかどうかは、NASAにとっても組織全体を左右する大きな問題だったのだ。


今回の研究の科学的新規性としては、木星を背景にしてエウロパを観察したことと、間欠泉が出ているのを3回確認したことが挙げられる。今回の成果の発表予定雑誌はAstrophysical Journal誌。良い雑誌だが、前回の研究成果がScience誌に掲載されたことを考えれば(あまりインパクトファクターで比べたくないが)、雑誌のランクが落ちた感は否めない。論文の審査員も、科学的には二番煎じという印象を持ったはずだ。


もちろん、科学的な新規性に乏しいから会見を開く意義がない、というわけではない。このようにして科学研究や宇宙開発の最前線を世界にアピールするのはポジティブな啓蒙にもよいことだ。ふだん、科学研究に興味のない人で、このブログに訪れた人も多いはず。そしてなによりも、個人的には地球外生命体の1日も早い発見を期待している。


※本記事は有料メルマガ「むしマガ」353号「NASA発表の「エウロパに間欠泉の存在」の意味を考える」からの抜粋です。


【参考資料】

生命の星・エウロパ:長沼 毅 著


地球外生命を求めて:マーク・カウフマン 著


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NASAの「木星衛星エウロパに関する驚くべき発見」を予想する

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Credit: NASA, Michael Carroll


NASAオフィシャルサイトによると、「木星の衛星のエウロパの内部海に関連すると思われる活動についての驚くべき証拠」についての記者会見を現地時間9/26の14:00(日本時間9/27未明)に開くようだ。


NASA to Hold Media Call on Evidence of Surprising Activity on Europa: NASA


これまでに「ヒ素をDNAに取り込む細菌」や「火星表面に液体の水」など、私はNASA発表の予想を的中させており、なぜか恒例になってきたNASA予想。今回の発表内容も予想してみようと思う。


今回のNASAの告知文には、「エウロパ」「活動」「地下海」など、かなり具体的な情報が与えられている。過去の告知文にはもっと曖昧な情報しか掲載されていなかった。今回の予想難易度は高くなさそうだ。


さらに、今回の発見は「ハッブル宇宙望遠鏡により取得した画像から明らかになった」と書かれているため、発見内容をさらにを絞りやすい。ハッブル宇宙望遠鏡では、生命体を直接確認することはできない。つまり、今回も、少なくとも「地球外生命体を発見した」というアナウンスでないことは確かだ。


このように、NASAの告知文の情報からも、多くの情報を引き出せる。さらに、記者会見に出席するメンバーを見てみよう。


Paul Hertz, director of the Astrophysics Division at NASA Headquarters

Britney Schmidt, assistant professor at the School of Earth and Atmospheric Sciences at Georgia Institute of Technology

Jennifer Wiseman, senior Hubble project scientist at NASA’s Goddard Space Flight Center

William Sparks, astronomer with the Space Telescope Science Institute


一人目のPaul Hertz氏はNASA本部からの人。この人は基本的に体裁を整えるための人員なので、予想のための情報は何も得られない。


二人目のBritney Schmidt氏は、エウロパのハビタビリティ(生命居住可能性)の研究を専門としているようだ。今回の研究では、得られたデータを元にモデリングなんかをしたのかもしれない。


三人目のJennifer Wiseman氏はNASAの宇宙物理学者で、ハッブル宇宙望遠鏡プロジェクトのシニアサイエンティスト。彼女はハッブルプロジェクトの主要メンバーであると同時に、サイエンスコミュニケーションにも明るいらしいので、今回は研究内容に関わっているというよりも、プレス向けの適任者として彼女が表に立っているのかもしれない。


残る最後の四人目、William Sparks氏は天文学者。Sparks氏は、ハッブル望遠鏡を使ってエウロパを調べているようだ。


ここから先は「エウロパ」と「ハッブル宇宙望遠鏡」の特性について考え、さらに、「セクシーな発見」の落とし所を予想する必要がある。


なぜ木星の衛星エウロパが注目されるのかというと、この衛星には氷の層の下に内部海があり、そこに生命を宿している可能性があるからだ。他には土星の衛星エンセラドゥスも同じような内部海がある。


地球外生命体の調査は宇宙開発においても重要課題であり、NASA JPLはエウロパに特化したミッションも計画している。


では、ここから予想の核心に入る。今回の発見は「木星の衛星のエウロパの内部海に関連すると思われる活動についての驚くべき証拠」。つまり、内部海に関すること。しかし、ハッブル宇宙望遠鏡では内部海まで観察するのは難しそうだ。では、内部海に関連する何を見つけたというのだろうか。


こうなると答えは簡単だ。「エウロパの内部海から外に噴き出したと思われる間欠泉(プリューム)がハッブル宇宙望遠鏡により確認された」が今回のNASA会見内容だろう。


今回のこの予想は、すでにNASA JPL技術者の小野雅裕さんや元NASA Ames研究者の藤島皓介さんもしているのだが、自分もゼロベースから考察して、お二人と同じ結論に辿り着いた。ここからは、少し私なりに補足をしていきたい。


さて、実は「エウロパの内部海から外に水が噴き出ている」というのは、新しい発見ではない。2014年にScience誌で「ハッブル宇宙望遠鏡によりエウロパの南極上で水蒸気が確認された」という報告がすでにあるからだ。


Transient Water Vapor at Europa’s South Pole: Science


もともとは木星探査機のガリレオにより、エウロパの表面にひび割れのような痕跡が確認されており、ここから水が噴き出ている可能性が指摘されていた。そしてハッブル宇宙望遠鏡の紫外線観測により、エウロパ南極上に水蒸気が存在することが示唆された。


だが、その後はエウロパから水が噴き出しているという証拠は得られず、発見そのものが怪しまれていた。別の研究チームは、エンセラドゥスでは容易に検出された間欠泉の証拠がエウロパでは全然見つからなかったとコメントしている。


「水蒸気はあるよ派」は、エウロパと木星との距離によって水が噴き出たり出なかったりするのではないか、と主張していたが、論争に決着は付いていなかった。


NASAとしてはエウロパから間欠泉が吹き出ていれば、探査機によるサンプルリターンも視野に入れた、充実したミッションを推し進めることも可能になる(政府から予算をたくさん獲れる)。「間欠泉あるかないか問題」は科学的にも政治的にも大きなジレンマだった。



おそらくだが、今回は、William Sparks氏を中心とした研究グループが、かなり高い確度で頻繁にエウロパからの間欠泉が吹き出ている様子をキャッチしたのかもしれない。データの量と質が充分で、疑惑に反論できるとか。ちなみに、William Sparks氏は、エウロパの間欠泉を探すことに特化してハッブル宇宙望遠鏡を使っているらしい。この情報からも、ほぼ間違いなく、今回の予想は当たりだろう。


希望的観測だが、間欠泉が出ているのは南極だけでなく、エウロパのかなり広範なエリアで見られたのかもしれない。木星とエウロパとの間に働く潮汐力により、エウロパの海底は活発な火山活動が起きている証拠にもなる。生命が誕生しやすい環境条件、と言えるかもしれない。


さらに、間欠泉のところに有機物まで検出された可能性もある生命の部品である有機物が発見されていれば、エウロパに地球外生命体がいる可能性がさらに増す。まあ、こちらは当たったらいいな、くらいのオマケということで。


科学的にもNASAとしても「エウロパの間欠泉はあった。再現性がとれた。だからみんなエウロパに安心してお金を出そう」というアピールになる。


土星の衛星エンセラドゥスも間欠泉が宇宙空間に吹き出ているので、探査機がそこを通って分析したりサンプルリターンする案が日本では持ち上がっている。もしエウロパでも同じような間欠泉があれば、エウロパのミッションも加速するだろう。エウロパはエンセラドゥスよりも地球から近い。


ということで、今回の予想的中確率は80パーセント以上と思われる。26日の発表を楽しみに待つことにしよう。


※本記事は有料メルマガ「むしマガ」352号「NASAの「木星衛星エウロパに関する驚くべき発見」を予想する」からの抜粋です。


【追記】

予想がほぼ的中しました。

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【参考資料】

生命の星・エウロパ:長沼 毅 著


地球外生命を求めて:マーク・カウフマン 著


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アカデミック・ラブ

 四月上旬、北関東のとある学園都市でもようやく桜が咲き始めた。それと同時に、この街に植えられている多数のスギに由来する花粉が、少なくない市民を攻撃していた。


 T大学は、そんな街の一角を占める総合大学である。日本でも有数の広大なキャンパスを擁し、学術面でもノーベル賞受賞者を輩出するなど、誇らしい実績をもつことで知られている。


