クマムシ博士のむしブロ

クマムシ博士が綴るドライな日記

ノーベル賞と研究費供給

ノーベル賞受賞に絡んで、研究供給をどうするかという問題について考察したコラムをウェブ・ジャーナル『ハーバー・ビジネス・オンライン』に寄稿しました。

研究費の集め方や研究活動のやり方も、多様化している。基礎研究の芽を絶やさないためには、科研費など既存の財源に頼るだけでなく、新しい手段も取り入れていくべきだろう。

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納豆菌の真実、政府公式発表のXデー近づく


Image: 203gow


納豆菌。学名、バチルス・サブチリス・ナットー(Bacillus subtilis var. natto)。


納豆菌は栄養源が枯渇すると、芽胞とよばれる休眠状態になる。この芽胞状態では、宇宙空間でも耐えられるほどの不死身ぶりを発揮する。


なぜ納豆菌はここまで異常なほどの高い耐性能力を備えているのか。それは、彼らが地球の生物ではなく、隕石とともに宇宙から地球侵略のためにやってきたエイリアンだからである。これについては、本ブログで訴え続けてきた。


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政府もメディアも、この隠された事実を決して公開してこなかった。それどころか、農林水産省は毎年のように納豆に賞を贈り、ワイドショーでは納豆摂取による健康増進を喧伝する


納豆の化粧水


政府もメディアも、真実を隠蔽し続けてきた。裏で、納豆菌が糸を引いていたためだ。


だが最近、この様子が変わり始めてきた。地上波のテレビ放送でも、納豆菌の真実がカットされることなく放映されるようになったのである。


これは、民間放送のバラエティ番組内で起きた。あるテレビタレントが、はっきりと次のように語っていたのだ。「納豆菌はエイリアンだ」、と。


これはきわめて驚くべき事象だ。大手メディアの中にも、納豆菌による人類全滅の危機を回避すべく、真実を伝えようとする勇敢な日本人がいる。私は、同じ日本人として、とても誇らしく思った。


だが、この番組の続きを見て、私は目を疑った。このタレントは、食卓のおかずに粉末状のものを豪快にまぶし始めたのである。それが、これだ。


家庭用に販売されている粉末状の納豆菌


なんと、納豆菌だったのだ。そして、納豆菌まみれになった食べ物たちは、さっきまで納豆菌の真実を伝えていたその口の中へと、つぎつぎに運ばれていった。エイリアンと認識している物体を理解していながら、嬉々としてそれらを体内に摂取している。何がどうなっているのか。私は錯乱した。


だが、冷静に考えると、思い当たることがあった。それは、恐ろしい仮説だった。これが、当たってしまったのである。


納豆菌は納豆とともに、体内にとりまれる。納豆を摂取し続けると、納豆が好きで好きで仕方なくなる。毎朝食べないと気分が悪くなるほどに、納豆依存症に陥る。


つまり、納豆摂取者は、納豆菌に洗脳されているのだ。納豆を食べない外国人からは、納豆が腐敗臭を放つ醜い物体としか認識されない。これは、彼らが納豆を摂取していないために、納豆菌による洗脳を受けていないためだ。


納豆菌は摂取されたのちに腸内に居座り、腸内細菌として増殖する。納豆菌に特異的に発現しているナットウキナーゼなどの分子が、複雑な経路を経て脳神経系に作用し、ヒトの嗜好や行動パターンを制御していると推測される。納豆菌摂取者は主体性を失い、納豆菌のお操り人形と化す。


こう考えると、納豆菌の真実を知りながらも、納豆を摂取してしまう矛盾した行動も合点がいく。頭の中で、納豆菌は恐ろしいエイリアンであることを知識として持っていても、納豆菌を摂取する行動を止められないのだ。納豆菌に操られているがために。


これらの事実から、メディア、政府、そして納豆菌の意図がうかがえる。つまり、こうだ。納豆菌の真実が人々に知られたところで、もはや多くの日本国民は完全に納豆菌に洗脳されているため、反勢力にはなりえない。こう考えているのである。だから、大手メディアでも、納豆菌の真実が堂々と伝えられ始めたわけだ。


この説が間違いないことを証明する、さらに戦慄が走る証拠がある。最近になって、あろうことか、納豆菌がエイリアンであることを伝えるメッセージが刻まれた市販の納豆が、日本中に出回り始めたのだ。これが、その決定的証拠である。


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納豆のパッケージにはっきりと、書いてある。異様に大きな目を持ち、不気味な緑色の光沢を放つ小人型のものが「宇宙人」であると。


はじめてこれを目にした時、恐怖のあまり、印籠を見せられた悪代官のごとく腰と膝がくだけ、イトーヨーカドー食品売り場の片隅でしばらくのあいだ立ち上がれなくなってしまった。


この納豆が置いてあるのは、スーパーだけではない。Amazonにも置いてある。遠隔で、どこにでもこのメッセージが届けられるようになっている。


【ミツカン】金のつぶ パキッとたれ 国産小粒納豆


これ見よがしに、納豆菌の手先であることで潤っている納豆企業が、全国民に向けてこの恐ろしいメッセージを送っているのである。


かれらは、もはや、何も恐れていない。日本の征服はもう終了したというわけだ。我々は、詰んだ。あとは、この国の支配者が納豆菌であることを、全国民に知らしめていくだけである。


近いうちに、日本国首相、すなわち、納豆菌の下僕代表が、全国民に向けて納豆菌の真実を公式発表するだろう。その瞬間は、日本、世界、そして地球の歴史が書き変わるときだ。


納豆菌の真実が皆に知らされるXデーは、すぐそこに迫っている。


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世界初となるゲノム編集技術「CRISPR-Cas9システム」を用いた遺伝子治療が実施される

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中国の研究グループにより、世界初となるゲノム編集技術CRISPR-Cas9システムを用いた遺伝子治療の臨床試験が行われた。


CRISPR gene-editing tested in a person for the first time

PD-1 knockout engineered T cells for metastatic non-small cell lung cancer


ゲノム編集による遺伝子治療は、HIVをジンクフィンガーヌクレアーゼ(ZFN)を用いて行われた例がある。CRISPR-Cas9が使われたのは、今回が初めて。それにしても、世界に先駆けてヒト受精卵にCRISPR-Cas9システムでゲノム編集をしたのも中国だったし、中国はとばしますね。上のNatureの記事内では、専門家がアメリカ対中国の医学研究競争を「スプートニク2.0」とよんでいる。うまい例え。


ゲノム編集技術CRISPR-Cas9システムは、ゲノム上の狙った場所を簡便に改変することができる、生命科学研究における革新的なバイオテクノロジーだ。この技術については以前、詳しく書いた。


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今回のゲノム編集を利用した臨床試験の目的は、肺がんの治療。がん細胞は、免疫のはたらきを抑制して免疫細胞からの攻撃を受けないように立ち回ることができる。相手の攻撃力を下げるわけだ。ドラクエでいうとダウンオール。


具体的には、がん細胞表面ににょきっと出ているPD-L1がT細胞表面の受容体PD-1に結合すると、T細胞の活性化が抑制される。T細胞の攻撃力が弱まったのをよいことに、がん細胞はしめしめと増殖する。


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図. 杉山大介・西川博嘉. がん免疫療法:基礎研究から臨床応用にむけて. ライフサイエンス 領域融合レビューより


がんを抑えてやるには、PD-L1やPD-1の働きを抑えてやれば良い。こうすれば、T細胞は攻撃力を維持することができる。このようなアイディアから、これらに結合して働きを阻害する抗PD-1抗体あるいは抗PD-L1抗体の開発が始まった。抗PD-1抗体は、がんの治療薬として承認されている。がん治療のために免疫を強化すやり方は、がん免疫療法とよばれる。


中国の研究グループが今回行ったのは、ゲノム編集によるがん免疫療法である。ポケモンをアメで進化させるように、T細胞をCRISPR-Cas9で強化したわけだ。ポケモン、詳しくないので間違ってたらごめん。


研究グープは、肺がん患者から末梢血リンパ球を集めて、これらにCRISPR-Cas9システムをほどこし、PD-1をコードするPDCD1遺伝子を破壊したT細胞を作成した。


PDCD1遺伝子上の塩基配列と相補的な塩基配列をもつガイドRNAを設計してCas9タンパク質と一緒に発現させれば、Cas9タンパク質はPDCD1に案内されてここを切断する。DNA修復機構が働いて鎖がくっつく過程で変異が入り、結果としてこの遺伝子は破壊される。ゲノム編集によりPDCD1が破壊されたリンパ球を培養して増やし、ふたたび患者に注入して戻した(まだ今回の件は論文になっていないので、実験手法の詳細は不明)。


このT細胞はPDCD1遺伝子が破壊されたため、もはやPD-1は作られなくなる。がん細胞はT細胞表面のPD-1に結合できなくなるため、これにより、T細胞の活性を抑制できなくなる。よって、免疫は強化され 、がん細胞を攻撃し続けることができる。患者へのゲノム編集細胞の注入は、あと何回か行われるらしい。はたして今回の臨床試験がうまくいくのか、今後の経過が待たれる。


今回の場合、安価で使い勝手の良い抗体を用いた治療の方が良いのではないかという専門家の声もある。あとは、標的遺伝子以外の場所に、どれくらいの頻度で変異が入るのかもきになるところ。ったりしないかどうか。どんな副作用がでるのか、どちらがよいか、今後の経過が待たれる。


ゲノム編集技術のヒトへの応用に関しては、生命倫理に沿って慎重に議論を進めるべきだ、という声が大きかった。だが、技術の進展はいつでも、倫理観を劇的に変えてしまう。CRISPR-Cas9システムは、ゲノムだけでなく、私たちの倫理観や道徳観まで簡単に改変しているのかもしれない。


CRISPR-Cas9システムが研究者の間で広まり始めて、まだ数年しか経過していない。ゲノム編集技術 を利用した臨床試験は今後、世界中で加速に進んでいくことだろう。


※本記事は有料メルマガ「クマムシ博士のむしマガ」360号「世界初となるゲノム編集技術「CRISPR-Cas9システム」を用いた遺伝子治療が実施される」から抜粋したものです。

【料金(税込)】 1ヵ月840円(初回購読時、1ヶ月間無料)

「クマムシ博士のむしマガ」は、まぐまぐnoteで購読登録できます。


【参考資料】

実験医学 2014年7月号 Vol.32 No.11 ゲノム編集法の新常識! CRISPR/Casが生命科学を加速する

今すぐ始めるゲノム編集〜TALEN&CRISPR/Cas9の必須知識と実験プロトコール (実験医学別冊 最強のステップUPシリーズ)

遺伝子医療革命―ゲノム科学がわたしたちを変える


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【映画レビュー】『X-コンタクト』アクロバティックすぎるクマムシ映画

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ここ数年、日本におけるクマムシの認知度が急速に高まってきた。我が国のクマムシ研究は世界的に見ても進歩しており、下の記事でも紹介したように、2016年には日本の研究グループからクマムシの一種であるヨコヅナクマムシの全ゲノム解読と放射線耐性を向上させるクマムシタンパク質も報告された。


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アニメやお笑いなど、研究以外の様々な方面でクマムシを取り上げてもらうのも、クマムシ研究者として嬉しい。そして、クマムシが盛り上がっているのは日本だけではない。海外、とくに、アメリカでもクマムシの注目度は向上している。日本ではクマムシというと「かわいくて強い」イメージが先行する。


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クマムシさん


一方で、アメリカではむしろ、クマムシは「SFでグロテスクなコワモテ・クリーチャー」というイメージが強いようだ。それは、YouTubeにアップされているクマムシが主人公のオリジナルアニメ『Captain Tardigrade』を見れば明らかである。



この違いは『鉄腕アトム』と『スーパーマン』の差異を見れば理解できる。日本には「強いものは可愛くあるべき」という美徳があるが、アメリカではとにかくタフでマッチョな存在が信頼されるのである。


そんなクマムシがついに、ハリウッド映画になった。原題『Harbinger Down(ハービンジャー・ダウン)』。邦題は『X-コンタクト』である。やはり、ここでもクマムシは「SFでグロテスクでタフ」なアメリカンテイストに仕上がっていた。先日、DVDもリリースされた。


【DVD】映画『X-コンタクト』


予告編はこちら。



この映画の制作陣は『エイリアン』や『遊星からの物体X ファーストコンタクト 』を手がけてきた面々。邦題は『遊星からの物体X ファーストコンタクト』からとったようだ。


【Blu-ray】映画『遊星からの物体X ファーストコンタクト』


さて、クマムシ映画『X-コンタクト』。ハリウッド初となるクマムシをフィーチャーした映画ということで、これはクマムシ研究者ならば「観る」以外の選択肢はない。そこで先日、クマムシ研究所のメンバーと映画館「新宿シネマカリテ」での特別上映を観てきた。


内容はというと、シロイルカの生態調査をするためにカニ漁船に乗り込んだ大学院生の主人公らが引き揚げた氷漬けのソ連宇宙飛行士の死体に寄生していたクマムシがモンスターになって人々に襲いかかるという、かなり斜め上なもの。


驚いたのは、作品中にクマムシが映っていなかったことだ。厳密に言えば、私が知っているクマムシが映っていなかった。クマムシと認識できる唯一のシーンは、生物のデータベースにあったクマムシの写真くらい。


たとえば、シロイルカを研究する主人公が顕微鏡で人間の死体の組織を観察するシーンがあった。観察していた組織はピンク色をしたひも状の何かだったのだが、次の瞬間、すべてを悟った主人公はそれを見て自信満々にこう言い放つ。

クマムシだわ!


え???どこに?????