 そんなT大学の片隅に位置する建物内に、動物生態学研究室がある。この研究室では、昆虫から脊椎動物に至るまで、さまざまな動物についての生態学的研究が行われている。


 毎年4月には、動物生態学研究室では新歓コンパが催される。この年に新しく動物生態学研究室に配属された学部四年生は三名、修士一年生は二名である。学部四年生は全員男、修士一年生は男一名と女一名。研究室で開催される新歓コンパの目的は、表向きは文字通り「新入生を歓迎し親睦を深める」というものだ。コンパの席では研究室のメンバーが自己紹介をし、食べたり飲んだりしながら円滑な人間関係を構築していく。


 だが、男性研究室員にとっては、これとは異なる明確な目的が、この新歓コンパにあった。それは、新入生の女の子にツバを付けることである。


 通常、理系の研究室では男女比が圧倒的に男側に偏っている。このような条件下では、男性陣の間で女性メンバーを巡る奪い合い、つまり雄間闘争が起こる。T大動物生態学研究室でも、研究室員の男女比は三対一と偏っており、例に漏れず雌をめぐる雄間闘争が起きる運命にある。


 よって、彼らににとっての新歓コンパの至上命令は、いかにして自分が他の男性陣をおさえて有利なポジショニングをとり、新入生の女の子にアプローチするか、ということになる。


 今回、新入生の中で女の子は、修士一年生の竹園紗季、ただひとり。竹園紗季は学部時代、東京にある国立女子大学の生物学科に在籍していた。彼女はガの行動生態学に興味があったが、所属学科には生態学の研究室が無かったため、大学院からT大動物生態学研究室に入ってきたのだ。


 女子大出身の紗季は、急に男性ばかりの環境に身を置かれたことで、少し緊張している様子だった。都会の洗練された凛とした雰囲気を醸し出す彼女の存在は、T大動物生態学研究室の中で、少し浮いて映った。しかし、純白のブラウスにかかる黒いネクタイには、ガの刺繍が大きく施されており、彼女が年季の入った虫屋であることを示唆していた。


 「ガ、好きなんだ?」


 修士課程二年生の大鷲京太が、お調子者キャラを全面に出しながら自分の椅子ごと紗季の隣に移動し、話しかけてきた。他の男性研究室員を出し抜いての、先制攻撃である。


 「このガのネクタイ、自分で作ったの?それとも、どこかで買ったの?」


 「えっと、アーティストが昆虫をモチーフにした作品を展示するイベントがあって、そこで買ったんです......。「むしむし大学」っていうイベントなんですけど......。このガはクスサンで......」


 「へぇ。オレ、猛禽類の研究が専門だけど、虫も好きなんだよね」


 「そうなんですか?」


 「うん。でも、このガの刺繍、本当によくできてるね。ちょっと触ってもいい?」


 「えっ」


 京太は、自分の右手を紗季の胸元に近づけた。他の男性研究室員たちを一気に突き放すため、準求愛行動ともいえる接触アプローチ戦略を展開したのである。この戦略が上手くいけば、紗季との距離を一瞬にして縮めることができる。


 だが、そうはうまくいかなかった。これを黙って見ていられなかった、研究室員がいたのだ。研究室内ヒエラルキーの最上位に君臨するポスドクの観音台則夫である。


 「大鷲、おまえ、そんなことするから彼女いない歴二十三年なんだぞ。ちったぁ女心勉強しろや」


 「えっ?なんスか?オレ、ちょっと竹園さんと昆虫について語ってただけっスよ」


 京太と則夫の闘いが始まった。しかし、この雄間闘争ではヒエラルキー上位の者が圧倒的に有利である。闘争は則夫のペースで進む。


 「竹園さん。こいつねぇ、さっき昆虫好きをアピールしてたけど、ラボで企画している昆虫採集旅行に参加したこと一度も無いんだよ。うそなの、うそ」


 「い、いやっ、最近、昆虫好きになったんスよ!本当っス!」


 「それじゃあ、お前、俺の研究材料のキチョウの学名言ってみろよ」


 「えっ...と......」


 「Eurema hecabeだよ。ほら、昆虫のこと全然知らねーじゃん」


 声を出さずに苦笑いするだけの紗季を前に、則夫は続ける。


 「大鷲さぁ、女心もそうだけど、本業の自分の研究テーマについても、もっと勉強しろよな。この前の進捗セミナー発表でも、データの取り方が全然ダメダメだったし。サンプリングする前に、どのくらいのサンプルサイズが必要かとか、どの解析手法を採用するかとか、ちゃんと検討しとけっつーの」


 「あ...はい......」


 「鳥の研究は、ただでさえデータ取りにくいんだからよ。おまえ、ドクター行きたいって言ってるけど、それだと何年かかっても学位とれないよ?わかってる?」


 「......」


 「竹園さんもこれから分かってくるだろうけど、研究ってやっぱストラテジーが重要だからさ。ま、その辺は俺に聞いてくれれば何でもアドバイスするから、遠慮なく絡んできてよね。同じ虫屋どうし、同じ鱗翅目屋どうしだしさ」


 則夫はアカデミックなアドバイスをするように見せかけて、京太をとことんディスった。京太が女性から人気がなく、さらに研究室内のヒエラルキーが低いことをアピールすることで、相対的に自分がいかにオスとしての力があるか、そして優れているかを、これでもかと紗季に見せつけたのである。グループ内の下位のサルが自分に完全降伏するさまを、晒したわけだ。


 結局、則夫の思惑通り、紗季は則夫が京太よりも質の高い魅力的なオスとして認識するようになった。新歓コンパは、則夫が研究室内ヒエラルキーでの自らの地位を利用し、紗季にツバをつけることに成功したのだった。


 その後も、則夫はセミナーやミーティングで京太やその他の男性研究室員をディスり続けた。もちろん、自分のオスとしての優位性をアピールするためだ。研究室内には、教授をのぞいてはポスドクの則夫がヒエラルキーの最上位を占める。


 男性大学院生たちは、誰も則夫を敵に回して紗季にアプローチすることを許されなかった。サルのグループ内で、力のあるボスに誰も逆らえないのと同じだ。


 則夫は、紗季の研究も積極的にサポートした。彼女が野外調査をする際には自家用車を出したり、研究のディスカッションと称して二人きりでファミレスでの食事に誘った。


 則夫のポスドクとしての給与は、決して高くなかった。それでも、日産マーチで出迎えたり、ロイヤルホストで食事を奢るようことは、京太や他の貧乏大学院生には、決してできない芸当であった。研究室内には、オスとして則夫を上回る価値を持つ男性研究室員は皆無だったのである。


 もちろん、大学の研究室の外の世界を見れば、則夫よりもはるかにオスとしての魅力をもつ男性はゴマンといる。外見だって、則夫は決してイケメンとはいえない。だがしかし、日本の大学院生は、日夜研究をするので忙しく、研究室の外部の人間と接触する機会がきわめて乏しいのである。よって、人間関係は研究室内ですべて完結するため、恋人候補も研究室内のメンバーに限られてくる。


 研究室内でもっとも質の高い異性に魅かれるのは、当然の帰結なのだ。それは、紗季も例外ではなかった。研究室というきわめて閉鎖的な環境でしか異性の質をジャッジできない条件下に置かれたため、則夫のことをオスとしてきわめて頼れる存在として、いつしか憧れるようになっていった。


 新歓コンパから四ヶ月後、お盆を前もそて紗季と則夫は交際することになった。京太の心の叫びを代弁するかのように、けたたましく鳴くセミたち。


 そして、三年が経過し、また新しい春がきた。T市民が待望していた、T市と東京を結ぶ鉄道路線が、ついに開通した。この春、大鷲京太は博士課程三年生になっていた。


 この間、京太に恋人が出来たことは一度としてなかった。彼女いない歴も二十六年間に更新した。動物生態学研究室に、紗季以外に好みの女の子がいなかったわけではない。だが、アタックしたところで振り向いてくれる女の子がいるようには感じられなかった。そしてなにより、京太にはアタックする意欲そのものが失われていたのである。


 日頃から則夫にさんざんコケにされ続けた京太は、研究室内ヒエラルキーの下位から脱することができなかった。このようなヒエラルキー地位にいる限り、周囲からはオス的魅力に欠けるダメ男子として見なされてしまう。女の子からモテなくなるのだ。


 こうなると京太自身も、研究室内での自分のヒエラルキー地位と非モテ度合いを、嫌でも認識せざるをえなくなる。すると、ますます自信が失われる。自信が失われると、オス的魅力も失われていく。学年が上がっても下位ヒエラルキーから脱することができず、ますますモテなくなる。


 京太の身に起きたこの現象は、ネガティブ・モテ・フィードバック (NMF) とよばれる。NMFは、隔離された閉鎖的個体群内で生じやすい。理系研究室は、そのような閉鎖的個体群の代表例である。


 NMFに陥り、セミの幼虫のような地中生活を余儀なくされていた京太だったが、今年は大きな転機が訪れた。則夫が研究室を去ることになったのだ。


 教授が科研費を獲得することができず、則夫をこれ以上ポスドクとして研究室が雇えなくなったのだ。則夫はアカデミックポストに就くことができず、東北の小さな博物館で非常勤の学芸員として働くことになった。そしてこの異動が引金となり、則夫と紗季が別れることになったのだ。


 研究室内でボスザルとして君臨していた則夫がいなくなったことで、京太がヒエラルキーの最上位に進出できるチャンスが出てきた。さらに、紗季も今やフリーの存在だ。じゅうぶんに栄養を蓄えたセミの如く、京太は長い地中生活に終止符を打ち、高々とそびえる桜の木に登る準備を始めた。羽化をするまで、もう秒読み段階だ。


 ポスドクの則夫が去ったことで、博士課程三年生の京太が研究室内での最上級生となった。新歓コンパやラボミーティングでは、最上級生である京太が主に仕切ることになった。


 京太は思い出していた。新歓コンパやラボミーティングで、自分が則夫にさんざんコケにされ続けたことを。


 「オレがあいつにやられたことを、後輩にはしたくない」


 などとは、京太は微塵にも思わなかった。


 則夫が自分にしたことを、そのまま後輩にもする。そう固く誓っていた。


 「後輩たちを徹底的にコケにしよう。則夫が自分をコケにすることで研究室内ヒエラルキー最上位の地位を保ち、自分が紗季や他の女の子に手出しできなくなったように」


 その信念のもとに、新歓コンパでは後輩の男性研究室員を容姿から性格に至るまで、徹底的にこき下ろした。ラボミーティングでは、後輩の研究能力だけではなく人格までも否定した。とりわけ、野外調査直前の京太のディスりは熾烈を極めた。野外調査期間中、京太は研究室を留守にする。その間に、他の男性研究室員がつけ上がるのを抑制する必要があるからだ。


 「オレはオオタカの研究者だ。オオタカは肉食だ。だからオレも肉食だ。そして最強の肉食男になるのだ」


 森の中でオオタカのメイティング・ビヘイビアーの観察をしながら、京太は紗季とのメイティング・ビヘイビアーを夢見ていた。


 後輩をコケにし続けた甲斐があり、京太は研究室内ヒエラルキーの最上位を占めるようになった。則夫が去ったことにより空白となったボスザルのポジションを、ついに獲得したのだ。


 それまでは路上の隅に生える干涸びたコケを見るような目で京太を見ていた女性研究室員たちの接し方も、大きく変化していた。自分の研究内容の相談を京太に持ちかける女子の後輩が、出現したのである。京太の研究能力が、この短期間で大きく向上したわけではない。ボスザルとして振る舞う京太のことを、女性研究室員が頼れる存在として認識し始めたのである。


 オスとしての魅力が現れ始めた京太は、自信も出てきた。そして、研究室内でよりいっそうボスザルらしく振る舞うようになった。すると、さらに女性研究室員が京太を慕うようになり、プライベートな相談までする女子も出てきた。京太はついに、生まれてはじめてモテはじめ、モテ度も日を追うごとに向上していった。


 京太に起きたこの現象は、ポジティブ・モテ・フィードバック (PMF) とよばれる。NMFと同様に、PMFも研究室のような閉鎖的空間で起こりやすい。則夫も京太も、研究室という閉鎖的な人間関係が存在する空間において、ヒエラルキー下位層のオスをうまく利用し、PMFを創出したのである。


 一見、仲間をディスる男は悪い印象を与えるので、嫌われることはあってもモテることはないように感じる。だが現実には、このような男ほどモテる。テレビのバラエティ番組などでも、他の出演者をディスる「ちょっと感じの悪い」芸能人ほど、実際には人気があってモテるのと同じだ。道徳的で謙虚な男は、実際にはあまりモテない。


 他の女性研究室員と同じく、PMF期に突入した京太を見る紗季の目も次第に変わっていった。紗季はいつしか、研究室内で京太とすれ違うたびに、草原に流れるそよ風が全身を巡るのを感じるようになっていた。自分でも認めたくなかったが、心と体の反応は正直だった。クスサンのネクタイ越しから伝わってくる紗季の胸の鼓動が、京太に届いていた。


 機は熟した。京太は紗季に話しかけた。まずは手堅く、第一稿をサブミットしてみた。


 「この前のプレゼンの時に言ってた解析の問題、もう解決した?」


 「え、いえ、まだちょっと考えてるんです......」


 紗季は少し驚いた表情をしてから目を下に移し、はにかみながら答えた。マイナーリビジョンだ。


 「この子、脈があるぞ」。そう確信した京太は、自信ありげに続けた。


 「あのね、あれはやっぱりNが少なすぎるのが原因だと思うんだよね。Nをもっと増やした方がいいよ」


 「でも、一人で採集しているのでなかなかサンプルがとれなくて......」


 「それじゃ、今度手伝ってあげるよ。」


 「えっ?! でも......」


 レフェリー全員、ポジティブな反応。悪くない。


 D論も目処がついたし、大丈夫だよ。竹園さんももうD2だし、早くデータ取った方がいいからね。 よし、来週に行こう 」


 二人きりでの野外採集にごぎつけた。アクセプトだ。コングラチュレーションズ。


 これを皮切りに、ディスカッションと称した深夜のファミレスデートなど、京太はさまざまな方法で紗季にアプローチを続けた。紗季も自信にあふれた京太の存在に、ますます惹かれていった。


 その後、京太は無事に博士課程を三年間で卒業し、博士号の学位を取得した。卒業後は、T市にあるS総合研究所にもポスドクとして赴任することも決まった。そしてついに、紗季は京太と交際し、半同棲生活をすることに決めた。京太に対しての唯一の懸案事項だった、経済的問題が解決したからだ。


 T市に再び春が訪れた。桜の開花を待たずに、紗季とのメイティング・ビヘイビアーも成立。京太はこれまでの人生で、最良の時代を迎えていた。


 時は流れ、大鷲京太と竹園紗季が交際を始めてから、三年が経過しようとしていた。竹園紗季は京太の指導もあり、無事に三年間で博士課程を卒業。卒業後は、やはりT市にある、昆虫の研究で有名なN資源研究所のポスドクの職に就いた。二人は、T市内にあるアパートで同棲を始めた。


 この二年間、順調な同棲生活を送っていたが、ここのところ、二人の周りには重たい空気が流れ始めていた。京太の勤め先のS総合研究所でのポスドク任期があと三ヶ月で終了するにもかかわらず、次のポジションがまだ決まらないからだ。


 この一年近くの間に、京太は大学の助教や研究所のポスドクなど合わせて十以上のポジションの公募に応募したが、すべて落ちた。書類による第一次審査すら通らなかった。文部科学省による若手研究者対象の奨学生制度である、学術振興会特別研究員になることも叶わなかった。


 公募選考の際に重要なのは、研究業績だ。この研究業績は、具体的には国際科学誌に掲載された論文の本数と質によって判断される。京太の場合、筆頭著者として二報の論文を発表していた。


 一報はT大在籍時に行っていたオオタカのメイティング・ビヘイビアーに関する内容だ。もう一報は、S総合研究所に来てから調査した、関東地方におけるオオタカの分布についてのものだ。いずれも『Journal of Avian Ecology』という、鳥類の生態学に特化した国際科学誌で発表した。『Journal of Avian Ecology』のインパクト・ファクターは2を少し上回るほどであり、生態学関連の雑誌では中堅の部類に入る。


 ポジションの公募における審査の際、論文の質は、その論文が掲載された雑誌のインパクト・ファクターにより判断される。つまり、雑誌のインパクトファクターに論文数をかけたものが、応募者の業績とみなされるのである。


 当たり前だが、各公募では、応募者の中から一人だけが採用される。いくら優秀でも、二番目以下では不採用なのだ。京太の業績はとくに優れたものではなく、書類審査でいつも落とされるのは当然のことであった。公募をかけた側の研究内容と京太の研究内容とがマッチングするケースも、あまりなかった。