ピンクの毛糸を拡大したようなブツを「クマムシ」と大スクリーンの中からドヤ顔で言い切られ、新宿の中心で一人絶叫しそうになるほどの衝撃を受けた。クマムシを見たことがないと思われる、哺乳類を研究している学生が、クマムシ歴15年のクマムシ博士以上のクマムシ認識能力を備えていたとでもいうのだろうか。


驚きの描写は、これだけではない。本映画の設定では、1982年にソ連が秘密裏に打ち上げた有人月面探査機から回収されたロシア宇宙飛行士の体にクマムシが寄生した、ということになっている。ソ連の目的は、人間にクマムシの能力を与えて放射線耐性を高めることにあった。


いや、ちょっと待ってくれ。1980年代はまだクマムシ研究がぜんぜん進んでいない時代だ。クマムシの飼育系が確立され始めたのも2000年代に入ってからだ。しかも多細胞生物の遺伝子工学技術だって、未熟だった時代だ。クマムシの遺伝子機能は今でもまだまだ未知なところだらけだし、ヒトへの応用なんてとんでもない。


ただ、ちょっと落ち着いてみると、どうやら遺伝子工学で宇宙飛行士をクマムシ化したわけではないことに気づく。というのも、死体からはクマムシのDNAだけでなく、クマムシ個体そのものが検出されているからだ(上述したようにクマムシ博士にはクマムシが見えなかったが)。


つまり、「クマムシそのものを大量に人体に寄生させてヒトのクマムシ化を試みた」ということらしい。いや、そもそもクマムシは人間に寄生しないし、仮に寄生したとしても、そんな方法でクマムシの能力を付与できるわけない。「SF映画だからなんでもアリ」と言ってしまえばそれまでだが、強引にでも納得できるだけのリアリティはほしいところだ。


さて、宇宙空間で放射線を浴びた変異したクマムシは最終的にモンスター化し、その姿は液状の生物に変化したりするようになる。その形状も、とてもクマムシとは似ても似つかないものだ。本作品には、科学的な監修を行うアドバイザーは誰もいなかったのだろうか。


だが、そんなことはなかった。映画のエンドロールでは、科学監修に二人の博士がクレジットされていたのだ。そのうちの一人、 医学博士のDavid Persing氏は微生物感染症学が専門らしい。


「Real Science of Harbinger Down(X-コンタクトにおける本物の科学)」という、やたら挑発的なタイトルの動画で、彼はこう言っている。

私は微生物が専門で、クマムシについては研究人生の中でまったく接点がなかった。



すがすがしいほどに認めてしまった。「クマムシのことは何も知らない」、と。


クマムシのことを何も知らない微生物感染症学の専門家が監修したから、クマムシが人間に感染して・・・みたいな映画になったのだと判明した。


いや、だから、ね。


なぜ制作チームはクマムシ博士にコンサルを頼まないのか。


さて、アクロバティックすぎる映画本編のレビューはここまでにしよう。だが、これでもまだネタが尽きないのが、この映画のすごいところだ。本編が見せるアクロバティックさは、日本での公開担当者にも引き継がれていたのである。


それは、日本版の公式チラシに如実に表れていた。本作の実際の内容と、アマゾンの画像にも使われているこのチラシに書かれている紹介文が、まったく異なるのである。日本版チラシ制作の担当者は、80分ちょっとの本作品を観ずに紹介文やコピーを書いていたことを確信させられる出来栄えだ。以下、引用しよう。

19XX年、最北端の深海で新たな生命体が誕生していたー。


「それ」は決して起こしてはならなかったー。


19XX年。大学の研究のために祖父の漁船「ハービンジャー号」に乗り込んだ大学生セイディと仲間達。


彼らは深海を調査中、ソ連時代の衛星の残骸を発見する。引き揚げると中には氷漬けにされた飛行士の死体があり、死体には謎の生命体が寄生していた。


新種の生命体の発見だと喜ぶセイディたち。しかし氷の中で活動を停止していた「それ」は、氷が溶け、宇宙飛行士の死体とともに消え去ってしまう。


クルーたちが戦々恐々とする中、「それ」は液状に姿を変えながら出現し、彼らを襲い始めるー。


チラシの冒頭の、キャッチコピーにもなっている「19XX年、最北端の深海で新たな生命体が誕生していたー」という一文。この一文のすべてが間違いだ。


まず、「19XX年」という時代設定。本作は2015年が舞台である。実際に、作中にはスマートフォンやタブレットが登場している。


「深海」も違う。引き上げられた探査機は、深海ではなくわりと海面にプカプカ浮かんで漂流していた。しかも、「衛星」というよりは「探査機」である。


「深海で新たな生命体が誕生」も矛盾している。宇宙飛行士に寄生させたクマムシが宇宙空間で放射線を浴びて変異したというのが、実際の理由付けだ。


ただ、実際の作中でも「サンプルから多数の生物種に由来するDNAが検出された」と言っているシーンもあり、クマムシと海の生物が合体してモンスターになった可能性も示唆している。もしかしたら、この映画の脚本を書いた本人自身も、途中でこの映画をどうしてよいのかわからなくなったのかもしれない。


また、主人公は「大学生」ではなく「大学院生」だ。博士号をとるためにシロイルカのフィールド調査をしている、と述べているシーンがある。


このレベルのチラシの齟齬は、『となりのトトロ』に例えたらこんな感じではないだろうか。

時は第二次大戦。3歳のサツキと生後6ヶ月のメイは、小説家のお父さんと一緒に都会から田舎の一軒屋に引っ越してきた。


それは余命わずかのお母さんを、空気のきれいな家で迎えるためだった。近くの農家の少年カンタに「ゴミ屋敷!」と罵られたが、その家で最初に二人を迎えたのは、イガグリの妖精だった。


ある日、メイは庭で2匹の不思議な生き物に出会った。それはトトロというオバケで、メイが後をつけると、さらに大きなトトロがお茶の間でねそべっていた・・・・・・。


『X-コンタクト』日本版チラシのレベルを実感していただけただろうか。


ちなみに映画館の案内係も、開演前に「お待たせいたしました!これからX・・・(急いでタイトルを確認しにどこかに戻る)・・・あ、すみません、Xコンタクト!の開演です!」といった感じで、本作は割と雑に扱われていた。


最後に。いろいろと書いてきたが、私はもともとクマムシマニアが感銘を受けるようなレベルの内容は初めから期待していなかったし、中途半端に良い出来になるよりは、ツッコミネタの宝石箱のような作品になっていて、本作はむしろよかったと思う。上映後にクマムシ研究所のメンバーとも、作品にツッコミながら盛り上がり親睦も深まった。今では、『Xコンタクト』に深く感謝している。


クマムシについてあまりこだわらないマジョリティーには、B級SFホラー映画として本作品を楽しめることだろう。


だが、次にクマムシがフィーチャーされる映画が製作されるときは、監修者として声がかかるのを期待したい。それが、私の本音だ。


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※本記事は有料メルマガ「クマムシ博士のむしマガ」345号「クマムシSF映画超速レビュー」に加筆修正をしたものです。

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マンガ版『アカデミック・ラブ』

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  ア カ デ ミ ッ ク ・ ラ ブ



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─────4月上旬、北関東のとある学園都市でもようやく桜が咲き始めた。 



T大学は、そんな街の一角を占める総合大学である。 



日本でも有数の広大なキャンパスを擁し、学術面でもノーベル賞受賞者を輩出するなど誇らしい実績をもつことで知られている。  


その大学の片隅に位置する建物内に、動物生態学研究室がある。この研究室では、昆虫から脊椎動物に至るまで、さまざまな動物についての生態学的研究が行われている。  



毎年4月には、動物生態学研究室では新歓コンパが催される。



研究室で開催される新歓コンパの目的は表向きは文字通り「新入生を歓迎し親睦を深める」というものだ。だが、男性研究室員にとっては、これとは異なる明確な目的があった。 



──────それは、新入生の女の子にツバを付けることである。 


通常、理系の研究室では男女比が圧倒的に男側に偏っている。


このような条件下では、男性陣の間で女性メンバーを巡る奪い合い、つまり雄間闘争が起こる。


T大動物生態学研究室でも、研究室員の男女比は三対一と偏っており、例に漏れず雌をめぐる雄間闘争が起きる運命にある。           



よって、彼らににとっての新歓コンパの至上命令は、いかにして自分が他の男性陣をおさえて有利なポジショニングをとり、新入生の女の子にアプローチするかという事になる。


今回、新入生の中で女の子は修士一年生の竹園紗季ただ1人。



彼女はガの行動生態学に興味があったが、東京の国立大学の所属学科には生態学の研究室が無かったため、大学院からはT大動物生態学研究室に入ってきたのだ。  


都会の洗練された凛とした雰囲気を醸し出す彼女の存在は、研究室の中で少し浮いて映った。



しかし、純白のブラウスにかかる黒いネクタイには、蛾の刺繍が大きく施されており、彼女が年季の入った虫屋であることを示唆していた。  



修士二年生の大鷲京太が、お調子者キャラを全面に出しながら自分の椅子ごと紗季の隣に移動し、話しかけてきた。 



「蛾、好きなのかお?」


他の男性研究室員を出し抜いての、先制攻撃である。



「え・・・・・・・・」



「この蛾のネクタイ、自分で作ったのかお? それとも、どこかで買ったのかお?」



「えっと、アーティストが昆虫をモチーフにした作品を
展示するイベントがあって・・・・・・そこで買ったんです・・・・・。この蛾はクスサンで・・・・・・」



「へぇ~。オレは猛禽類の研究が専門だけど、虫も好きなんだお」



「えっ、そうなんですか?」



「もちろん!でも、この蛾の刺繍、本当によく出来ているお。ちょっと触ってもいいかお?」



「えっ・・・・・・。」


京太は、自分の右手を紗季の胸元に近づけた。他の男性研究室員たちを一気に突き放すため、準求愛行動ともいえる接触アプローチ戦略を展開したのである。   



(あっ・・・!?チ、チクショウ!)



(いいなぁ、あんな近づいて・・・・・・。)


───────だが・・・・・・・、


これを黙って見ていられなかったのが、研究室内ヒエラルキーの最上位に君臨するポスドクの観音台則夫である。 



「大鷲ぃ・・・お前、そんな事するから彼女いない歴23年なんだろうが。 ちったぁ女心勉強しろや!」



「な・・・・、何ですかお!?オレはちょっと昆虫について話してただけですお!」



「竹園さん、騙されちゃダメだぞ。コイツねぇ、昆虫好きをアピールしてたけど、ラボで企画している昆虫採集旅行に参加したこと
一度も無いんだよ。嘘なの、嘘。」



「・・・・・・・・・・・・」



「い、いやっ・・・・・、最近、昆虫好きになったんだお!本当だお!」



「じゃあお前、俺の研究材料のキチョウの学名言ってみろよ」



「うっ・・・・・・」



Eurema hecabeだよ。ほ~ら、昆虫のこと全然知らねーじゃん」



(あ~あ、終わったな・・・・・・。ポスドクの観音台さんの方が、教授の次にウチでの立場デカいし)



「大体、大鷲さぁ、女心もそうだけど、本業の自分の研究テーマについても、もっと勉強しろよな。この前のセミナー発表でも、データの取り方が全然ダメダメだった。サンプリングする前に、どのくらいのサンプルサイズが必要かとか、どの解析手法を採用するかとか、ちゃんと検討しとけっつーの」



「は・・・、はい・・・・・・」



「鳥の研究は、ただでさえデータ取りにくいんだからよ。お前、ドクター行きたいって言ってるけど、それだと何年かかっても学位とれないよ?わかってる?」



「・・・・・・・・・・・・・」



「竹園さんもこれから分かってくるだろうけど、研究ってやっぱストラテジーが重要だからさ。ま、その辺は俺に聞いてくれれば何でもアドバイスするから、遠慮なく絡んできてよね。同じ虫屋同士、同じ鱗翅目屋同士だしさ」



「は、はい!」



則夫はアカデミックなアドバイスをするように見せかけて、京太をとことんディスった。 


京太が研究室内のヒエラルキーが低いのをアピールする事で、相対的に自分がいかにオスとしての力があるか、そして優れているかをこれでもかと紗季に見せつけたのである。 



結局則夫の思惑通り、紗季は彼を質の高い魅力的なオスとして認識するようになった。 



男性大学院生たちは、誰も則夫を敵に回して紗季にアプローチすることを許されなかった。 



則夫は、紗季が野外調査をする際には自家用車を出したり、研究のディスカッションと称して二人きりでファミレスでの食事に誘った。 



則夫のポスドクとしての給与は決して高くなかったが、車で出迎えたりロイヤルホストで食事を奢るような事は、京太や他の貧乏院生には決して出来ない芸当であった。


勿論、大学の外の世界を見れば、則夫よりもはるかにオスとしての魅力をもつ男性はゴマンといる。外見だって、則夫は決してイケメンとはいえない。 



だが日本の大学院生は日夜研究をするので忙しく、外部の人間と接触する機会がきわめて乏しい。よって、人間関係は研究室内で全て完結するため、恋人候補も研究室内のメンバーに限られてくる。


研究室内で最も質の高い異性に魅かれるのは、当然の帰結なのだ。 


──────新歓コンパから四ヶ月後、お盆を前に、紗季と則夫は交際する事になった。 



京太の心の叫びを代弁するかのように、けたたましく鳴くセミたち───────。 



それから3年が経過し、また新しい春がきた。



京太は博士課程3年生になっていたが、この間に恋人が出来たことは一度としてなかった。 



研究室に、紗季以外に好みの女がいなかったわけではない。だが、アタックしたところで振り向いてくれる女の子がいるようには感じられなかった。



そして何より、京太にはアタックする意欲そのものが失われていたのである。


日頃から則夫にさんざんコケにされ続けた京太は、
研究室内ヒエラルキーの下位から脱することができなかった。
このような地位にいる限り、女子からはオス的魅力に欠けるダメ男子として見なされてしまう。



すると、ますます自信が失われる。
自信が失われると、オス的魅力も失われていく。
学年が上がっても下位ヒエラルキーから脱することができず、ますますモテなくなる。



セミの幼虫のような地中生活を余儀なくされていた京太だったが、今年は大きな転機が訪れた。 



則夫が研究室を去ることになったのだ───────!   



「すまない。
今年は科研費を獲得できなくてな・・・・・・。
これ以上ポスドクとして雇えなくなったよ」


則夫はアカデミックポストに就くことができず、東北の小さな博物館で非常勤の学芸員として働くことになった。



そしてこの異動が引金となり、紗季と別れることになった。



則夫はいなくなった事で、京太がヒエラルキーの最上位に進出できるチャンスが出てきた。さらに、紗季も今やフリーの存在だ。 



十分に栄養を蓄えたセミの如く、京太は長い地中生活に終止符を打ち、高々とそびえる桜の木に登る準備を始めた。羽化をするまで、もう秒読み段階だ。 


新歓コンパやラボミーティングでは、最上級生である京太が主に仕切ることになった。 



則夫に散々コケにされ続けた日々・・・・・・・・・。  



京太は決意していた。自分がアイツにやられた事を、後輩にはしたくない・・・・・・・・。 


──────だなんて、微塵も考えてなかった。 



則夫が自分にしたように、自分も後輩を徹底的にコケにする。そうやって後輩どもが紗季に手を出さないようにする。そう固く誓っていた。



「千現~!!お前、一番下のくせに酌もできねえのかお!そんなんだからデータを取るのもダメなんだお!!」



「す・・・・、すいません!」



「オレはオオタカの研究者なんだお・・・・・。」



「何より、オオタカは肉食獣なんだお。」



「だから、オレは最強の肉食になるんだお!」


森の中でオオタカのメイティング・ビヘイビアーの観察をしながら、京太は紗季とのメイティング・ビヘイビアーを夢見ていた。(メイティング・ビヘイビアー:交尾行動)


則夫が去った事により空白となったボスザルのポジションを、ついに獲得したのだ。それまでは路上の隅に生える干涸びたコケを見るような目で京太を見ていた女性研究室員たちの接し方も大きく変化していた。



「大鷲先輩~。ここ、分からない所あるんですけど・・・・・」


オスとしての魅力が現れ始めた京太は、自信も出てきた。そして研究室内でよりいっそうボスザルらしく振る舞う。すると、さらに女性研究室員が京太を慕うようになり、プライベートな相談までする女子も出てきた。




他の女性研究室員と同じく、ポジティブ・モテ・フィードバック(PMF)期に突入した京太を見る紗季の目も次第に変わっていった。  




(・・・・・・・・・・・・機は熟したお!)



「─────この前のプレゼンの時に言ってた解析の問題、もう解決したかお?」



「え、いえ、まだちょっと考えてるんです・・・・」


少し驚いた表情をしてから目を下に移し、はにかみながら答えた。マイナーリビジョンだ。(マイナーリビジョン:論文を少し改訂する事)  



「あれね~、あれはやっぱりNが少なすぎるのが原因だと思うんだおね。Nをもっと増やした方がいいお!」(N:実験のサンプル数)



「でもぉ・・・・・、私一人で採集しているからなかなかサンプルがとれなくてぇ・・・・・」



「・・・・・・・・よかったら、今度手伝ってあげるお。オレもD論も目処がついたし、大丈夫だお。よし、来週行くお!」



「ええっ・・・・・!いいんですか!?」


─────無事アクセプト。コングラチュレーション! (アクセプト:論文が受け入れられる事)


これを皮切りに、ディスカッションと称した深夜のファミレスデートなど、京太は様々な方法で紗季にアプローチを続けた。  



京太は無事に博士課程を三年間で卒業し、博士号の学位を取得した。卒業後は、S総合研究所にポスドクとして赴任することも決まった。 


────────そしてついに京太は紗季と交際し、半同棲生活をすることに決めた。 




「紗季とのメイティング・ビヘイビアーもしちゃったお!」


京太はこれまでの人生で、最良の時代を迎えていた───────。 


────────そして、さらに3年の時が流れた。


紗季は京太の指導もあり、無事に三年間で博士課程を卒業。卒業後は、昆虫の研究で有名なN資源研究所のポスドクの職に就いた。 



この二年間、二人は順調な同棲生活を送っていたが・・・・・・・・・・、ここのところ、二人の周りには重たい空気が流れ始めていた。



京太の勤め先でのポスドク任期があと三ヶ月で終了するにもかかわらず、次のポジションは未だ決まらなかった。 



「また・・・・・・・、ダメかお」


この一年近くの間に、大学の助教や研究所のポスドクなど合わせて十以上のポジションの公募に応募したが、全て落ちた。書類による第一次審査すら通らなかった。   


公募選考の際に重要なのは、研究業績だ。具体的には、国際科学誌に掲載された論文の本数と質によって判断される。



京太の場合、筆頭著者として二報の論文を発表していた。一報はT大在籍時に行っていたオオタカのメイティング・ビヘイビアーに関する内容、もう一報は、S総合研究所に来てから調査した、関東地方におけるオオタカの分布についてのものだ。


ポジションの公募における審査の際、論文の質はその論文が掲載された雑誌のインパクト・ファクターにより判断される。 つまり、雑誌のインパクトファクターに論文数をかけた結果が応募者の業績とみなされるのである。 



京太は、いずれも鳥類の生態学に特化した国際科学誌で発表したが、そのインパクト・ファクターは2を少し上回るほどであり、生態学関連の雑誌では中堅の部類に入る。(インパクト・ファクター:科学系学術雑誌の影響度、引用された頻度を測る指標。高いほど、そこに掲載される論文は優秀とみなされる)


当たり前だが、各公募では応募者の中から一人だけが採用される。いくら優秀でも、二番目以下では不採用なのだ。 



ダメなんです。 


そして何より、京太には強力なコネもなかった。今も昔も、研究職の公募はコネで決まることが少なくない。


京太は、自分よりも業績の少ない人間がコネで助教の職に決まったケースを何度も見てきた。 


───────しかし、まだ最後の望みが残っていた。 



京太の古巣であるT大動物生態学研究室が、教授の定年退官に伴い、その後釜として助教を募集していたのだ。


────────しかも、今時珍しく任期のないパーマネントのポジションである!(パーマネント:普通なら助教までは目立った功績が出ない限り、雇われる年期に限りがある。一方、パーマネントはずっと大学に雇ってもらえる身分なのである)


パーマネントのポジションをゲットすれば、もう任期が切れて無職になる悪夢を見なくて済む。嫁も見つかる。マイホームも手に入る。この世のすべての苦しみから解放される。パーマネント、それは果てしない夢でありユートピアだ。


コネという点で、研究室出身の京太はとてつもなく有利な立場にいた。実際に、応募書類を提出する前に動物生態学研究室に挨拶に行ったときも、教授はこう言った。



「知らない人よりは、知っている人を選びたいねぇ・・・・」


だが、京太には一つ気がかりなことがあった・・・・・・・・・・・・。 



動物生態学研究室に在籍時に、京太をさんざんコケにした、あの観音台則夫である。



則夫がこの公募に応募してきたら、教授は自分ではなく、則夫を選ぶかもしれない。そんな不安を抱えていた。


そこで京太は動物生態学研究室を訪れた際、後輩である千現武志を呼び出した。 



「おい、千現。今回の公募、観音台さんは応募してくるのかお?お前、なんか聞いたか?」



「え、いえ・・・・・・・・。多分、観音台さんは応募しないと思いますよ」



「え?そうなのかお?」



「はい。観音台さんは研究はもうやめたらしいです。先生が話していました。なんか、どこかの出版社に就職したらしいです・・・・・・」



───────勝った。京太はそう確信した。 




「紗季、例の公募、もうオレで間違いなさそうだお。先生もコネを優先するって言ってたし、他に対抗馬がいないお!」



「本当!?よかったじゃなぁい!今度は、期待してるんだからぁ」



「期待してろお!んじゃ、メシ食いに行くお!」




「ご注文は?」



「・・・・・・」



「ちょっとぉ!何、あのコのことジロジロ見てるのよぉ!」



「み、見てなんかないお!?」



「どうかしらぁ。おバカさんなんだから・・・・・・」


胸元のネクタイに鎮座するクスサンも、紗季と一緒に自分を睨みつけているような気がした。


それから一ヶ月が経過した初雪の日・・・・・・・。



京太の元に、一通の封筒が届いた。 




「お?T大からだお!全く、やっと来たのかお!」



「ウヒヒ、どうせ助教はオレに決まったっていう・・・・・・、」



「・・・・・・・・・・・・・・・・え?」





「な・・・・、なんで・・・・・・。
なんでオレが・・・・・。えっ・・・・・?
」



「ただいまー。あら?どうしたのよぉ?」



「あ・・・・、あ、あ・・・・・・・・」



「・・・って、ええっ!?ダメだったの!?どうして・・・・・・!」



──────翌日、教授からメールが来た。 




「本当に申し訳なかった。実はね・・・・・・、」


教授は京太ではなく、あの後輩の武志を助教に採用していたのだ。



教授が武志を採用したという事実。


これは、教授が自分の後釜にふさわしいのは武志であり、京太ではないと考えていた事を示していた。




「う・・・・・・・!」



────────右手に激痛が走り、京太は意識を取り戻した。



目の前には、無惨に破壊されたパソコンがあった。   



無意識のうちに、自分のノートパソコンに鉄槌を下していたのだ。何度も、何度も。    


破壊されたノートパソコンからは、ゴムの焼けるようなにおいが立ちのぼっていた。


濃い、敗北のにおいだった───────。


───────半年後、太平洋に浮かぶO島



京太は、この島で環境省管轄下の自然保護官補佐とよばれる職に就いた。



気にやんだ教授が、彼にこの職を紹介したのだ。


O島は人気のない孤島だが、希少生物の宝庫として、一部のナチュラリストの間で人気のあるフィールドだ。



勤務内容は、研究活動というよりも管理監督業務に近い。自然公園内の管理や監視、そして生物調査が主な仕事である。


もちろんポスドクではない。給与は手取りで二十万円を少し上回るほど。契約期間も一年で、更新はない。



紗季との遠距離恋愛生活も、すでに五ヶ月目に入った。交通費が馬鹿にならないので、お互いに会うことはせず、LINEと電話で連絡を取り合っていた。


京太は研究者として復活するために、相変わらずポスドクや助教の公募に応募し続けていた。そして、相変わらず落ち続けていた。



しかし、諦めるわけにはいかない。できれば、どこかの大学や研究所でポジションを得て、また紗季と一緒に暮らしたい。そう願っていた。 


ただ、最近は紗季の反応が気になっていた。 



以前はLINEでメッセージを送ると数時間以内に返ってきたのに、ここ最近は一日以上経っても既読にならないこともあるからだ。携帯電話に着信を残しても、折り返しかけてくることがなくなってきた。 


忙しいとか言っているくせに彼女のフェイスブックには、食べものや研究者同士の飲み会での写真が頻繁に投稿されていた。



「かつての研究室の皆と飲み会!とっても楽しかったわ~♥ 」


───────そして、その写真には助教になった武志の姿があった。


写真の中の武志は不敵の笑みを浮かべ、その目は京太のことを小馬鹿に見下しているかのように見えた。



「ち・・・、ちくしょう・・・・・・・。」


京太は、頭の中に無数のフジツボがびっしりと張り付いているような感覚に襲われた。 


重力にまかせて重くうなだれた頭を、上げることができなかった。


京太の業務は、大半を歩く時間に費やす。歩行をしている間、脳内は自然と紗季で埋め尽くされる。



「紗季のヤツ、オレよりもアイツらとの飲み会を優先しやがって・・・・・・。アイツ、絶対に何かを隠している。いや、気のせいかもしれない。でも、あの態度は・・・・・・・」


そして、いくら考えたところで決して答えが出ないことに気づいた京太は意を決してLINEで尋ねることにした。 



案の定、紗季からはすぐに返信は来なかった。 



三十分おきにLINEをチェックしていたが、一日、二日と時間が経っても一向に既読にならない。  


一日が、何十日間にも感じられた。 



「クソッタレ!もう3日だお・・・・・・!」



「!? 電話が来た・・・・・・・!」




「い、いいんだお!そんなの!それより、その・・・・・・。」






「・・・・・・・・誰だお。
まさか・・・・・・、」






「─────やっぱりかお!あのクソ野郎が!!」



「テメエ、嘘つきやがって・・・・・。 「ずっと一緒にいようね」って言ってたくせに。お前の研究だって、ずっと面倒見てきたのに・・・・・!」




「ああ、わかったお。パーマネントだからだお?アイツはパーマネントだからだお!?どうなんだ、オイ!?」




「京ちゃんも言ってたじゃない。「生物にとって、適応度の期待値が大事だ」って。武志くんはパーマネント。だから、これから安定した収入が見込める。若くて研究能力もあるし、このままいけば順調に教授になると思うわぁ。」





「専門が生態学だとドクターを持ってても潰しがきかないからアカデミア以外の就職も難しいでしょ。私が適応度1以上、つまり子どもを二人産んで養っていくには、よ。このまま京ちゃんと一緒だと難しいの自分でも分かってるでしょ?」



「オ、オレはいつか・・・・・、」




「「世界一の鳥類研究者になる」とか、「『Nature』3報はいける」とか、「オレのモットーは大きな野望と高い志。「オオタカ」なだけに」とか・・・!現実を見なさいよ!!まだファーストが2報しかないし、インパクト・ファクターの合計も5にも満たないじゃない!!」(ファースト:自分の名前が最初に載ってる論文)



「京ちゃん、武志君のこといつも馬鹿にしてたけど、あのコはドクターとる前に、あの『Nature Ecology』に二報出してるのよ?コネが無くったって、助教になってたわ絶対!」








───────2年後、




「いやぁ、本当に君そっくりだなぁ!」



「いやぁね、赤ちゃんは成長したらまた顔が変わってくるし、まだどっちに似ているかなんて分からないわぁ。」



「でも、自分の子どもがこんなに可愛く産まれてくるなんて信じられないね。よかったよ、僕に似なくて!」



「あ、そろそろミルクあげなきゃ。」


この世に存在する苦しみを一切知らない赤ん坊は、これ以上無い平穏な表情で母乳を飲み続けた・・・・・・。赤ん坊にかけられたよだれかけに施された刺繍のクスサンも、やはり平穏な表情で母親をじっと見つめていた。


なお、その後の京太の消息を知る者は、誰もいない。



※マンガ版『アカデミック・ラブ』はオリジナル作品『アカデミック・ラブ』をもとにした二次創作をもう一度原作に近づけて作成し直した三次創作です。


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NASA発表の「エウロパに間欠泉の存在」の意味を考える

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Credit: NASA Goddard


現地時間の2016年9月26日にNASAで会見が開かれ、「木星衛星エウロパから吹き出す水と思われる物質を観測した」と発表した。


NASA’s Hubble Spots Possible Water Plumes Erupting on Jupiter's Moon Europa


これは先日、小野雅裕さん藤島皓介さん、そしてここで予想した内容とほぼ一致。今回の予想は優しかった。ただ、私が希望的観測で予想していたエウロパ全域での間欠泉の存在や、有機物の検出については、今回の発表に含まれていなかった。


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エウロパの地表は厚い氷で覆われており、その下には内部海があると信じられていた。液体の水があれば、生命体が潜んでいても不思議ではない。NASAはエウロパの探査計画に力を入れている。


さらに、もしエウロパに間欠泉が存在し、宇宙空間まで吹き出していれば、探査機が海に潜ったり地上に着陸しなくても、間欠泉を突っ込んで成分を分析したりサンプルを採取することも可能になる。今回、ハッブル宇宙望遠鏡の紫外線観測により、エウロパの7時の部分から水蒸気が噴出していることが示唆された。ちなみに、エウロパから吹き出している水の高さはおよそ200kmに達するらしい。


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Credit: NASA


今回の報告は、NASAの動画で2分ほどでよくまとめられているので、英語だがこちらもおすすめ。



ところで、エウロパから間欠泉が吹き出していることを報告したのは、今回が初めてではない。今回の研究グループとは別の研究グループが、2014年にScience誌にて同様の内容の報告をしている。


Transient Water Vapor at Europa’s South Pole: Science


通常、わざわざ大きなアナウンスをしてまで発表する内容には、大きな科学的新知見が含まれる。今回のように、そこまで新規性が高くない研究結果が大々的に報告されるのはまれだ。