 そして、京太には強力なコネもなかった。今も昔も、研究職の公募はコネで決まることが少なくない。京太は、自分よりも業績の少ない人間が、コネで助教の職に決まったケースを何度も見てきた。業績もコネもなく挑む公募が、すべて負け戦になるであろうことは、うっすらと感じていた。


 しかし、まだ最後の望みが残っていた。京太の古巣であるT大動物生態学研究室が、教授の定年退官に伴い、その後釜として助教を募集していたのだ。しかも、今時珍しい、任期のないパーマネントのポジションである。


 パーマネント。ポスドクをはじめとした、すべての任期付研究者が垂涎する響きだ。狭き狭きパーマネントの門をくぐること。それこそが、ポスドク砂漠をさまよう者たちが目指す、最終ゴールなのである。


 パーマネントのポジションをゲットすれば、もう任期が切れて無職になる悪夢を見なくて済む。嫁も見つかる。マイホームも手に入る。この世のすべての苦しみから解放される。皆、そう信じて疑わない。パーマネント、それは果てしない夢でありユートピアだ。


 そのパーマネントのポジションの公募が、自分の出身研究室から出ている。コネという点で、京太はとてつもなく有利な立場にいた。実際に、応募書類を提出する前に動物生態学研究室に挨拶に行ったときも、教授はこう言った。「知らないやつよりも、知っているやつを選びたい」、と。


 だが、京太にはひとつ気がかりなことがあった。動物生態学研究室に在籍時に、京太をさんざんコケにした、あの憎き観音台則夫の存在である。観音台は上っ面だけはよかったので、教授は彼を信頼していた。もし、観音台がこの公募に応募してきたら、教授は自分ではなく、観音台を選ぶかもしれない。そんな不安を抱えていた。


 そこで、動物生態学研究室を訪れた際、後輩である博士課程三年の千現武志を研究室の外に呼び出し、尋ねた。


 「今回の公募、観音台さんは応募してくるのか?なんか聞いたか?」


 武志は、うつむいたまま、おどおどしていた。目を左右に動かし、決して京太の方を見ようとしない。


 無理もない。京太は以前、研究室内で武志のことを、これでもかとコケにしてきたからだ。武志は研究室メンバーの中でも冴えない、大人しい性格の持ち主だったので、京太にとって格好のターゲットだった。


 もともと極端な猫背の武志は、その背中をさらに丸めながら、小声で答えた。


 「い、いえ。多分、観音台さんは応募しないと思います」


 「そうなのか?」


 「観音台さん、研究はもうやめたらしいです。先生が話していました。なんか、どこかの出版社に就職したらしいです」


 (そうだったのか。これで敵はいなくなった)


 京太は、このポジションは自分のものになるという確信を持った。オオタカが縄で縛り付けられた獲物を容易に奪うのと、同じ要領だ。これはいける。そう思った。


 アパートに戻ると、京太は後ろから紗季の肩を両手で掴んで言った。


 「例の公募、もうオレで間違いなさそうだよ」


 「本当に?!」


 紗季は、少し信じられなさそうな目で聞き返した。そんな紗季の不安を掻き消そうと、京太は上機嫌をアピールしながら紗季の肩を揉み出した。


 「マジだって!先生もコネを優先するって言ってたし、他に対抗馬がいないからな」


 「じゃ、今度は期待してる」


 「期待しててよ。それじゃ、どっか食いに行こうか」


 研究作業に追われるポスドクは、自炊をする時間もない。ポスドクカップルの京太と紗季は、夕食をいつも外で済ませる。この日は、T市内のタイ料理屋に向かった。T市には外国人居住者も多く、多国籍料理を楽しめるのも特徴だ。


 「今日は、就職の前祝いだな」


 紗季のグラスにエビスビールを注ぎながら、京太はつぶやいた。


 「はい、カンパーイ。私も研究者として早く安定したいな~」


 「紗季は大丈夫だって。オレがT大に紗季のためのポジションを用意してやるから」


 「調子に乗んなっての!どんだけ上から目線なんだか......」


 「あははは」


 二人は饒舌になった。こんなに楽しい夕食は、いつ以来だろうか。ビールの瓶が、すぐに空になった。


 午後九時をまわり、店内では女性タイ人店員たちがカラオケを大音量で歌い始めた。ねっとりとしたタイの歌を聞いていると、ここが北関東の新興住宅地であることを忘れそうになる。店員らのミニスカートが気になり、京太の視線はついついそちらに行ってしまう。


 「なにジロジロ見てんのよ」


 「いや、見てないって」


 京太は、はぐらかすようにグラスを口に運んだ。紗季を見ると、まだこちらを睨んでいる。胸元のネクタイに鎮座するクスサンも、その大きな目で紗季と一緒に自分を睨みつけているような気がした。四つの目で睨まれた京太は、不意に小さな恐怖に襲われた。


 それから一ヶ月が経過した初雪の日、アパートに一通の封筒が届いた。差出人はT大学。あのパーマネント助教公募の、書類一次審査の結果通知が来たのだ。


 京太がその薄い封筒を開くと、中にはA4サイズの紙が一枚だけ入っていた。紙面には文字が数行だけ印刷されており、余白部分がやたらと目立った。文書の二行目に、こう書かれていた。


 「書類審査の結果、残念ながら貴殿は不採用となりました」


 何度読んでも、そう書いてあった。京太は二次審査の面接への道すら通れず、不採用になったのだ。京太は、直立のまま動けなかった。まるで、液体窒素に放り込まれて瞬間凍結した金魚のように。


 「なぜだ......なんで?......なんでオレが.......なぜ?......なんで?.......なんでだ......??」


 同じフレーズを何度も繰り返した。そして、脳内のすべての神経回路が切断されたように、思考が停止した。その衝撃は、論文をリジェクトされた時の比ではなかった。


 「ただいまー。すごい雪だねー......ん?ど、どうしたの......?」


 いつもと何かが違う。紗季は、何かただならぬ自体が京太に起きたことを察した。


 京太は、死んだ魚のような目をゆっくりと紗季に向けた。そして、テーブルの上に置いた審査結果通知書を、力なく指で差した。


 審査結果通知書を読んだ紗季は「えっ」とだけ声を発し、口を閉じた。1DKの空間は、これまでに経験したことのない重い沈黙に支配された。無音の室内に、時折、雪が落ちる小さな音だけが、淋しく響いた。


 翌日、一通のメールが京太に届いた。教授からのものだった。


 採用できずに申し訳なかった、という謝罪から始まるメールの文章を読み進めていった京太は、再びディープ・フリーズした。


 教授は京太ではなく、あの猫背の後輩の千現武志を助教に採用していたのだ。実は、武志もこの公募に応募していたのである。


 教授が武志を採用したという事実。これは、教授が自分の後釜にふさわしいのは武志であり、京太ではないと考えていたことを示していた。そのことを、京太は受け入れることができなかった。目眩とともに、視界が真っ白になっていくのを感じ、意識が遠のいていった。


 右手に激痛が走り、京太は意識を取り戻した。目の前には無惨に破壊されたVAIOのノートパソコンがあった。無意識のうちに、自分のノートパソコンに鉄槌を下していたのだ。何度も、何度も。


 破壊されたノートパソコンからは、ゴムの焼けるようなにおいが立ちのぼっていた。濃い、敗北のにおいだった。


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 半年後、京太は太平洋に浮かぶO島にいた。


 環境省管轄下の自然保護官補佐とよばれる職に就いたからだ。京太のことを気にやんだ教授が、彼にこの職を紹介したのだ。


 O島は人気のない孤島だが、希少生物の宝庫として、一部のナチュラリストの間で人気のあるフィールドだ。自然保護官補佐の勤務内容は、研究活動というよりも、管理監督業務に近い。自然公園内の管理や監視、そして生物調査が主な仕事である。もちろんポスドクではない。給与は手取りで二十万円を少し上回るほど。契約期間も一年間で、更新はない。


 紗季との遠距離恋愛生活も、すでに五ヶ月目に入った。交通費がばかにならないので、お互いに会うことはせず、LINEと電話で連絡を取り合っていた。


 京太は研究者として復活するために、相変わらずポスドクや助教の公募に応募し続けていた。そして、相変わらず落ち続けていた。しかし、諦めるわけにはいかない。できれば、T市のどこかの大学や研究所でポジションを得て、また紗季と一緒に暮らしたい。そう願っていた。


 ただ、京太は最近の紗季の反応が気になっていた。以前はLINEでメッセージを送ると数時間以内に返ってきたのに、ここ最近は一日以上経っても既読にならないこともあるからだ。