今回の発表に踏み切ったのには、ある理由が考えられる。2014年にScience誌で報告されたエウロパの間欠泉のデータについては、そのあとで別の研究グループが同様の観察をしても確認できず、再現性が取れていなかった。間欠泉が吹き出るのは恒常的ではなく、エウロパと木星の距離によって出たり出なかったりすると考えられたが、「エウロパに間欠泉はない」という主張をする研究者も出てきた。


エウロパから間欠泉が噴出しているのか、していないのか。このどちらかによって、NASAや他の宇宙開発機関によるエウロパ探査の計画は大きく変わってくる。もし間欠泉があれば、上述したように、探査がやりやすくなり、その意義も理解されやすい。予算もつきやすくなる。一方で、もしも間欠泉がなければ、セクシーな研究プロポーザルを書く難易度は上がる。実際に、エウロパ探査に関わる研究者らは、この問題に頭を悩ませていたことがリポートされている。


Plumes on Europa tease NASA mission planners


エウロパに間欠泉があるかどうかは、NASAにとっても組織全体を左右する大きな問題だったのだ。


今回の研究の科学的新規性としては、木星を背景にしてエウロパを観察したことと、間欠泉が出ているのを3回確認したことが挙げられる。今回の成果の発表予定雑誌はAstrophysical Journal誌。良い雑誌だが、前回の研究成果がScience誌に掲載されたことを考えれば(あまりインパクトファクターで比べたくないが)、雑誌のランクが落ちた感は否めない。論文の審査員も、科学的には二番煎じという印象を持ったはずだ。


もちろん、科学的な新規性に乏しいから会見を開く意義がない、というわけではない。このようにして科学研究や宇宙開発の最前線を世界にアピールするのはポジティブな啓蒙にもよいことだ。ふだん、科学研究に興味のない人で、このブログに訪れた人も多いはず。そしてなによりも、個人的には地球外生命体の1日も早い発見を期待している。


※本記事は有料メルマガ「むしマガ」353号「NASA発表の「エウロパに間欠泉の存在」の意味を考える」からの抜粋です。


【参考資料】

生命の星・エウロパ:長沼 毅 著


地球外生命を求めて:マーク・カウフマン 著


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NASAの「木星衛星エウロパに関する驚くべき発見」を予想する

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Credit: NASA, Michael Carroll


NASAオフィシャルサイトによると、「木星の衛星のエウロパの内部海に関連すると思われる活動についての驚くべき証拠」についての記者会見を現地時間9/26の14:00(日本時間9/27未明)に開くようだ。


NASA to Hold Media Call on Evidence of Surprising Activity on Europa: NASA


これまでに「ヒ素をDNAに取り込む細菌」や「火星表面に液体の水」など、私はNASA発表の予想を的中させており、なぜか恒例になってきたNASA予想。今回の発表内容も予想してみようと思う。


今回のNASAの告知文には、「エウロパ」「活動」「地下海」など、かなり具体的な情報が与えられている。過去の告知文にはもっと曖昧な情報しか掲載されていなかった。今回の予想難易度は高くなさそうだ。


さらに、今回の発見は「ハッブル宇宙望遠鏡により取得した画像から明らかになった」と書かれているため、発見内容をさらにを絞りやすい。ハッブル宇宙望遠鏡では、生命体を直接確認することはできない。つまり、今回も、少なくとも「地球外生命体を発見した」というアナウンスでないことは確かだ。


このように、NASAの告知文の情報からも、多くの情報を引き出せる。さらに、記者会見に出席するメンバーを見てみよう。


Paul Hertz, director of the Astrophysics Division at NASA Headquarters

Britney Schmidt, assistant professor at the School of Earth and Atmospheric Sciences at Georgia Institute of Technology

Jennifer Wiseman, senior Hubble project scientist at NASA’s Goddard Space Flight Center

William Sparks, astronomer with the Space Telescope Science Institute


一人目のPaul Hertz氏はNASA本部からの人。この人は基本的に体裁を整えるための人員なので、予想のための情報は何も得られない。


二人目のBritney Schmidt氏は、エウロパのハビタビリティ(生命居住可能性)の研究を専門としているようだ。今回の研究では、得られたデータを元にモデリングなんかをしたのかもしれない。


三人目のJennifer Wiseman氏はNASAの宇宙物理学者で、ハッブル宇宙望遠鏡プロジェクトのシニアサイエンティスト。彼女はハッブルプロジェクトの主要メンバーであると同時に、サイエンスコミュニケーションにも明るいらしいので、今回は研究内容に関わっているというよりも、プレス向けの適任者として彼女が表に立っているのかもしれない。


残る最後の四人目、William Sparks氏は天文学者。Sparks氏は、ハッブル望遠鏡を使ってエウロパを調べているようだ。


ここから先は「エウロパ」と「ハッブル宇宙望遠鏡」の特性について考え、さらに、「セクシーな発見」の落とし所を予想する必要がある。


なぜ木星の衛星エウロパが注目されるのかというと、この衛星には氷の層の下に内部海があり、そこに生命を宿している可能性があるからだ。他には土星の衛星エンセラドゥスも同じような内部海がある。


地球外生命体の調査は宇宙開発においても重要課題であり、NASA JPLはエウロパに特化したミッションも計画している。


では、ここから予想の核心に入る。今回の発見は「木星の衛星のエウロパの内部海に関連すると思われる活動についての驚くべき証拠」。つまり、内部海に関すること。しかし、ハッブル宇宙望遠鏡では内部海まで観察するのは難しそうだ。では、内部海に関連する何を見つけたというのだろうか。


こうなると答えは簡単だ。「エウロパの内部海から外に噴き出したと思われる間欠泉(プリューム)がハッブル宇宙望遠鏡により確認された」が今回のNASA会見内容だろう。


今回のこの予想は、すでにNASA JPL技術者の小野雅裕さんや元NASA Ames研究者の藤島皓介さんもしているのだが、自分もゼロベースから考察して、お二人と同じ結論に辿り着いた。ここからは、少し私なりに補足をしていきたい。


さて、実は「エウロパの内部海から外に水が噴き出ている」というのは、新しい発見ではない。2014年にScience誌で「ハッブル宇宙望遠鏡によりエウロパの南極上で水蒸気が確認された」という報告がすでにあるからだ。


Transient Water Vapor at Europa’s South Pole: Science


もともとは木星探査機のガリレオにより、エウロパの表面にひび割れのような痕跡が確認されており、ここから水が噴き出ている可能性が指摘されていた。そしてハッブル宇宙望遠鏡の紫外線観測により、エウロパ南極上に水蒸気が存在することが示唆された。


だが、その後はエウロパから水が噴き出しているという証拠は得られず、発見そのものが怪しまれていた。別の研究チームは、エンセラドゥスでは容易に検出された間欠泉の証拠がエウロパでは全然見つからなかったとコメントしている。


「水蒸気はあるよ派」は、エウロパと木星との距離によって水が噴き出たり出なかったりするのではないか、と主張していたが、論争に決着は付いていなかった。


NASAとしてはエウロパから間欠泉が吹き出ていれば、探査機によるサンプルリターンも視野に入れた、充実したミッションを推し進めることも可能になる(政府から予算をたくさん獲れる)。「間欠泉あるかないか問題」は科学的にも政治的にも大きなジレンマだった。



おそらくだが、今回は、William Sparks氏を中心とした研究グループが、かなり高い確度で頻繁にエウロパからの間欠泉が吹き出ている様子をキャッチしたのかもしれない。データの量と質が充分で、疑惑に反論できるとか。ちなみに、William Sparks氏は、エウロパの間欠泉を探すことに特化してハッブル宇宙望遠鏡を使っているらしい。この情報からも、ほぼ間違いなく、今回の予想は当たりだろう。


希望的観測だが、間欠泉が出ているのは南極だけでなく、エウロパのかなり広範なエリアで見られたのかもしれない。木星とエウロパとの間に働く潮汐力により、エウロパの海底は活発な火山活動が起きている証拠にもなる。生命が誕生しやすい環境条件、と言えるかもしれない。


さらに、間欠泉のところに有機物まで検出された可能性もある生命の部品である有機物が発見されていれば、エウロパに地球外生命体がいる可能性がさらに増す。まあ、こちらは当たったらいいな、くらいのオマケということで。


科学的にもNASAとしても「エウロパの間欠泉はあった。再現性がとれた。だからみんなエウロパに安心してお金を出そう」というアピールになる。


土星の衛星エンセラドゥスも間欠泉が宇宙空間に吹き出ているので、探査機がそこを通って分析したりサンプルリターンする案が日本では持ち上がっている。もしエウロパでも同じような間欠泉があれば、エウロパのミッションも加速するだろう。エウロパはエンセラドゥスよりも地球から近い。


ということで、今回の予想的中確率は80パーセント以上と思われる。26日の発表を楽しみに待つことにしよう。


※本記事は有料メルマガ「むしマガ」352号「NASAの「木星衛星エウロパに関する驚くべき発見」を予想する」からの抜粋です。


【追記】

予想がほぼ的中しました。

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【参考資料】

生命の星・エウロパ:長沼 毅 著


地球外生命を求めて:マーク・カウフマン 著


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レールを外れてクマムシ研究

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クマムシは極限環境に耐える動物として知られる。私たちは今回、そのクマムシの中でも横綱級の耐性を誇るヨコヅナクマムシの高精度ゲノム配列を決定し、本生物の放射線耐性機構の一端を解明した。本論文はNature Communicationsに掲載された。


Hashimoto T*, Horikawa DD*, Saito Y, Kuwahara H, Kozuka-Hata H, Shin-I T, Minakuchi Y, Ohishi K, Motoyama A, Aizu T, Enomoto A, Kondo K, Tanaka S, Hara Y, Yoshikawa S, Sagara H, Miura T, Yokobori S, Miyazawa K, Suzuki Y, Kubo T, Oyama M, Kohara Y, Fujiyama A, Arakawa K, Katayama T, Toyoda A†, and Kunieda T†. Extremotolerant tardigrade genome and improved radiotolerance of human cultured cells by tardigrade-unique protein. Nature Communications, 7, pp. 12808. 2016
*: equal contribution
†: corresponding author


日本語のプレスリリース文はこちら。


ヒト培養細胞の放射線耐性を向上させる新規タンパク質をクマムシのゲノムから発見:東京大学


本研究の研究内容についてはプレスリリースも出ているので、ここでの解説は控えようと思う。その代わりに、ちょっと余談でも。


私がクマムシの研究を始めたのは2001年。まだ学部生の頃だった。たまたま配属された研究室の関教授がクマムシの研究をしていたことがあり、さらにOBの先輩から実際にクマムシを見せてくれた事が、クマムシ研究を始めるきっかけになった。


その後、大学院に進んでもクマムシの研究を続けようと決心していた。当時の指導教官の東教授はアリの生態学が専門だったが、「クマムシしかやりたくない」という私を受け入れて指導をしてくれた。余談だが、私は今、「アリしかやりたくない」という学生の指導をしている。何の因果だろうか。


さて、当時、頭の中にお花畑が咲いていた私は「クマムシの耐性についての研究はほとんど手付かずの状態で、自分でも何か面白い発見ができる。もしかしたら、第一人者にだってなれるかも」と思っていた。バカが考えそうなことだ。


当たり前だが、手付かずの研究分野には知見が蓄積されていないため、何から手をつけて良いのかわからない状態であった。クマムシがどんな餌を食べているのかも、ほとんど知られていないような状況だったのである。ちょっと賢い人間であれば、こんなリスクの高い研究など絶対に手を出さないだろう。


何とか生態学的な研究を行い修士課程を卒業したものの、クマムシ研究には限界を感じていた。実験室での飼育系も確立していない生物に、未来はない。そんなとき、幸運にも慶應義塾大学の鈴木忠さんが肉食性クマムシのオニクマムシの飼育系を確立した。この飼育システムを使えば、クマムシ研究は一気に進む。光が見えた気がした。


だが、いつも現実は甘くない。小さなクマムシを分析するには、多数の個体を集める必要がある。オニクマムシはなかなか増えず、ときには1日に16時間ほども世話をした事もあった。もはや、飼育ではなく介護だ。これでは、ゲノム解析にしろ、放射線耐性メカニズムの解析にしろ、実際にやり遂げるのはかなり難しい。


そしてオニクマムシに見切りをつけることに。新しく飼育ができる種類のクマムシを探しはじめたのである。博士課程2年のときだ。もちろん、飼育できるようなクマムシが見つかる保証は、どこにもない。博士号を取れず、ドロップアウトするリスクも覚悟の上での判断だった。


そして幸運な事に、博士課程2年の秋に、1種類のクマムシがクロレラを食べて繁殖することを発見。修士課程のころに、札幌市内で見つけた褐色のクマムシだった。


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寒天培地の上でクマムシがどんどん増えていくさまを目にしていたこの頃が、これまでの研究人生の中でもっとも興奮した時期だった。


実験を重ね、この褐色のクマムシは他の種類のクマムシと比べてもだいぶ高い耐性をもつことがわかった。そこで、ヨコヅナクマムシという和名を与えてやった(学名はRamazzottius varieornatus)。単為生殖で増えるこのクマムシを1匹から増やし、標準系統も作り、これにはYOKOZUNA-1と名付けた。


2006年から、東京大学の國枝さんらと、このヨコヅナクマムシのゲノム解析のための研究をスタートさせることになる。まだ、この研究自体には何の研究費も付いていない頃だった。それでも、みんなでたまに集まって飲んでは議論したり、楽しい時期だった。


その後、私は博士号をとったものの、なかなかポジションが取れずにオーバードクターになった。クマムシにつけてもらえる予算はなかったのである。無給でゲノム解析のためのクマムシサンプルを育てたり、放射線耐性の研究をする日が続いていた。


結局そのあと、私はアメリカとフランスで計5年を過ごし、また日本に帰ってきた。慶應で非常勤として研究しながら、非専門家を集めたクマムシ研究所も主催したりと、割と不思議なポジションにいながらもクマムシの研究を継続している。


クマムシ研究所を設立しました
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その間にも、慶應の荒川さん東大の國枝さんのところのように、世界的なクマムシ研究の拠点と呼べる研究室もできた。そして、今回のヨコヅナクマムシのゲノム解読の、10年越しの研究論文発表。クマムシ研究にひとつの節目をつけられたようで、本当に感慨深い。クマムシの研究を始めた学部生の当時、このような日が訪れるとは予想できなかった。


また、Dsupについては機能解析を進めた橋本さんの仕事の成果で、これも当初はリスクの高いテーマだと思われていた。


私がクマムシ研究を始めた頃は、よく否定的なことを言われたものである。「クマムシは研究というよりは趣味の世界」と言われたこともある。それでも、たくさんの人に支えてもらい、今でもクマムシの研究をすることができている。私が作った実験系を使って、クマムシの研究をしている研究者や学生もいる。クマムシ研究所BioClubのワークショップでは、小学生から社会人まで幅広い層の人たちが研究をしている。


クマムシワークショップ開催
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当時の私は、大学院に進んだ学生の中でも、だいぶレールから外れた研究テーマを選んだ。一歩間違えれば、学位が取れずに研究者としてはとっくに死んでいただろう。だが、そういうバカな人間だって、人柱として必要なこともある。私が成し遂げてきたことなどたかが知れているが、それでも曲がりなりにも、自分の研究が誰かの研究に役に立っていたりする。


バカが勘違いをして始めた研究がそこそこの成果を生み、そこに色んな人たちが絡んで、またさらなる研究の広がりを見せる。今回の研究成果もまた、他の研究に役立ったり、将来は思いもよらないような用途に応用されることだってあるかもしれない。


だから、ありきたりなことに聞こえるかもしれないが、多様な研究ができる環境というのはとても大事なのである。その環境は、単純に予算だけで解決出来る問題ではない。レールから外れているように見える人たちを嘲笑する風潮をなくすことも、そんな環境作りには必要だろう。バカにやさしい環境作りである。


もし、この記事を見ている貴方が学生で、レールから外れたいと思っているなら、外れてみるのもいい。失敗しても後悔しないと、自分に約束できるなら。


【参考資料】

クマムシ研究日誌:堀川大樹 著


クマムシ博士の「最強生物」学講座:堀川大樹 著)

『アカデミック・ラブ』をカクヨムに発表しました

先日の記事『アカデミック・ラブ』を小説投稿サイトのカクヨムに発表しました。


『アカデミック・ラブ』:カクヨム


アカデミック・ラブ - むしブロ

ほりかわさんもカクヨムに来ましょう!