 紗季の携帯電話に着信を残しても、折り返しかけてくることがなくなってきた。何かあったのかを聞いても、「忙しい」の一言だけで、それ以上のことを話さない。まるで、自分の体の周りを分厚い繭で覆ったクスサンの蛹と対峙しているようだった。


 そんな紗季だったが、彼女のフェイスブックには、食べものや研究者どうしの飲み会での写真が頻繁に投稿されていた。写真には、京太の知っている顔あった。


 その写真の中には、あのT大動物生態学研究室で助教のポジションを得た千現武志の姿もあった。しかも、彼は紗季の隣にポジショニングしている。


 写真の中の武志は、数ヶ月前に会った時とは、まるで別人のように映っていた。武志は不敵の笑みを浮かべ、その目は丸眼鏡越しに京太のことを小馬鹿に見下しているかのように見えた。


 「くそ、アイツめ!アイツさえいなければ、今頃はオレが......」


 京太は、頭の中に無数のフジツボがびっしりと張り付いているような感覚に襲われた。重力にまかせて重くうなだれた頭を、上げることができなかった。


 京太の業務は、大半を歩く時間に費やす。歩行をしている間、脳内は自然と紗季のことで埋め尽くされる。


 「紗季のやつ、オレよりもアイツらとの飲み会を優先しやがって。もう、オレのことなんてどうでもいいに決まってる。あと、絶対に何かを隠している。いや、気のせいかもしれない。でも、あの態度はおかしい......」


 半径十km以内に自分以外は誰もいない雄大な自然の中、京太は延々と紗季のことに考えを巡らせた。来る日も、来る日も。


 そして、いくら考えたところで決して答えが出ないことに気づいた京太は、意を決して紗季にLINEで尋ねることにした。「最近、冷たくなった。これは自分の気のせいじゃない。言いたいことがあったら、正直に聞かせてほしい」、と。


 案の定、紗季からはすぐに返信は来なかった。三十分おきにLINEをチェックしていたが、一日、二日と時間が経っても一向に既読にならない。一日が、何十日間にも感じられた。


 そしてメッセージを送ってから三日目、林道を歩いていたときに、ついに紗季からの返信があった。


 「返事遅くなってごめんね。。。今、電話していい?」


 京太はすぐさま、紗季の携帯電話にコールした。紗季が電話に出た。紗季と話すのは、十二日ぶりのことだった。


 「もしもし。連絡、あんまりとれなくてごめんね......」


 「...あるんだろ、話したいこと。言ってくれよ」


 「うん、あのね...ちょっと言いづらいんだけど...」


 「うん」


 「あのね......」


 「......」


 「好きな人ができたかもしれない」


 「..................」


 「ごめんね」


 「......誰だよ」


 「ん........」


 「誰なんだよ?」


 「うん、京ちゃんも知ってる人なんだ......」


 「まさか......」


 「千現君」


 「......やっぱり......、あの猫背メガネかよ......」


 「ごめん......」


 「おまえ、嘘つきやがって。「ずっと一緒にいようね」って言ってたくせに。お前の研究だって、オレがずっと面倒見てきたのに......」


 「......」


 「なんなんだよ...。なんなんだよ? なんなんだよ!!!!」

 
 「......」


 「パーマネントかよ」


 「!?」


 「やっぱり、パーマネントなのかよ??パーマネントがいいのかよ!??ああ??」


 「..............そうだよ」


 「っ?!」


 「京ちゃんも言ってたじゃん。「生物にとって、適応度の期待値が大事だ」って。千現君はパーマネント。だから、これから安定した収入が見込める。若くて研究能力もあるし、このままいけば順調に教授になると思う。でも、京ちゃんは一年契約だし、業績もあまり無いから、このままだとアカデミアに残るのは、正直、難しいと思う」


 「......」


 「専門が生態学だと、ドクターを持ってても潰しがきかないから、アカデミア以外の就職も難しいでしょ。私が適応度一以上、つまり、子どもを二人産んで養っていくのは、このまま京ちゃんと一緒だと難しいんだよ。自分でも分かってるでしょ?」


 「オレは...いずれは...」


 「もう聞き飽きたよ!「世界一の鳥類研究者になる」とか「『Nature』三報はいける」とか「オレのモットーは大きな野望と高い志。「オオタカ」なだけに」とか......!現実を見なよ!!まだファーストが二報しかないし、インパクト・ファクターの合計も五にも満たないじゃない!!」


 「......」


 「京ちゃん、千現君のこと「へっぽこコネメガネ」とか言ってたけど、あのコはドクターとる前に、あの『Nature Ecology』に二報出してるんだよ??コネが無くったって、助教になってたよ、絶対。それに......」


 京太は携帯電話を切った。目の前には暗い森が広がっていた。もはや、自分が世界のどこにいるかも分からなかった。いや、自分が、皆が存在する世界そのものと切り離された、異次元の空間に浮遊しているようにも思えた。


 『パ~マネント~♪ パ~マネント~♪ パ~マネント~♪ パ~マネント~♪パ~マネント~♪ パ~マネント~♪ パ~マネント~♪ パ~マネント~♪ パ~マネント~♪ パ~マネント~♪ パ~マネント~♪ パ~マネント~♪パ~マネント~♪ パ~マネント~♪ パ~マネント~♪ パ~マネント~♪ パ~マネント~♪ パ~マネント~♪ パ~マネント~♪ パ~マネント~♪パ~マネント~♪ パ~マネント~♪ パ~マネント~♪ パ~マネント~♪ パ~マネント~♪ パ~マネント~♪ パ~マネント~♪ パ~マネント~♪パ~マネント~♪ パ~マネント~♪ パ~マネント~♪ パ~マネント~♪ パ~マネント~♪ パ~マネント~♪ パ~マネントォォォ~~~~~~♪♪♪』


 それまで普通に鳴いていたセミたちが突如、「パーマネント」の大合唱を一斉に始めた。


 「やめろおおおおおおーーーーーーっ!!!!!」


 京太は耳を塞ぎ、目を閉じたまま、走った。転んでも、木にぶつかっても。日が暮れ、勤務終了時間が終わっても、森の中を、ただただ、走り続けた。


 その後の京太の消息を知る者は、誰もいない。


.
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 二年後、花粉が舞い桜が咲く季節が、T市にまたやってきた。


 この春、街には新たな命が誕生していた。


 「本当に君そっくり。ほら、目が二重でこんなに大きくて。僕と全然違う」


 「赤ちゃんは成長したらまた顔が変わってくるし、まだどっちに似ているかなんて分からないよ」


 「いやあ、でも、自分の子どもがこんなに可愛く産まれてくるなんて、信じられないね。でも、よかった。自分に似なくて」


 「あ、そろそろミルクあげなきゃ」


 母親は、ぐずる赤ん坊に授乳を始めた。この世に存在する苦しみを一切知らない赤ん坊は、これ以上無い平穏な表情で母乳を飲み続けた。赤ん坊にかけられたよだれかけに施された刺繍のクスサンも、やはり平穏な表情で母親をじっと見つめていた。


 <終>


※本記事は有料メルマガ「むしマガ」191号〜194号にて発表された「アカデミック・ラブ」を一部加筆修正したものです。


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蓮舫氏の二重国籍問題と国籍法

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※写真は本記事の内容とは関係ありません


民進党の蓮舫氏が保持している国籍状況が話題になっている。クマムシとは関係ないが、重国籍に関する備忘録として、本件について記そうと思う。


・重国籍になる可能性


父母が日本人と外国人の組み合わせをもつ子どもは、日本と外国の二重国籍になりうる。たとえこのような条件でも、外国側での手続きをしなければ、この子どもは外国国籍は有さず、日本の国籍しか持たないこともありうる。ただ、このような場合でも、所定の手続きをすれば、後から外国国籍を取得することは可能だ。


また、アメリカのように出生地主義を採用する国では、生まれた国の国籍も取得することができる。父が日本人で妻が台湾人の子どもがアメリカで生まれた場合、日本、台湾、アメリカの3つの国籍を取得できる可能性がある。


・日本国籍を選択する場合の手続き


日本の国籍法によると、未成年のうちに重国籍を持った場合は22歳までに、成年後に重国籍になった場合はその時から2年以内に、どちらかの国籍を選択しなければならない(国籍法第14条第1項)。


ここで、もし期限内に上に挙げたいずれかの方法で国籍の選択をしなかった場合は、法務大臣が当事者に国籍選択の催告をすることができる(国籍法第15条第1項)。そして催告を受けた日から一月以内に日本の国籍の選択をしなければ、その期間が経過した時に日本の国籍を失うことがある(国籍法第15条第3項)。