2016/09/15 09:39

このようなコメントをいただき、カクヨムの存在を初めて知ったのですね。カクヨムで人気になった小説は、実際に出版されたりするようです。もっとも、『アカデミック・ラブ』は字数が少ないので、たとえ人気が出たとしても書籍にはなりませんが。


『アカデミック・ラブ』には割と大きな反響があり、感想をたくさんいただきました。さっそくカクヨムでも嬉しい感想をいただきました。

すごく美しい作品です。


構成、文章力、メタファー、構成要素が綺麗に組み上がっていてそれでいて「辛い」感情を綺麗にあとに残していく。無駄なものがない。研ぎ澄まされた、小説のお手本のような作品だと感じます。


同じ作者の作品をもっと読みたいと思わされる、力のある小説です。


kenko_u

どこまでも理性的で打算的で利己的で排他的な恋愛モノでした。


生物が保持する恋愛感情は、突き詰めれば生物としていかに強い子孫を残せるかという生存原理に基づくものですが、それを現代に生きる人間に当て嵌めて分析すればどうなるか。


結論はある意味当たり前ではあるのですが、何かといえば夢想しがちな恋愛感情を現実的価値観として徹底的に滔々と描写し続ける本作品には、唯一無二の魅力といいますか、破壊力がありました。

構成、文章、描写、メタファーに一切の無駄がなく、丁寧に組み立てられた作品で、ああ、正にこれは理系の恋愛小説だな、と感服せざるをえない作品でした。


このどこまでも理屈の通った作品をもっと読んでみたい。次回作に期待したいです。


雪星/イル


ブログに感想を書いていただいた方も。


bsrk31.hatenablog.com


Twitterとはてなブックマークに寄せられたコメントも紹介します。


アカデミック・ラブ - むしブロ

面白かったです。大好きだった「アフター0」の雰囲気を思い出しました。鹿の角(←雄の権威?)を持った男が会社内で出世し、角が大きくなりすぎて時代に適応できず失脚する話だったかな。

2016/09/14 14:19

アカデミック・ラブ - むしブロ

長いけれど面白くて一気に読んでしまいました。最後まで切ない‥

2016/09/15 00:24

アカデミック・ラブ - むしブロ

そして紗季は研究を続けたんだろうか…と気になる読後。こども2人作って、ラボワーク激しい夫がいて…という環境で生物学者を続けるには千現君が相当色々こなさなければ難しい。彼女の研究者生命やいかに。

2016/09/15 13:39


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アカデミック・ラブ

 四月上旬、北関東のとある学園都市でもようやく桜が咲き始めた。それと同時に、この街に植えられている多数のスギに由来する花粉が、少なくない市民を攻撃していた。


 T大学は、そんな街の一角を占める総合大学である。日本でも有数の広大なキャンパスを擁し、学術面でもノーベル賞受賞者を輩出するなど、誇らしい実績をもつことで知られている。


 そんなT大学の片隅に位置する建物内に、動物生態学研究室がある。この研究室では、昆虫から脊椎動物に至るまで、さまざまな動物についての生態学的研究が行われている。


 毎年4月には、動物生態学研究室では新歓コンパが催される。この年に新しく動物生態学研究室に配属された学部四年生は三名、修士一年生は二名である。学部四年生は全員男、修士一年生は男一名と女一名。研究室で開催される新歓コンパの目的は、表向きは文字通り「新入生を歓迎し親睦を深める」というものだ。コンパの席では研究室のメンバーが自己紹介をし、食べたり飲んだりしながら円滑な人間関係を構築していく。


 だが、男性研究室員にとっては、これとは異なる明確な目的が、この新歓コンパにあった。それは、新入生の女の子にツバを付けることである。


 通常、理系の研究室では男女比が圧倒的に男側に偏っている。このような条件下では、男性陣の間で女性メンバーを巡る奪い合い、つまり雄間闘争が起こる。T大動物生態学研究室でも、研究室員の男女比は三対一と偏っており、例に漏れず雌をめぐる雄間闘争が起きる運命にある。


 よって、彼らににとっての新歓コンパの至上命令は、いかにして自分が他の男性陣をおさえて有利なポジショニングをとり、新入生の女の子にアプローチするか、ということになる。


 今回、新入生の中で女の子は、修士一年生の竹園紗季、ただひとり。竹園紗季は学部時代、東京にある国立女子大学の生物学科に在籍していた。彼女はガの行動生態学に興味があったが、所属学科には生態学の研究室が無かったため、大学院からT大動物生態学研究室に入ってきたのだ。


 女子大出身の紗季は、急に男性ばかりの環境に身を置かれたことで、少し緊張している様子だった。都会の洗練された凛とした雰囲気を醸し出す彼女の存在は、T大動物生態学研究室の中で、少し浮いて映った。しかし、純白のブラウスにかかる黒いネクタイには、ガの刺繍が大きく施されており、彼女が年季の入った虫屋であることを示唆していた。


 「ガ、好きなんだ?」


 修士課程二年生の大鷲京太が、お調子者キャラを全面に出しながら自分の椅子ごと紗季の隣に移動し、話しかけてきた。他の男性研究室員を出し抜いての、先制攻撃である。


 「このガのネクタイ、自分で作ったの?それとも、どこかで買ったの?」


 「えっと、アーティストが昆虫をモチーフにした作品を展示するイベントがあって、そこで買ったんです......。「むしむし大学」っていうイベントなんですけど......。このガはクスサンで......」


 「へぇ。オレ、猛禽類の研究が専門だけど、虫も好きなんだよね」


 「そうなんですか?」


 「うん。でも、このガの刺繍、本当によくできてるね。ちょっと触ってもいい?」


 「えっ」


 京太は、自分の右手を紗季の胸元に近づけた。他の男性研究室員たちを一気に突き放すため、準求愛行動ともいえる接触アプローチ戦略を展開したのである。この戦略が上手くいけば、紗季との距離を一瞬にして縮めることができる。


 だが、そうはうまくいかなかった。これを黙って見ていられなかった、研究室員がいたのだ。研究室内ヒエラルキーの最上位に君臨するポスドクの観音台則夫である。


 「大鷲、おまえ、そんなことするから彼女いない歴二十三年なんだぞ。ちったぁ女心勉強しろや」


 「えっ?なんスか?オレ、ちょっと竹園さんと昆虫について語ってただけっスよ」


 京太と則夫の闘いが始まった。しかし、この雄間闘争ではヒエラルキー上位の者が圧倒的に有利である。闘争は則夫のペースで進む。


 「竹園さん。こいつねぇ、さっき昆虫好きをアピールしてたけど、ラボで企画している昆虫採集旅行に参加したこと一度も無いんだよ。うそなの、うそ」


 「い、いやっ、最近、昆虫好きになったんスよ!本当っス!」


 「それじゃあ、お前、俺の研究材料のキチョウの学名言ってみろよ」


 「えっ...と......」


 「Eurema hecabeだよ。ほら、昆虫のこと全然知らねーじゃん」


 声を出さずに苦笑いするだけの紗季を前に、則夫は続ける。


 「大鷲さぁ、女心もそうだけど、本業の自分の研究テーマについても、もっと勉強しろよな。この前の進捗セミナー発表でも、データの取り方が全然ダメダメだったし。サンプリングする前に、どのくらいのサンプルサイズが必要かとか、どの解析手法を採用するかとか、ちゃんと検討しとけっつーの」


 「あ...はい......」


 「鳥の研究は、ただでさえデータ取りにくいんだからよ。おまえ、ドクター行きたいって言ってるけど、それだと何年かかっても学位とれないよ?わかってる?」


 「......」


 「竹園さんもこれから分かってくるだろうけど、研究ってやっぱストラテジーが重要だからさ。ま、その辺は俺に聞いてくれれば何でもアドバイスするから、遠慮なく絡んできてよね。同じ虫屋どうし、同じ鱗翅目屋どうしだしさ」


 則夫はアカデミックなアドバイスをするように見せかけて、京太をとことんディスった。京太が女性から人気がなく、さらに研究室内のヒエラルキーが低いことをアピールすることで、相対的に自分がいかにオスとしての力があるか、そして優れているかを、これでもかと紗季に見せつけたのである。グループ内の下位のサルが自分に完全降伏するさまを、晒したわけだ。


 結局、則夫の思惑通り、紗季は則夫が京太よりも質の高い魅力的なオスとして認識するようになった。新歓コンパは、則夫が研究室内ヒエラルキーでの自らの地位を利用し、紗季にツバをつけることに成功したのだった。


 その後も、則夫はセミナーやミーティングで京太やその他の男性研究室員をディスり続けた。もちろん、自分のオスとしての優位性をアピールするためだ。研究室内には、教授をのぞいてはポスドクの則夫がヒエラルキーの最上位を占める。


 男性大学院生たちは、誰も則夫を敵に回して紗季にアプローチすることを許されなかった。サルのグループ内で、力のあるボスに誰も逆らえないのと同じだ。


 則夫は、紗季の研究も積極的にサポートした。彼女が野外調査をする際には自家用車を出したり、研究のディスカッションと称して二人きりでファミレスでの食事に誘った。


 則夫のポスドクとしての給与は、決して高くなかった。それでも、日産マーチで出迎えたり、ロイヤルホストで食事を奢るようことは、京太や他の貧乏大学院生には、決してできない芸当であった。研究室内には、オスとして則夫を上回る価値を持つ男性研究室員は皆無だったのである。


 もちろん、大学の研究室の外の世界を見れば、則夫よりもはるかにオスとしての魅力をもつ男性はゴマンといる。外見だって、則夫は決してイケメンとはいえない。だがしかし、日本の大学院生は、日夜研究をするので忙しく、研究室の外部の人間と接触する機会がきわめて乏しいのである。よって、人間関係は研究室内ですべて完結するため、恋人候補も研究室内のメンバーに限られてくる。


 研究室内でもっとも質の高い異性に魅かれるのは、当然の帰結なのだ。それは、紗季も例外ではなかった。研究室というきわめて閉鎖的な環境でしか異性の質をジャッジできない条件下に置かれたため、則夫のことをオスとしてきわめて頼れる存在として、いつしか憧れるようになっていった。


 新歓コンパから四ヶ月後、お盆を前もそて紗季と則夫は交際することになった。京太の心の叫びを代弁するかのように、けたたましく鳴くセミたち。


 そして、三年が経過し、また新しい春がきた。T市民が待望していた、T市と東京を結ぶ鉄道路線が、ついに開通した。この春、大鷲京太は博士課程三年生になっていた。


 この間、京太に恋人が出来たことは一度としてなかった。彼女いない歴も二十六年間に更新した。動物生態学研究室に、紗季以外に好みの女の子がいなかったわけではない。だが、アタックしたところで振り向いてくれる女の子がいるようには感じられなかった。そしてなにより、京太にはアタックする意欲そのものが失われていたのである。


 日頃から則夫にさんざんコケにされ続けた京太は、研究室内ヒエラルキーの下位から脱することができなかった。このようなヒエラルキー地位にいる限り、周囲からはオス的魅力に欠けるダメ男子として見なされてしまう。女の子からモテなくなるのだ。


 こうなると京太自身も、研究室内での自分のヒエラルキー地位と非モテ度合いを、嫌でも認識せざるをえなくなる。すると、ますます自信が失われる。自信が失われると、オス的魅力も失われていく。学年が上がっても下位ヒエラルキーから脱することができず、ますますモテなくなる。


 京太の身に起きたこの現象は、ネガティブ・モテ・フィードバック (NMF) とよばれる。NMFは、隔離された閉鎖的個体群内で生じやすい。理系研究室は、そのような閉鎖的個体群の代表例である。


 NMFに陥り、セミの幼虫のような地中生活を余儀なくされていた京太だったが、今年は大きな転機が訪れた。則夫が研究室を去ることになったのだ。


 教授が科研費を獲得することができず、則夫をこれ以上ポスドクとして研究室が雇えなくなったのだ。則夫はアカデミックポストに就くことができず、東北の小さな博物館で非常勤の学芸員として働くことになった。そしてこの異動が引金となり、則夫と紗季が別れることになったのだ。


 研究室内でボスザルとして君臨していた則夫がいなくなったことで、京太がヒエラルキーの最上位に進出できるチャンスが出てきた。さらに、紗季も今やフリーの存在だ。じゅうぶんに栄養を蓄えたセミの如く、京太は長い地中生活に終止符を打ち、高々とそびえる桜の木に登る準備を始めた。羽化をするまで、もう秒読み段階だ。