蓮舫氏の件に関して、菅義偉官房長官が「外国の国籍と日本の国籍を有する人は、22歳に達するまでにどちらかの国籍を選択する必要があり、選択しない場合は日本の国籍を失うことがあることは承知している」と述べているが、これは国籍法のこの部分を指している。


とはいえ、仮に法務大臣から催告が来たとしても、役所では当事者が本当に重国籍をもつかを確認するのは難しい。このような理由によって日本国籍の剥奪が行われることは、現実にはほぼないようだ。


ここで日本国籍を選ぶやり方には、次の2つの方法がある。


1. 外国の国籍を離脱する


このやり方では、外国の法令に従ってその国の国籍を離脱する手続きをとり、これを証明する書面を市区町村役場または大使館・領事館に外国国籍喪失届をする(戸籍法106条)。こうすれば、国籍は日本国籍のみとなり、日本国籍の選択が完了する。


2. 日本の国籍の選択の宣言をする


一方で、こちらのやり方では、「日本の国籍を選択し、外国の国籍を放棄する」旨の国籍選択届を市町村役場または大使館・領事館に提出することで、日本国籍の選択が完了する(戸籍法104条の2)。


ただし、日本国籍選択の宣言により日本国籍を選んだ場合、外国国籍の離脱・喪失については国籍法で強制していない。あくまでも、「外国国籍を喪失していない場合は、外国国籍の離脱の努力をすること」という、あいまいな宣告にとどまっている(国籍法16条1項)。


この一連の流れを説明するのが、下の図である。


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国籍Q&A:法務省より


つまり、この2番目のやり方で日本国籍の選択を完了させた場合は、積極的に外国の国籍を離脱・喪失する手続きを行わない限り、重国籍のままとなる。だが、それでも国籍法の選択義務は履行したことになり、国からあらためて催告を受けることもない。


・蓮舫氏のケース


蓮舫氏のケースを見てみよう。蓮舫氏は1967年に台湾人の父と日本人の母のもとに出生したとされる。この時点での日本の国籍法は、父が日本国籍をもつ場合のみ、その子どもも日本国籍を取得できると定めていた。蓮舫氏は出生してからしばらくの間、日本国籍を持っておらず、台湾国籍のみを有していた。


1985年1月1日に国籍法が改正され、父だけでなく、母が日本国籍をもつ場合でも、子どもが日本国籍を取得できるようになった。この改正された国籍法が施行されてから出生した子どもはもちろんのこと、1965年以降に出生し、出生時に母が日本国民であり、申請時も日本国民である場合は、1988年1月1日までに法務大臣に届け出れば、日本国籍を取得することができた。


蓮舫氏は1967年に出生しており、まさにこのケースに当てはまる。本人によると、1985年、蓮舫氏が17歳のときに、日本国籍を取得したとされる。これは国籍法の改正に伴い、日本国籍の取得を申請したためと思われる。


この時点では、蓮舫氏は台湾国籍を喪失しておらず、二重国籍であった可能性がある。蓮舫氏はこのときに未成年だったので、日本国籍を選択する際には、上述したように1. 台湾国籍を離脱するか、2. 日本国籍選択の宣言を22歳までにする必要がある。国籍選択は、1985年1月1日以降に重国籍となった国民が対象となるので、蓮舫氏にも当てはまる。


蓮舫氏によれば、同じ1985年に台北駐日經濟文化代表處(台湾と国交のない国(たとえば日本)との窓口機関)に父親と出向き、台湾国籍の離脱・喪失手続きをしたという。もしこの手続きが完了しており、日本側に外国国籍喪失届を提出していれば、二重国籍は完全に解消されており、現在では日本国籍のみを持っていることになる。


だがもし、日本国籍選択の宣言をすることにより日本国籍を選択していたとすれば、二重国籍状態は今も継続している可能性がある。とはいえ、上述したように、この場合でも国籍選択義務は履行していることになる。


では、はたして蓮舫氏がそもそも国籍の選択自体を行っていない可能性はあるだろうか。これも上述したように、もし22歳までに国籍の選択をしなかった場合は、法務大臣から当事者に対して国籍選択の催告が届くことがある。催告を受け、それでも日本の国籍の選択をしなければ日本の国籍を失うが、そもそも日本国内の役所では蓮舫氏が台湾国籍を保持しているかどうかをきちんと確認する術がないこともあり、日本国籍を強制的に剥奪することはしにくいだろう。


よって、蓮舫氏は1.台湾国籍の離脱・喪失したか、2.日本国籍選択の宣言により国籍選択の手続きを完了したか、3.そもそも国籍選択の手続きを踏んでいないかの、いずれかの可能性がある。このうち2.と3.の場合では、台湾国籍を離脱・喪失していない限りは、日本国籍と台湾国籍の両方を有した二重国籍の状態が継続する。


・国家間で統一したルールはない


重国籍に関する議論で混乱のもとになっているのが、国家間で統一したルールが存在しないことだ。たとえば日本は台湾を国家としては認めておらず、便宜上は中国(台湾)と認識している。日本にいる台湾人は便宜上は中国人ということになっている。しかしそれはあくまでも日本側の認識であり、台湾側は日本にいる台湾人は、もちろん自国民(台湾人)とみなしている。


国籍選択の際も、日本国籍選択の宣言をすれば、「日本では」日本国籍を選択したとみなされ、もはや台湾人でも中国人でもない。だが、たとえ日本国籍選択の宣言をしても、台湾国籍(中華民国国籍)の離脱・喪失をしていなければ、「台湾では」台湾人(中華民国人)として認識され続ける。当事者が重国籍をもつかどうかを日本の役所で調べることも難しい。


それぞれの国には、それぞれのローカルルールがある。このような国家間をまたいだ問題においては、統一見解が得られにくい。マスメディアにも個人メディアにも、そのあたりの認識をごちゃまぜにした議論が多く見られる。


・日本が重国籍者に外国国籍の離脱・喪失を強制しない理由


何度も出てきたことだが、ここで改めて説明する。重国籍者が日本国籍選択の宣言をすれば、日本側は外国国籍の離脱・喪失について強制することはない。今回の蓮舫氏の一件でも絡んでくることだが、最大の混乱のもとになっているのが、このシステムだ。


ではなぜ、日本は重国籍者に国籍選択の義務を課すものの、外国国籍の離脱・喪失について強制はしないのだろうか。おそらくだが、これは他国のルールとの兼ね合いを考慮してのことだと思われる。上でも述べたように、国際的に統一したルールはない。日本のように国籍選択制度を採用する国は少数派である一方で、重国籍を容認する国は多く存在するのである。


一方の国では重国籍を認めるのに、もう一方の国では外国国籍を厳格に認めない。このような場合、どちらの国のルールに優先権があるだろうか。こういった矛盾した状態が生じることになるため、各国との兼ね合いを考えて、日本は重国籍者に対して外国国籍の離脱・喪失を強制できないのではないだろうか。


ちなみに、台湾では、自国民が重国籍を持つことに対して、日本ほど厳しく取り締まることはなく、寛容だという。*1


平成18年度に出生した日本国民の100人に1人以上が、重国籍者である。実際に、大人になっても重国籍者のままの日本人はそのへんにゴロゴロいるのである。多くの日本人にとって、身近な問題なのだ。国家間を行き来する日本人がこれだけ増え、それに伴って重国籍者も増え続ければ、現行の国籍法を厳密に適用するのはいっそう難しくなりそうだ。


※本記事は有料メルマガ「むしマガ」350号「蓮舫氏をはじめとした重国籍問題について調べてみた」からの抜粋です。

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【参考資料】

国籍法:法令データ提供システム

国籍選択について:法務省

国籍Q&A:法務省

台北駐日經濟文化代表處

蓮舫氏「台湾籍放棄」と改めて強調、“二重国籍”問題で:TBS Newsi

国籍選択届けについてのサジェスチョン

一番じゃなきゃダメですか?:蓮舫 著

*1:台北駐日經濟文化代表處の担当者に問い合わせたところ、このような回答をいただいた

多数の系外惑星はどのように認定されたか

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Image Credit: NASA Ames


昨日こちらに書いたように、2016年5月10日(日本時間は11日)、NASAが「ケプラーによる最新の発見」についての記者発表があった。結果から言うと、ケプラーの観測によりアーカイブされていた太陽系外惑星候補(Kepler object of interest (KOI))のうち一気に1284個について「候補」が外れ、太陽系外惑星と認定された。


Briefing materials: 1,284 Newly Validated Kepler Planets: NASA


Morton et al. 2016. False positive probabilties for all Kepler Objects of Interest: 1284 newly validated planets and 428 likely false positives. Astrophysical Journal


ここまで多くの系外惑星が認定されるとは、昨日の時点では私は考えていなかった。予想を超えた発表であった。


2009年の打ち上げ以降、これでケプラーが見つけた系外惑星は一気に2000を超えた。今回、なぜここまで多くの系外惑星が認定されたのか。これは、系外惑星候補から「候補」を外すプロセスの進展に起因している。


系外惑星が恒星の前を横切ると、恒星が減光する。もし恒星の減光期間が一定で、周期的に同程度の減光が観測されれば、その恒星の周りを惑星が回っていると推測できる(トランジット法)。


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Image Credit: NASA Ames


ケプラーはこのような対象を系外惑星候補としてストックする。そのあとで、この系外惑星候補に対してフォローアップをする。地上から系外惑星候補を詳細分析し、これらが確かに系外惑星なのか、あるいは二つの恒星による連星などによる偽陽性なのかを検証する。この方法だとひとつひとつの系外惑星候補に対して長期的な分析が必要だった。


今回、プリンストン大学のTimothy氏は、プログラミング技術により自動解析法を構築し、多数の系外惑星候補を解析することを可能にした。新しいモデルはフォローアップなしでケプラーからのデータのみで候補が惑星かどうか判断する。これまでに確認されている系外惑星と偽陽性のトランジットパターンと、系外惑星候補のうちに惑星もどきが含まれる確率のデータをもとに構築されている。すべての惑星候補に対して偽陽性確率が0から1のあいだで当てられ、このうち偽陽性確率が1%未満のものを系外惑星として認定する。


この方法により、一気に多数の系外惑星候補の解析が可能となり、今回の発表となったわけだ。ちなみに、今回新たに用いられた手法の制度は、他の研究グループの先行研究によって用いられたフォローアップの手法のそれと大きくは変わらなかったと主張している。


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Credits: NASA Ames/W. Stenzel; Princeton University/T. Morton


ケプラー以降の太陽系外惑星調査では、さらに多くの系外惑星候補がデータに入ってくると予想される。このとき、今回のような大量データを自動解析するシステムが威力を発揮するだろう。


さて、これまでに、液体の水が存在しうるハビタブルゾーンにある地球のサイズの2倍以下の系外惑星は12個が確認されていた。今回、この条件に当てはまる惑星が新たに9個も加えられ、合計で21個となった。


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Credits: NASA Ames/N. Batalha and W. Stenzel


ところで、昨日、私が行った会見予想に、以下の一文がある。

おそらくですが、ハビタブルゾーンにある地球型惑星が複数見つかった、という内容かもしれません。

NASAの「ケプラーによる最新の発見」を予想する:むしブロ


ということで、今回の予想はこれまでで一番苦戦したが、この部分については的中した。この調子で観測・解析が進めば、10年以内に地球とほぼ同条件の惑星が意外と近場で見つかる可能性もあるだろう。21世紀は宇宙生物学が隆盛を極めそうだ。


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生命の星の条件を探る 阿部 豊 (著)


honz.jp


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※本記事は有料メルマガ「むしマガ」339号「ケプラーによる多数の系外惑星はどのように認定されたか」からの抜粋です。

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NASAの「ケプラーによる最新の発見」を予想する

昨晩のNASA重大発表の解説:1284個の系外惑星が一度に「発見」される!:小野雅裕のブログ

NASA's Kepler Mission Announces Largest Collection of Planets Ever Discovered: NASA

NASAの「ケプラーによる最新の発見」を予想する

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Image Credit: NASA


2016年5月10日(日本時間は11日)、NASAが「ケプラーによる最新の発見」について記者発表します。


NASA to Announce Latest Kepler Discoveries During Media Teleconference: NASA


このようなアナウンスが出ると予想してみたくなるのがクマムシ博士です。近年は二回連続でNASAの会見内容を的中させています。


horikawad.hatenadiary.com

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今回、記者会見で発表される内容は、ケプラーによる新発見とのこと。ケプラーが、どのような発見をしたのか。ついに地球外生命体、それも宇宙人でも見つけたというのか。はたまたクマムシでも見つけたのか。


残念ながら、それはありえません。ケプラーのスペックでは、生命体やその痕跡をつかむことは不可能だからです。今回の発表はまちがいなく、系外惑星についてのアナウンスとなるでしょう。


ケプラーはNASAが打ち上げた宇宙望遠鏡。そのミッションをざっくり言うと、太陽系外の地球型惑星を探索することです。私たち地球生命体は宇宙でぼっちな存在なのか。それとも、宇宙には自分たちと同じような仲間がいるのか。ケプラーのミッションは、この宇宙生物学の大きな命題に挑むために欠かせません。


ケプラーは、光度測定器により、太陽系外の恒星を観測します。もし系外惑星が恒星の前を横切れば、そのときに恒星が薄暗くなります。恒星が暗くなる期間が一定で、さらに、周期的に同程度の輝度の低下が見られれば、その恒星の周りを惑星が回っていると推測できます。このような方法をトランジット法とよびます。


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Image Credit: NASA Ames


ケプラーのおかげで、これまでに太陽系外惑星が次々と発見されてきました。液体の水が存在しうるハビタブルゾーンにある地球型惑星も次々と見つかっています。天文学や宇宙生物学におけるケプラーの貢献は計り知れません。


それでは毎度恒例ですが、今回の記者発表内容を予測するにあたり、記者会見に登場するメンバーの専門分野を最大公約数的に絞り込みました。記者会見に登場するメンバーは以下の通り。


1. Paul Hertz(NASA本部の宇宙物理学部門ディレクター)
2. Charlie Sobeck(NASA Ames Research Centerのケプラーミッション・マネージャー)
3. Natalie Batalha(NASA Ames Research Centerのケプラーミッション・サイエンティスト)
4. Timothy Morton(Princeton Universityのアソシエイト・リサーチ・スカラー)


ここで、1.のHertzさんはNASA本部の偉い人なので、今回の研究内容には直接関係ありません。2.のSobeckさんはケプラーミッションを統括するやはり偉い人なので、この方の身辺を掘り起こしても研究内容と直接関係のあるファクツは見つかりそうにありません。


今回の会見発表内容に実質的にかかわっていそうなのは、3.のBatalhaさんと4.のMortonさんだと思われます。Batalhaさんは、ケプラーミッションで2011年にはじめて太陽系外の地球型惑星(Kepler-10b)を見つけた、この道のエキスパートです。Mortonさんは、ケプラーが取得したデータを解析するスペシャリストのようです。


さて、この二人の情報をさらに集めて今回の発表内容を予測しました。が、今回は特異的な情報をあまり得られなかったため、あまり予想を絞りこめませんでした。おそらくですが、ハビタブルゾーンにある地球型惑星が複数見つかった、という内容かもしれません。これが一つ目の可能性。個人的な希望的観測を含めれば、「これまでにもっとも生命が存在しうる条件の星が見つかった」という発表だと嬉しいのですが。


「今回、NASAが事前にアナウンスをして記者発表するのだから、きっと重大な発表に違いない」。そう思いたいのもやまやまですが、実際には、とりたてて騒ぐような発見ではないかもしれません。記者会見のアナウンスにも「重大な発見」とは書かれていませんしね。


さて、会見発表内容の二つ目の可能性として、昨年の「イメージダウン」を払拭するためのものが考えられます。


2015年、フランスやポルトガルの研究グループが、「ケプラーが発見した大惑星(Giant Planet)のうちの半数は実在しないだろう」とする研究発表を行いました。


Kepler’s Giant Exoplanet Candidates — Real or Not Real? : Sky and Telescope


彼らはケプラーにより選定された系外惑星候補を地上から観測・解析したところ、多数の偽陽性が見つかったと報告しています。とくに、恒星から近距離に位置する木星型惑星(ホット・ジュピター)を含む大惑星の半数は偽陽性であると主張。これに対し、今回の記者発表に出席するBatalhaさんとMortonさんは「ケプラーは系外惑星の見落としがないように”甘めに”候補を選定している」と反論しています。また、「大惑星ではないサイズの惑星についての偽陽性の頻度はそれほど高くない」とも主張しています。


この反論はもっともに聞こえます。ただ、パブリックイメージを気にするNASAは、このちょっとした騒動でついたマイナスイメージを挽回する目的もあり、今回の会見を開くのかもしれません。つまり、会見内容の二つ目の可能性として、「ケプラーにより選定された系外惑星候補には真の惑星の割合が高い。偽陽性はあいつらが言うほど多くなんかない」というものが挙げられます。今回のキーパーソンであるMortonさんのウェブにも、「系外惑星候補から「候補」を外す解析をしている」と書いてありますし、こちらの可能性はそれなりにありそうです。