 ポスドクの則夫が去ったことで、博士課程三年生の京太が研究室内での最上級生となった。新歓コンパやラボミーティングでは、最上級生である京太が主に仕切ることになった。


 京太は思い出していた。新歓コンパやラボミーティングで、自分が則夫にさんざんコケにされ続けたことを。


 「オレがあいつにやられたことを、後輩にはしたくない」


 などとは、京太は微塵にも思わなかった。


 則夫が自分にしたことを、そのまま後輩にもする。そう固く誓っていた。


 「後輩たちを徹底的にコケにしよう。則夫が自分をコケにすることで研究室内ヒエラルキー最上位の地位を保ち、自分が紗季や他の女の子に手出しできなくなったように」


 その信念のもとに、新歓コンパでは後輩の男性研究室員を容姿から性格に至るまで、徹底的にこき下ろした。ラボミーティングでは、後輩の研究能力だけではなく人格までも否定した。とりわけ、野外調査直前の京太のディスりは熾烈を極めた。野外調査期間中、京太は研究室を留守にする。その間に、他の男性研究室員がつけ上がるのを抑制する必要があるからだ。


 「オレはオオタカの研究者だ。オオタカは肉食だ。だからオレも肉食だ。そして最強の肉食男になるのだ」


 森の中でオオタカのメイティング・ビヘイビアーの観察をしながら、京太は紗季とのメイティング・ビヘイビアーを夢見ていた。


 後輩をコケにし続けた甲斐があり、京太は研究室内ヒエラルキーの最上位を占めるようになった。則夫が去ったことにより空白となったボスザルのポジションを、ついに獲得したのだ。


 それまでは路上の隅に生える干涸びたコケを見るような目で京太を見ていた女性研究室員たちの接し方も、大きく変化していた。自分の研究内容の相談を京太に持ちかける女子の後輩が、出現したのである。京太の研究能力が、この短期間で大きく向上したわけではない。ボスザルとして振る舞う京太のことを、女性研究室員が頼れる存在として認識し始めたのである。


 オスとしての魅力が現れ始めた京太は、自信も出てきた。そして、研究室内でよりいっそうボスザルらしく振る舞うようになった。すると、さらに女性研究室員が京太を慕うようになり、プライベートな相談までする女子も出てきた。京太はついに、生まれてはじめてモテはじめ、モテ度も日を追うごとに向上していった。


 京太に起きたこの現象は、ポジティブ・モテ・フィードバック (PMF) とよばれる。NMFと同様に、PMFも研究室のような閉鎖的空間で起こりやすい。則夫も京太も、研究室という閉鎖的な人間関係が存在する空間において、ヒエラルキー下位層のオスをうまく利用し、PMFを創出したのである。


 一見、仲間をディスる男は悪い印象を与えるので、嫌われることはあってもモテることはないように感じる。だが現実には、このような男ほどモテる。テレビのバラエティ番組などでも、他の出演者をディスる「ちょっと感じの悪い」芸能人ほど、実際には人気があってモテるのと同じだ。道徳的で謙虚な男は、実際にはあまりモテない。


 他の女性研究室員と同じく、PMF期に突入した京太を見る紗季の目も次第に変わっていった。紗季はいつしか、研究室内で京太とすれ違うたびに、草原に流れるそよ風が全身を巡るのを感じるようになっていた。自分でも認めたくなかったが、心と体の反応は正直だった。クスサンのネクタイ越しから伝わってくる紗季の胸の鼓動が、京太に届いていた。


 機は熟した。京太は紗季に話しかけた。まずは手堅く、第一稿をサブミットしてみた。


 「この前のプレゼンの時に言ってた解析の問題、もう解決した?」


 「え、いえ、まだちょっと考えてるんです......」


 紗季は少し驚いた表情をしてから目を下に移し、はにかみながら答えた。マイナーリビジョンだ。


 「この子、脈があるぞ」。そう確信した京太は、自信ありげに続けた。


 「あのね、あれはやっぱりNが少なすぎるのが原因だと思うんだよね。Nをもっと増やした方がいいよ」


 「でも、一人で採集しているのでなかなかサンプルがとれなくて......」


 「それじゃ、今度手伝ってあげるよ。」


 「えっ?! でも......」


 レフェリー全員、ポジティブな反応。悪くない。


 D論も目処がついたし、大丈夫だよ。竹園さんももうD2だし、早くデータ取った方がいいからね。 よし、来週に行こう 」


 二人きりでの野外採集にごぎつけた。アクセプトだ。コングラチュレーションズ。


 これを皮切りに、ディスカッションと称した深夜のファミレスデートなど、京太はさまざまな方法で紗季にアプローチを続けた。紗季も自信にあふれた京太の存在に、ますます惹かれていった。


 その後、京太は無事に博士課程を三年間で卒業し、博士号の学位を取得した。卒業後は、T市にあるS総合研究所にもポスドクとして赴任することも決まった。そしてついに、紗季は京太と交際し、半同棲生活をすることに決めた。京太に対しての唯一の懸案事項だった、経済的問題が解決したからだ。


 T市に再び春が訪れた。桜の開花を待たずに、紗季とのメイティング・ビヘイビアーも成立。京太はこれまでの人生で、最良の時代を迎えていた。


 時は流れ、大鷲京太と竹園紗季が交際を始めてから、三年が経過しようとしていた。竹園紗季は京太の指導もあり、無事に三年間で博士課程を卒業。卒業後は、やはりT市にある、昆虫の研究で有名なN資源研究所のポスドクの職に就いた。二人は、T市内にあるアパートで同棲を始めた。


 この二年間、順調な同棲生活を送っていたが、ここのところ、二人の周りには重たい空気が流れ始めていた。京太の勤め先のS総合研究所でのポスドク任期があと三ヶ月で終了するにもかかわらず、次のポジションがまだ決まらないからだ。


 この一年近くの間に、京太は大学の助教や研究所のポスドクなど合わせて十以上のポジションの公募に応募したが、すべて落ちた。書類による第一次審査すら通らなかった。文部科学省による若手研究者対象の奨学生制度である、学術振興会特別研究員になることも叶わなかった。


 公募選考の際に重要なのは、研究業績だ。この研究業績は、具体的には国際科学誌に掲載された論文の本数と質によって判断される。京太の場合、筆頭著者として二報の論文を発表していた。


 一報はT大在籍時に行っていたオオタカのメイティング・ビヘイビアーに関する内容だ。もう一報は、S総合研究所に来てから調査した、関東地方におけるオオタカの分布についてのものだ。いずれも『Journal of Avian Ecology』という、鳥類の生態学に特化した国際科学誌で発表した。『Journal of Avian Ecology』のインパクト・ファクターは2を少し上回るほどであり、生態学関連の雑誌では中堅の部類に入る。


 ポジションの公募における審査の際、論文の質は、その論文が掲載された雑誌のインパクト・ファクターにより判断される。つまり、雑誌のインパクトファクターに論文数をかけたものが、応募者の業績とみなされるのである。


 当たり前だが、各公募では、応募者の中から一人だけが採用される。いくら優秀でも、二番目以下では不採用なのだ。京太の業績はとくに優れたものではなく、書類審査でいつも落とされるのは当然のことであった。公募をかけた側の研究内容と京太の研究内容とがマッチングするケースも、あまりなかった。


 そして、京太には強力なコネもなかった。今も昔も、研究職の公募はコネで決まることが少なくない。京太は、自分よりも業績の少ない人間が、コネで助教の職に決まったケースを何度も見てきた。業績もコネもなく挑む公募が、すべて負け戦になるであろうことは、うっすらと感じていた。


 しかし、まだ最後の望みが残っていた。京太の古巣であるT大動物生態学研究室が、教授の定年退官に伴い、その後釜として助教を募集していたのだ。しかも、今時珍しい、任期のないパーマネントのポジションである。


 パーマネント。ポスドクをはじめとした、すべての任期付研究者が垂涎する響きだ。狭き狭きパーマネントの門をくぐること。それこそが、ポスドク砂漠をさまよう者たちが目指す、最終ゴールなのである。


 パーマネントのポジションをゲットすれば、もう任期が切れて無職になる悪夢を見なくて済む。嫁も見つかる。マイホームも手に入る。この世のすべての苦しみから解放される。皆、そう信じて疑わない。パーマネント、それは果てしない夢でありユートピアだ。


 そのパーマネントのポジションの公募が、自分の出身研究室から出ている。コネという点で、京太はとてつもなく有利な立場にいた。実際に、応募書類を提出する前に動物生態学研究室に挨拶に行ったときも、教授はこう言った。「知らないやつよりも、知っているやつを選びたい」、と。


 だが、京太にはひとつ気がかりなことがあった。動物生態学研究室に在籍時に、京太をさんざんコケにした、あの憎き観音台則夫の存在である。観音台は上っ面だけはよかったので、教授は彼を信頼していた。もし、観音台がこの公募に応募してきたら、教授は自分ではなく、観音台を選ぶかもしれない。そんな不安を抱えていた。


 そこで、動物生態学研究室を訪れた際、後輩である博士課程三年の千現武志を研究室の外に呼び出し、尋ねた。


 「今回の公募、観音台さんは応募してくるのか?なんか聞いたか?」


 武志は、うつむいたまま、おどおどしていた。目を左右に動かし、決して京太の方を見ようとしない。


 無理もない。京太は以前、研究室内で武志のことを、これでもかとコケにしてきたからだ。武志は研究室メンバーの中でも冴えない、大人しい性格の持ち主だったので、京太にとって格好のターゲットだった。


 もともと極端な猫背の武志は、その背中をさらに丸めながら、小声で答えた。


 「い、いえ。多分、観音台さんは応募しないと思います」


 「そうなのか?」


 「観音台さん、研究はもうやめたらしいです。先生が話していました。なんか、どこかの出版社に就職したらしいです」


 (そうだったのか。これで敵はいなくなった)


 京太は、このポジションは自分のものになるという確信を持った。オオタカが縄で縛り付けられた獲物を容易に奪うのと、同じ要領だ。これはいける。そう思った。


 アパートに戻ると、京太は後ろから紗季の肩を両手で掴んで言った。


 「例の公募、もうオレで間違いなさそうだよ」


 「本当に?!」


 紗季は、少し信じられなさそうな目で聞き返した。そんな紗季の不安を掻き消そうと、京太は上機嫌をアピールしながら紗季の肩を揉み出した。


 「マジだって!先生もコネを優先するって言ってたし、他に対抗馬がいないからな」


 「じゃ、今度は期待してる」


 「期待しててよ。それじゃ、どっか食いに行こうか」


 研究作業に追われるポスドクは、自炊をする時間もない。ポスドクカップルの京太と紗季は、夕食をいつも外で済ませる。この日は、T市内のタイ料理屋に向かった。T市には外国人居住者も多く、多国籍料理を楽しめるのも特徴だ。


 「今日は、就職の前祝いだな」


 紗季のグラスにエビスビールを注ぎながら、京太はつぶやいた。


 「はい、カンパーイ。私も研究者として早く安定したいな~」


 「紗季は大丈夫だって。オレがT大に紗季のためのポジションを用意してやるから」


 「調子に乗んなっての!どんだけ上から目線なんだか......」


 「あははは」


 二人は饒舌になった。こんなに楽しい夕食は、いつ以来だろうか。ビールの瓶が、すぐに空になった。


 午後九時をまわり、店内では女性タイ人店員たちがカラオケを大音量で歌い始めた。ねっとりとしたタイの歌を聞いていると、ここが北関東の新興住宅地であることを忘れそうになる。店員らのミニスカートが気になり、京太の視線はついついそちらに行ってしまう。


 「なにジロジロ見てんのよ」


 「いや、見てないって」


 京太は、はぐらかすようにグラスを口に運んだ。紗季を見ると、まだこちらを睨んでいる。胸元のネクタイに鎮座するクスサンも、その大きな目で紗季と一緒に自分を睨みつけているような気がした。四つの目で睨まれた京太は、不意に小さな恐怖に襲われた。


 それから一ヶ月が経過した初雪の日、アパートに一通の封筒が届いた。差出人はT大学。あのパーマネント助教公募の、書類一次審査の結果通知が来たのだ。


 京太がその薄い封筒を開くと、中にはA4サイズの紙が一枚だけ入っていた。紙面には文字が数行だけ印刷されており、余白部分がやたらと目立った。文書の二行目に、こう書かれていた。


 「書類審査の結果、残念ながら貴殿は不採用となりました」


 何度読んでも、そう書いてあった。京太は二次審査の面接への道すら通れず、不採用になったのだ。京太は、直立のまま動けなかった。まるで、液体窒素に放り込まれて瞬間凍結した金魚のように。


 「なぜだ......なんで?......なんでオレが.......なぜ?......なんで?.......なんでだ......??」


 同じフレーズを何度も繰り返した。そして、脳内のすべての神経回路が切断されたように、思考が停止した。その衝撃は、論文をリジェクトされた時の比ではなかった。


 「ただいまー。すごい雪だねー......ん?ど、どうしたの......?」


 いつもと何かが違う。紗季は、何かただならぬ自体が京太に起きたことを察した。


 京太は、死んだ魚のような目をゆっくりと紗季に向けた。そして、テーブルの上に置いた審査結果通知書を、力なく指で差した。


 審査結果通知書を読んだ紗季は「えっ」とだけ声を発し、口を閉じた。1DKの空間は、これまでに経験したことのない重い沈黙に支配された。無音の室内に、時折、雪が落ちる小さな音だけが、淋しく響いた。


 翌日、一通のメールが京太に届いた。教授からのものだった。


 採用できずに申し訳なかった、という謝罪から始まるメールの文章を読み進めていった京太は、再びディープ・フリーズした。


 教授は京太ではなく、あの猫背の後輩の千現武志を助教に採用していたのだ。実は、武志もこの公募に応募していたのである。


 教授が武志を採用したという事実。これは、教授が自分の後釜にふさわしいのは武志であり、京太ではないと考えていたことを示していた。そのことを、京太は受け入れることができなかった。目眩とともに、視界が真っ白になっていくのを感じ、意識が遠のいていった。


 右手に激痛が走り、京太は意識を取り戻した。目の前には無惨に破壊されたVAIOのノートパソコンがあった。無意識のうちに、自分のノートパソコンに鉄槌を下していたのだ。何度も、何度も。


 破壊されたノートパソコンからは、ゴムの焼けるようなにおいが立ちのぼっていた。濃い、敗北のにおいだった。


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 半年後、京太は太平洋に浮かぶO島にいた。


 環境省管轄下の自然保護官補佐とよばれる職に就いたからだ。京太のことを気にやんだ教授が、彼にこの職を紹介したのだ。


 O島は人気のない孤島だが、希少生物の宝庫として、一部のナチュラリストの間で人気のあるフィールドだ。自然保護官補佐の勤務内容は、研究活動というよりも、管理監督業務に近い。自然公園内の管理や監視、そして生物調査が主な仕事である。もちろんポスドクではない。給与は手取りで二十万円を少し上回るほど。契約期間も一年間で、更新はない。