ということで、今回のNASA会見予想でした。ちょっと穿った見方も入ってしまいましたが、実際の会見を楽しみに待ちたいと思います。


【参考書籍】

生命の星の条件を探る 阿部 豊 (著)


honz.jp


地球外生命を求めて マーク・カウフマン (著))


※本記事は有料メルマガ「むしマガ」338号「NASAの「ケプラーによる最新の発見」を予想する」からの抜粋です。

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ヒ素細菌のDNAにはヒ素がなかったーライバル研究者らが発表

STAP細胞のルーツは芽胞様幹細胞(スポアライクステムセル)だった

小保方晴子氏が沈黙を破って執筆した『あの日』を読みました。公式の調査結果などと異なり、若山照彦教授が不正を行った張本人であるかのように書かれていました。このあたりの小保方氏の主張の正当性についてはあえて論じませんが、個人的に印象的だったのが、STAP細胞研究のルーツがやはり芽胞様幹細胞(本文中ではスポアライクステムセルと表記)の概念だったということです。

論文を読んだ私の結論は、本当にバカンティ先生の仮説通りにスポアライクステムセルが全身の組織に存在し、幹細胞として全組織の修復や維持のために機能しているなら、「現在、存在が確認されている成体幹細胞をスポアライクステムセルから生み出すことができるのではないか」ということと、「スポアライクステムセルは各組織に特異的な細胞になる前の幼弱な性質を保持しているのではないか」ということだった。


小保方晴子著『あの日』


ここでは、この芽胞様幹細胞について2年前に執筆した私のむしマガの記事を転載します。


★★★


ここでは、STAP細胞研究のルーツになったと思われる「芽胞様幹細胞」(spore-like cells)について興味をもったので、紹介します。芽胞様幹細胞とは小保方さんの恩師であるハーバード大教授のチャールズ・バカンティさんらが発見したしている、体内に存在する芽胞(胞子)のような幹細胞です。


芽胞というのはクマムシの乾眠と似たような状態と考えてもらって差し支えありません。厳密にはちょっと違いますけどね。ただ、冬に見られるような昆虫の休眠(hibernation)とは全く異なります。芽胞は代謝ゼロで高ストレス耐性をもつ「仮死状態モード」というイメージです。


さて、小保方さんがSTAP細胞論文発表時の記者会見で語っていた中で、とても印象に残ったコメントがありました。

「単細胞生物にストレスがかかると胞子になったりするように、(多細胞生物である)私たちの細胞も、ストレスがかかると何とかして生き延びようとするメカニズムが働くのではないか。そういうロマンを見ています」


「生物のロマン見ている」小保方さん会見一問一答: 朝日新聞デジタル


ストレス耐性の高いクマムシを研究している僕やバクテリアの研究者なら、こういう発想はまだ理解できます。ただ、マウスなどのほ乳類を扱っている研究者の中で、このような考え方をする人はかなり稀でしょう。細胞にストレスをかけて細胞の初期化を起こそうとするアイディアも、きわめてユニークです。


そして、この小保方さんのアイディアのルーツを遡っていくと行き着くのが、「芽胞様幹細胞」という概念なのです。2001年、バカンティさんのグループはこの芽胞様幹細胞発見に関する論文を発表しています。



Vacanti MP, Roy A, Cortiella J, Bonassar L, Vacanti CA. (2001) Identification and initial characterization of spore-like cells in adult mammals. J. Cell. Biochem. 80: 455-460.


ちなみにこの論文の筆頭著者はバカンティさんの実弟のマーティン・P・バカンティさんです。


これまでに小保方さんやバカンティさんが各メディアに語っていたことを総合すると、小保方さんはバカンティさんの研究室でこの芽胞様幹細胞を単離する実験を繰り返し行っていたことが伺えます。そして、その研究の延長線上にSTAP細胞の研究があったようです。小保方さんの発言や考え方は、バカンティさんの生命科学観に大いに影響されていることが伺えます。


さて、この芽胞様幹細胞の論文を実際に読んでみて、僕はものすごい衝撃を受けました。STAP細胞以上の衝撃といっても過言ではありません。この細胞が実在すれば、ノーベル賞受賞に値するレベルの成果です。


本論文では、成体のほ乳類の体内から、きわめてストレス耐性が高い幹細胞が見つかったことを報告しています。ちなみに論文内では、驚くことにどの動物(および系統)を使ったかについての記述が無いので、ここでは何らかの「ほ乳類」として話を進めていきます。たぶん、マウスかラットだと思うんですが・・・。


さて、この芽胞様幹細胞には以下の特徴があります。


1. きわめて小さく、直径5ミクロン以下である(ヒト細胞は通常10ミクロン程度)。
2. 脳、皮膚、肝臓、筋肉、血液などあらゆる組織の中に存在する。
3. 各組織を構成する細胞に分化することができる。
4. 高温、低温、低酸素のストレスを受けても生き残る。


著者らは極細のガラス管を用いて各組織から細胞をとりわけて培養を試みたところ、極端に小さな細胞が存在することを確認しました。そして、培養開始から7~10日後には、この細胞がもともと存在した組織を構成する細胞に分化することを報告しています。肝臓から単離された細胞は幹細胞に、筋肉から単離されたものは肝細胞に、といった具合です。つまり、組織特異的に分化能が制限されているので、iPS細胞やSTAP細胞のように様々な種類の細胞に分化できる能力(多能性)をもつ細胞とは異なる可能性があります。


そして最も衝撃的なことは、85℃に30分間、あるいは-86℃に2ヶ月間さらされた後も、生き残り増殖したという部分です。この生き残った細胞も、培養していくと特定の種類の細胞に分化しました。著者らは、このストレス耐性の高さから、本細胞を「芽胞様(幹)細胞」と名付けたようです。


それにしても、よくこんなストレスをかける実験を思いついたものです。この発想自体がバカンティさんのユニークさを顕著に表していると思います。


確かに、クマムシなどは乾眠状態に入ると高温に耐えられます。とはいえ、それは乾燥することで初めて獲得できる能力です。体に含んだ通常状態のクマムシは、50℃ですらあっけなく死んでしまいます。また、一部の細菌や藻類は水を含んだ状態でも高温に耐えられます。しかし、これはその温度がかれらにとっての最適温度なので、我慢しているのではなく、心地よい状態にいるわけです。これらの生物を逆に常温など低い温度に移すと、増殖しなくなってしまいます。


芽胞様幹細胞はほ乳類の体内に存在することから、水を含んでいるはずです。生きた動物細胞が80℃以上の高温に耐えたとする報告例はありません。ほ乳類の体温が上述のような高温になったり低温になったりすることはないので、それらの環境に適応するような自然選択がなされることは考えられません。あくまでも理屈では、ですが。ということで、かなり不思議な研究論文だと感じました。


余談ですが、本論文の最後には「ギリシャ神話に登場する不死鳥フェニックスは、火の中に飛び込み焼かれて死ぬことによって生まれ変わる」という記述があります。バカンティさんは「分化した細胞がストレスによって生まれ変わる(初期化する)」というアイディアを、この論文が発表された2001年の時点でもっていたのかもしれません。実際に、バカンティさんはBBCのインタビューにも「(STAP細胞を作ったことにより)2001年から自分が提唱したことが証明された」と語っています。また、STAP細胞と芽胞様幹細胞は(芽胞様細胞に多能性は確認されていないものの)同一のものと認識していると語っています


ただし、当然と言えば当然ですが、研究者の多くは芽胞様幹細胞の存在についてはきわめて懐疑的な見方をしているようです。事実、この論文発表の後にこの細胞を確認した研究グループはありません。論文内でバカンティさんらは芽胞様幹細胞の培養に成功したことを記述しているので、この細胞株を他の研究者にも提供すればよいような気もしますが、何らかの理由(細胞が死滅したなど)で、それも難しいのでしょう。


そして、バカンティさんの研究グループですら、その後は芽胞様幹細胞を単離することがなかなかできずにいたようです。そんな中、小保方さんが研究室のメンバーとして加わり、ガラス管で細胞を採取する作業を通して、STAP細胞の研究に結びついたわけです。


※本記事は2014年2月28日発行のむしマガVol.228【STAP細胞研究のルーツ: 『芽胞様幹細胞』とは何か】の一部です。


追記:記事タイトルを変更しました。