 紗季との遠距離恋愛生活も、すでに五ヶ月目に入った。交通費がばかにならないので、お互いに会うことはせず、LINEと電話で連絡を取り合っていた。


 京太は研究者として復活するために、相変わらずポスドクや助教の公募に応募し続けていた。そして、相変わらず落ち続けていた。しかし、諦めるわけにはいかない。できれば、T市のどこかの大学や研究所でポジションを得て、また紗季と一緒に暮らしたい。そう願っていた。


 ただ、京太は最近の紗季の反応が気になっていた。以前はLINEでメッセージを送ると数時間以内に返ってきたのに、ここ最近は一日以上経っても既読にならないこともあるからだ。


 紗季の携帯電話に着信を残しても、折り返しかけてくることがなくなってきた。何かあったのかを聞いても、「忙しい」の一言だけで、それ以上のことを話さない。まるで、自分の体の周りを分厚い繭で覆ったクスサンの蛹と対峙しているようだった。


 そんな紗季だったが、彼女のフェイスブックには、食べものや研究者どうしの飲み会での写真が頻繁に投稿されていた。写真には、京太の知っている顔あった。


 その写真の中には、あのT大動物生態学研究室で助教のポジションを得た千現武志の姿もあった。しかも、彼は紗季の隣にポジショニングしている。


 写真の中の武志は、数ヶ月前に会った時とは、まるで別人のように映っていた。武志は不敵の笑みを浮かべ、その目は丸眼鏡越しに京太のことを小馬鹿に見下しているかのように見えた。


 「くそ、アイツめ!アイツさえいなければ、今頃はオレが......」


 京太は、頭の中に無数のフジツボがびっしりと張り付いているような感覚に襲われた。重力にまかせて重くうなだれた頭を、上げることができなかった。


 京太の業務は、大半を歩く時間に費やす。歩行をしている間、脳内は自然と紗季のことで埋め尽くされる。


 「紗季のやつ、オレよりもアイツらとの飲み会を優先しやがって。もう、オレのことなんてどうでもいいに決まってる。あと、絶対に何かを隠している。いや、気のせいかもしれない。でも、あの態度はおかしい......」


 半径十km以内に自分以外は誰もいない雄大な自然の中、京太は延々と紗季のことに考えを巡らせた。来る日も、来る日も。


 そして、いくら考えたところで決して答えが出ないことに気づいた京太は、意を決して紗季にLINEで尋ねることにした。「最近、冷たくなった。これは自分の気のせいじゃない。言いたいことがあったら、正直に聞かせてほしい」、と。


 案の定、紗季からはすぐに返信は来なかった。三十分おきにLINEをチェックしていたが、一日、二日と時間が経っても一向に既読にならない。一日が、何十日間にも感じられた。


 そしてメッセージを送ってから三日目、林道を歩いていたときに、ついに紗季からの返信があった。


 「返事遅くなってごめんね。。。今、電話していい?」


 京太はすぐさま、紗季の携帯電話にコールした。紗季が電話に出た。紗季と話すのは、十二日ぶりのことだった。


 「もしもし。連絡、あんまりとれなくてごめんね......」


 「...あるんだろ、話したいこと。言ってくれよ」


 「うん、あのね...ちょっと言いづらいんだけど...」


 「うん」


 「あのね......」


 「......」


 「好きな人ができたかもしれない」


 「..................」


 「ごめんね」


 「......誰だよ」


 「ん........」


 「誰なんだよ?」


 「うん、京ちゃんも知ってる人なんだ......」


 「まさか......」


 「千現君」


 「......やっぱり......、あの猫背メガネかよ......」


 「ごめん......」


 「おまえ、嘘つきやがって。「ずっと一緒にいようね」って言ってたくせに。お前の研究だって、オレがずっと面倒見てきたのに......」


 「......」


 「なんなんだよ...。なんなんだよ? なんなんだよ!!!!」

 
 「......」


 「パーマネントかよ」


 「!?」


 「やっぱり、パーマネントなのかよ??パーマネントがいいのかよ!??ああ??」


 「..............そうだよ」


 「っ?!」


 「京ちゃんも言ってたじゃん。「生物にとって、適応度の期待値が大事だ」って。千現君はパーマネント。だから、これから安定した収入が見込める。若くて研究能力もあるし、このままいけば順調に教授になると思う。でも、京ちゃんは一年契約だし、業績もあまり無いから、このままだとアカデミアに残るのは、正直、難しいと思う」


 「......」


 「専門が生態学だと、ドクターを持ってても潰しがきかないから、アカデミア以外の就職も難しいでしょ。私が適応度一以上、つまり、子どもを二人産んで養っていくのは、このまま京ちゃんと一緒だと難しいんだよ。自分でも分かってるでしょ?」


 「オレは...いずれは...」


 「もう聞き飽きたよ!「世界一の鳥類研究者になる」とか「『Nature』三報はいける」とか「オレのモットーは大きな野望と高い志。「オオタカ」なだけに」とか......!現実を見なよ!!まだファーストが二報しかないし、インパクト・ファクターの合計も五にも満たないじゃない!!」


 「......」


 「京ちゃん、千現君のこと「へっぽこコネメガネ」とか言ってたけど、あのコはドクターとる前に、あの『Nature Ecology』に二報出してるんだよ??コネが無くったって、助教になってたよ、絶対。それに......」


 京太は携帯電話を切った。目の前には暗い森が広がっていた。もはや、自分が世界のどこにいるかも分からなかった。いや、自分が、皆が存在する世界そのものと切り離された、異次元の空間に浮遊しているようにも思えた。


 『パ~マネント~♪ パ~マネント~♪ パ~マネント~♪ パ~マネント~♪パ~マネント~♪ パ~マネント~♪ パ~マネント~♪ パ~マネント~♪ パ~マネント~♪ パ~マネント~♪ パ~マネント~♪ パ~マネント~♪パ~マネント~♪ パ~マネント~♪ パ~マネント~♪ パ~マネント~♪ パ~マネント~♪ パ~マネント~♪ パ~マネント~♪ パ~マネント~♪パ~マネント~♪ パ~マネント~♪ パ~マネント~♪ パ~マネント~♪ パ~マネント~♪ パ~マネント~♪ パ~マネント~♪ パ~マネント~♪パ~マネント~♪ パ~マネント~♪ パ~マネント~♪ パ~マネント~♪ パ~マネント~♪ パ~マネント~♪ パ~マネントォォォ~~~~~~♪♪♪』


 それまで普通に鳴いていたセミたちが突如、「パーマネント」の大合唱を一斉に始めた。


 「やめろおおおおおおーーーーーーっ!!!!!」


 京太は耳を塞ぎ、目を閉じたまま、走った。転んでも、木にぶつかっても。日が暮れ、勤務終了時間が終わっても、森の中を、ただただ、走り続けた。


 その後の京太の消息を知る者は、誰もいない。


.
.
.
.
.
.


 二年後、花粉が舞い桜が咲く季節が、T市にまたやってきた。


 この春、街には新たな命が誕生していた。


 「本当に君そっくり。ほら、目が二重でこんなに大きくて。僕と全然違う」


 「赤ちゃんは成長したらまた顔が変わってくるし、まだどっちに似ているかなんて分からないよ」


 「いやあ、でも、自分の子どもがこんなに可愛く産まれてくるなんて、信じられないね。でも、よかった。自分に似なくて」


 「あ、そろそろミルクあげなきゃ」


 母親は、ぐずる赤ん坊に授乳を始めた。この世に存在する苦しみを一切知らない赤ん坊は、これ以上無い平穏な表情で母乳を飲み続けた。赤ん坊にかけられたよだれかけに施された刺繍のクスサンも、やはり平穏な表情で母親をじっと見つめていた。


 <終>


※本記事は有料メルマガ「むしマガ」191号〜194号にて発表された「アカデミック・ラブ」を一部加筆修正したものです。


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【書評】虫ビギナーにおすすめのポップな虫入門書2冊『恋する昆虫図鑑』『カブトムシゆかりの虫活! 』

私は、自身の研究対象であるクマムシのキャラクター「クマムシさん」を、数年前からプロモーションしている。この活動の大きな目的のひとつは、キャラクターを入り口として人々が生物や自然に親しみを持ってもらうことだ。


実際に、クマムシや昆虫にまったく興味がなかったが、クマムシさんのグッズを買ってから本物のクマムシを知り興味を持った人が何人もいる。そのような人を目の当たりにするのは本当に嬉しく、それと同時に、啓蒙活動をするにあたって、啓蒙対象を絞らず間口を広くしておくことの大切さを再認識させられる。


最近は虫をモチーフにした作品を出展するイベントも増えており、私の観測範囲では空前の虫ブームが起きているようにも感じる。だが、「虫イコール気持ち悪い」という固定観念が植えつけられてしまった人も多いのが実情だろう。最近では、虫を触れない若年層が増えているという声も聞こえてくる。ちょっと虫に興味があるが、はまるきっかけを持てない、という層もあるはずだ。


さて、今回は、そんな人のためのポップな虫入門書を2冊紹介したい。まず1冊目は、『恋する昆虫図鑑 ムシとヒトの恋愛戦略』。


恋する昆虫図鑑 ムシとヒトの恋愛戦略:篠原 かをり 著


本書のタイトルは、ちょっと前に物議を醸した書籍とよく似ているが、著者も出版社もお互いにまったく関係のない者同士である。


本書の最大の特徴は、虫の生態を人間に置き換えて説明しているところにある。この部分はきわめて徹底されている。登場するいくつもの虫に対し、それぞれの生態に沿った詳細な人物像が割り当てられており、著者の人間観察力と妄想力におののいてしまう。たとえば、一生をミノの中で暮らすオオミノガのメスについての記述は、以下の人物像に例えられている。

「太っているから痩せなきゃ」「私、かわいくないから........」などと自ら自虐的発言を繰り出しておきながら、「そうだね。かわいくないね」という肯定はおろか、「そんなことないよ!普通だよ!」という無難な回答をしてもムッとしたり落ち込んだりする......そんな少し面倒くさい女、あなたの周りにもいませんか?


(中略)


彼女たちの多くは、決してかわいくない訳ではありませんが、かと言って本人たちの自己申告を否定してまでかわいいと励ましてあげる義理はないくらいの微妙な容姿をしています。


(中略)


彼女は否定されるのが大の苦手。自分を肯定してくれる人だけで周りを固めて、すぐに殻に閉じこもってしまうのです。


著者はさらに、オオミノガ系女子の特徴として「赤文字系の服装を好む」ことも挙げているが、この根拠がどこに由来するのか気になるところだ。いずれにしても、本書は虫に興味を持ち始めたビギナーだけでなく、ゴシップ好きだったり、人間のネガティブな面を見て楽しめるような、ちょっと根暗な人にもおすすめだ。


ちなみに、本書『恋する昆虫図鑑』はもともとは出版甲子園という学生作家を掘り起こすイベントの企画がもとになっている。著者の篠原かをりさんが第10回出版甲子園のグランプリを受賞し、本書が世に出た。まだ現役大学生の若い著者の今後の活躍に期待したい。


続いて紹介する2冊目は、『カブトムシゆかりの虫活! —虫と私の○○な生活—』。


カブトムシゆかりの虫活! —虫と私の○○な生活—:カブトムシゆかり 著


本書の著者は、知る人ぞ知る昆虫アイドル、カブトムシゆかりさんだ。全編フルカラーの本書は、著者のエッセイ、ヨロイモグラゴキブリなど著者が飼っている昆虫の紹介、フィールド観察記録など、かなりバラエティに富んだ内容となっている。笑顔で虫を手にした著者の写真も散りばめられており、虫を愛でる楽しさが伝わってくる。


一見ポップな本書だが、とくに興味深いのが、虫好きアイドルを名乗る著者ならではの心の葛藤を綴った部分だ。著者はもともと虫が好きで、虫を紹介するブログを運営していたことがきっかけで、芸能プロダクションにスカウトされたという。ただ、周囲からは、虫好きアピールが売れるための表面的な戦略だと誤解されたり、番組ではどうしてもキワモノ扱いされたりと、著者の本来の目的である「虫の素晴らしさを広めること」を達成することの難しさがうかがえる。


さらに著者は、テレビ番組などで虫がイヌやネコなどに比べて雑な扱いを受けて弱ったり死んでしまったりしたことも嘆いており、メディアの現場のあり方に疑問を呈している。通常、芸能活動をする芸能人は、このようなメディア批判はしづらいはずだ。著者は自身が売れることよりも、虫を広めること、そして何よりも虫を愛することを最優先にしていることが、これらの記述からうかがえる。


実際に、著者は虫の素晴らしさを広めるため、メディアだけの仕事ではなく、虫のお姉さんとして昆虫教室などのイベントでも啓蒙活動をしている。


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私も先日、著者と昆虫学者の丸山宗利さんのトークイベントに参加したが、著者の話もユーモアに富んでいてとても面白かった。今後の虫啓蒙活動にも大いに期待したい。

蓮舫氏の二重国籍問題と国籍法

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※写真は本記事の内容とは関係ありません


民進党の蓮舫氏が保持している国籍状況が話題になっている。クマムシとは関係ないが、重国籍に関する備忘録として、本件について記そうと思う。


・重国籍になる可能性


父母が日本人と外国人の組み合わせをもつ子どもは、日本と外国の二重国籍になりうる。たとえこのような条件でも、外国側での手続きをしなければ、この子どもは外国国籍は有さず、日本の国籍しか持たないこともありうる。ただ、このような場合でも、所定の手続きをすれば、後から外国国籍を取得することは可能だ。


また、アメリカのように出生地主義を採用する国では、生まれた国の国籍も取得することができる。父が日本人で妻が台湾人の子どもがアメリカで生まれた場合、日本、台湾、アメリカの3つの国籍を取得できる可能性がある。


・日本国籍を選択する場合の手続き


日本の国籍法によると、未成年のうちに重国籍を持った場合は22歳までに、成年後に重国籍になった場合はその時から2年以内に、どちらかの国籍を選択しなければならない(国籍法第14条第1項)。


ここで、もし期限内に上に挙げたいずれかの方法で国籍の選択をしなかった場合は、法務大臣が当事者に国籍選択の催告をすることができる(国籍法第15条第1項)。そして催告を受けた日から一月以内に日本の国籍の選択をしなければ、その期間が経過した時に日本の国籍を失うことがある(国籍法第15条第3項)。


蓮舫氏の件に関して、菅義偉官房長官が「外国の国籍と日本の国籍を有する人は、22歳に達するまでにどちらかの国籍を選択する必要があり、選択しない場合は日本の国籍を失うことがあることは承知している」と述べているが、これは国籍法のこの部分を指している。


とはいえ、仮に法務大臣から催告が来たとしても、役所では当事者が本当に重国籍をもつかを確認するのは難しい。このような理由によって日本国籍の剥奪が行われることは、現実にはほぼないようだ。


ここで日本国籍を選ぶやり方には、次の2つの方法がある。


1. 外国の国籍を離脱する


このやり方では、外国の法令に従ってその国の国籍を離脱する手続きをとり、これを証明する書面を市区町村役場または大使館・領事館に外国国籍喪失届をする(戸籍法106条)。こうすれば、国籍は日本国籍のみとなり、日本国籍の選択が完了する。


2. 日本の国籍の選択の宣言をする


一方で、こちらのやり方では、「日本の国籍を選択し、外国の国籍を放棄する」旨の国籍選択届を市町村役場または大使館・領事館に提出することで、日本国籍の選択が完了する(戸籍法104条の2)。


ただし、日本国籍選択の宣言により日本国籍を選んだ場合、外国国籍の離脱・喪失については国籍法で強制していない。あくまでも、「外国国籍を喪失していない場合は、外国国籍の離脱の努力をすること」という、あいまいな宣告にとどまっている(国籍法16条1項)。


この一連の流れを説明するのが、下の図である。


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国籍Q&A:法務省より


つまり、この2番目のやり方で日本国籍の選択を完了させた場合は、積極的に外国の国籍を離脱・喪失する手続きを行わない限り、重国籍のままとなる。だが、それでも国籍法の選択義務は履行したことになり、国からあらためて催告を受けることもない。


・蓮舫氏のケース


蓮舫氏のケースを見てみよう。蓮舫氏は1967年に台湾人の父と日本人の母のもとに出生したとされる。この時点での日本の国籍法は、父が日本国籍をもつ場合のみ、その子どもも日本国籍を取得できると定めていた。蓮舫氏は出生してからしばらくの間、日本国籍を持っておらず、台湾国籍のみを有していた。


1985年1月1日に国籍法が改正され、父だけでなく、母が日本国籍をもつ場合でも、子どもが日本国籍を取得できるようになった。この改正された国籍法が施行されてから出生した子どもはもちろんのこと、1965年以降に出生し、出生時に母が日本国民であり、申請時も日本国民である場合は、1988年1月1日までに法務大臣に届け出れば、日本国籍を取得することができた。


蓮舫氏は1967年に出生しており、まさにこのケースに当てはまる。本人によると、1985年、蓮舫氏が17歳のときに、日本国籍を取得したとされる。これは国籍法の改正に伴い、日本国籍の取得を申請したためと思われる。


この時点では、蓮舫氏は台湾国籍を喪失しておらず、二重国籍であった可能性がある。蓮舫氏はこのときに未成年だったので、日本国籍を選択する際には、上述したように1. 台湾国籍を離脱するか、2. 日本国籍選択の宣言を22歳までにする必要がある。国籍選択は、1985年1月1日以降に重国籍となった国民が対象となるので、蓮舫氏にも当てはまる。


蓮舫氏によれば、同じ1985年に台北駐日經濟文化代表處(台湾と国交のない国(たとえば日本)との窓口機関)に父親と出向き、台湾国籍の離脱・喪失手続きをしたという。もしこの手続きが完了しており、日本側に外国国籍喪失届を提出していれば、二重国籍は完全に解消されており、現在では日本国籍のみを持っていることになる。


だがもし、日本国籍選択の宣言をすることにより日本国籍を選択していたとすれば、二重国籍状態は今も継続している可能性がある。とはいえ、上述したように、この場合でも国籍選択義務は履行していることになる。


では、はたして蓮舫氏がそもそも国籍の選択自体を行っていない可能性はあるだろうか。これも上述したように、もし22歳までに国籍の選択をしなかった場合は、法務大臣から当事者に対して国籍選択の催告が届くことがある。催告を受け、それでも日本の国籍の選択をしなければ日本の国籍を失うが、そもそも日本国内の役所では蓮舫氏が台湾国籍を保持しているかどうかをきちんと確認する術がないこともあり、日本国籍を強制的に剥奪することはしにくいだろう。


よって、蓮舫氏は1.台湾国籍の離脱・喪失したか、2.日本国籍選択の宣言により国籍選択の手続きを完了したか、3.そもそも国籍選択の手続きを踏んでいないかの、いずれかの可能性がある。このうち2.と3.の場合では、台湾国籍を離脱・喪失していない限りは、日本国籍と台湾国籍の両方を有した二重国籍の状態が継続する。


・国家間で統一したルールはない


重国籍に関する議論で混乱のもとになっているのが、国家間で統一したルールが存在しないことだ。たとえば日本は台湾を国家としては認めておらず、便宜上は中国(台湾)と認識している。日本にいる台湾人は便宜上は中国人ということになっている。しかしそれはあくまでも日本側の認識であり、台湾側は日本にいる台湾人は、もちろん自国民(台湾人)とみなしている。


国籍選択の際も、日本国籍選択の宣言をすれば、「日本では」日本国籍を選択したとみなされ、もはや台湾人でも中国人でもない。だが、たとえ日本国籍選択の宣言をしても、台湾国籍(中華民国国籍)の離脱・喪失をしていなければ、「台湾では」台湾人(中華民国人)として認識され続ける。当事者が重国籍をもつかどうかを日本の役所で調べることも難しい。


それぞれの国には、それぞれのローカルルールがある。このような国家間をまたいだ問題においては、統一見解が得られにくい。マスメディアにも個人メディアにも、そのあたりの認識をごちゃまぜにした議論が多く見られる。


・日本が重国籍者に外国国籍の離脱・喪失を強制しない理由


何度も出てきたことだが、ここで改めて説明する。重国籍者が日本国籍選択の宣言をすれば、日本側は外国国籍の離脱・喪失について強制することはない。今回の蓮舫氏の一件でも絡んでくることだが、最大の混乱のもとになっているのが、このシステムだ。


ではなぜ、日本は重国籍者に国籍選択の義務を課すものの、外国国籍の離脱・喪失について強制はしないのだろうか。おそらくだが、これは他国のルールとの兼ね合いを考慮してのことだと思われる。上でも述べたように、国際的に統一したルールはない。日本のように国籍選択制度を採用する国は少数派である一方で、重国籍を容認する国は多く存在するのである。


一方の国では重国籍を認めるのに、もう一方の国では外国国籍を厳格に認めない。このような場合、どちらの国のルールに優先権があるだろうか。こういった矛盾した状態が生じることになるため、各国との兼ね合いを考えて、日本は重国籍者に対して外国国籍の離脱・喪失を強制できないのではないだろうか。


ちなみに、台湾では、自国民が重国籍を持つことに対して、日本ほど厳しく取り締まることはなく、寛容だという。*1


平成18年度に出生した日本国民の100人に1人以上が、重国籍者である。実際に、大人になっても重国籍者のままの日本人はそのへんにゴロゴロいるのである。多くの日本人にとって、身近な問題なのだ。国家間を行き来する日本人がこれだけ増え、それに伴って重国籍者も増え続ければ、現行の国籍法を厳密に適用するのはいっそう難しくなりそうだ。


※本記事は有料メルマガ「むしマガ」350号「蓮舫氏をはじめとした重国籍問題について調べてみた」からの抜粋です。

【料金(税込)】 1ヵ月840円(初回購読時、1ヶ月間無料) 【 発行周期 】 毎週

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【参考資料】

国籍法:法令データ提供システム

国籍選択について:法務省

国籍Q&A:法務省

台北駐日經濟文化代表處

蓮舫氏「台湾籍放棄」と改めて強調、“二重国籍”問題で:TBS Newsi

国籍選択届けについてのサジェスチョン

一番じゃなきゃダメですか?:蓮舫 著

*1:台北駐日經濟文化代表處の担当者に問い合わせたところ、このような回答をいただいた

【書評】『ゲノム編集の衝撃 「神の領域」に迫るテクノロジー』 来るべき未来に備えて正しい理解を

ゲノム編集の衝撃―「神の領域」に迫るテクノロジー:NHK「ゲノム編集」取材班 著


「今、もっともエキサイティングなバイオテクノロジーは何か」。この質問に対し、多くの生命科学者は次のように答えるだろう。「それはゲノム編集だ」、と。本書は、ゲノム編集がどのような技術で、この技術がいかに未来を変えうるかについて解説した良書である。


ゲノム編集とは、遺伝子の本体であるDNAの狙った位置を切り貼りするなどして「編集」し、その生物のすべての遺伝情報、すなわちゲノムを改変する技術である。ゲノム編集により、有用な農作物の作出や、遺伝性疾患の治療ができるようになると期待されている。ゲノム編集技術のひとつであるCRISPR/Cas9(クリスパー・キャスナイン)システムの確立により、この技術が爆発的に普及するようになった。


以前、むしブロでゲノム編集について解説した記事を公開したところ、大きな反響があった。ただ、これまでに国内で出版されたゲノム編集関連の書籍は研究者向けのものばかりで、一般向けに書かれた入門書のような存在は皆無だった。本書は生物学についての専門知識がなくても容易に読み進められるように書かれており、ゲノム編集を「いろは」から知りたい読者にとって良好な解説書となっている。


入門書といっても、書かれている内容は本格的だ。国内外の専門家たちへの丹念なインタビューからは、ゲノム編集技術についての具体的な最新の研究例を知ることができる。とくに巻末に掲載された広島大学の山本卓教授による Q&A形式の解説では、最先端のゲノム編集研究の動向がうまくまとめられている。


ここで、本書で紹介されているゲノム編集の応用例をいくつか紹介しよう。まずは、家畜への応用。もし一頭あたりの食肉用家畜の筋肉を増量することができれば、資源をより効率的に生産することができる。現在、この目的でゲノム編集技術を用い、筋肉が増量したマダイやウシの作製が進められている。


筋肉が増量したこのような家畜は、ミオスタチン遺伝子をゲノム編集で破壊することによって作り出される。ミオスタチン遺伝子がコードするミオスタチンタンパク質は、筋肉細胞を適切な数に抑える役割がある。ミオスタチン遺伝子が破壊されれば、ミオスタチンタンパク質が作られず、抑制が効かなくなる。よって、筋肉の細胞数が正常の場合よりも増加するわけだ。


また、ゲノム編集技術の医療方面への応用例のひとつとして、疾患モデル動物の作製がある。現在まで、医学研究で用いられる疾患モデル動物としてはマウスが主流だ。特定の疾患をもつマウスを遺伝子ノックアウト技術で作り出し研究することで、ヒトへの治療法を探ることができる。だが、マウスとヒトでは生理学的特性が異なる部分もあり、マウスで得られた知見がヒトでも一致するとは限らない。


そこで開発されつつあるのが、マウスよりもヒトに近い、サルの疾患モデルの作製である。遺伝子ノックアウト技術では、サルに対して遺伝子改変を行うことが困難だった。だが、ゲノム編集はサルの遺伝子を改変することができる。国内でも、実際にゲノム編集を使って、免疫不全のコモンマーモセットというサルの作製に成功している。本書では、この他にもゲノム編集の応用例が多岐に渡って紹介されている。


ところで、本書はNHKの「ゲノム編集取材班」により製作され2015年夏に放映されたNHK『クローズアップ現代』の「“いのち”を変える新技術 ~ゲノム編集最前線~」の内容が土台となって書籍化されたものである。だが、番組の放映から一年後に出版された本書には、ゲノム編集の新技術や、各国政府と研究者コミュニティによる本技術への見解など、多くの新情報が追加されている。ゲノム編集は文字通り日進月歩の技術であり、この技術に対する社会の反応も刻一刻と変わり続けているのだ。


ゲノム編集技術はヒトへの応用も可能だ。機能拡張のために好ましい性質を持った子ども「デザイナーベイビー」の設計にもつながりうる。このため、ゲノム編集については生命倫理の議論を避けて通れない。ゲノム編集に対して、漠然とした不安や恐怖を抱く人もいるだろう。ゲノム編集について冷静な議論を進めるためには、この技術への正確な理解が不可欠である。本書のような媒体が、少しでも多くの人に届くことを願う。


ヒトの遺伝子改変はどこまで許されるのか ゲノム編集の光と影 (イースト新書Q)

ヒトの遺伝子改変はどこまで許されるのか ゲノム編集の光と影 (イースト新書Q)

ヒトの遺伝子改変について、生命倫理学の専門家による深い洞察が記された一冊。クマムシ博士のレビューはこちら。

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生物学の知識がある研究畑の人にはこちらもおすすめ。


実験医学 2014年7月号 Vol.32 No.11 ゲノム編集法の新常識! CRISPR/Casが生命科学を加速する


今すぐ始めるゲノム編集〜TALEN&CRISPR/Cas9の必須知識と実験プロトコール (実験医学別冊 最強のステップUPシリーズ)


※本記事は書評サイトHONZに寄稿したものです


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【書評】松尾芭蕉マニアもいる?!等身大の北朝鮮がみえてくる『実録・北の三叉路』

実録・北の三叉路:安宿 緑 著


本書は北朝鮮系の人々を描いたノンフィクションである。北朝鮮、といっても、日頃の報道番組が扱うような、政治的な話にフォーカスしたものではない。スポットライトが当てられているのは、北朝鮮に暮らしていたり、北朝鮮にルーツをもつ、いたって普通の人たちだ。ふだん知られることのない彼らの日常が、本書では実にいきいきと語られている。


ベールに包まれている北朝鮮系の人々にアクセスし、取材をすることは容易ではない。本書が日の目を見たのは、著者の生い立ちと経歴によるところが大きい。
本書の著者は朝鮮北部の父と在日韓国人2世の母をもつ、いわゆる在日コリアンである。日本の朝鮮学校に通い、あの朝鮮総聯で働いていたこともある。北朝鮮に親類がいるため、90年代から訪朝を繰り返し、現地の人々との交流も続けてきた。現在は日本で雑誌のライターをしつつ、北朝鮮情報を自身のブログで発信している。著者のどこかとぼけた筆致のせいだろうか、やや深刻な話題であってもなぜか笑いを誘ってしまうことも。


朝鮮学校時代の著者は、使命感に燃えて朝鮮労働党員になる夢を抱く。だが、著者のようなタイプの生徒は稀で、クラスメメイトはいわゆるヤンキーが多く、「祖国愛」に拒否反応を示すタイプが大半だったという。著者はそのままの調子で模範生として成長し、朝鮮総聯にも務めることになる。


朝鮮総聯在任中のある日、拉致被害者が帰国することになった。それまで「いない」と信じ込んでいた拉致被害者の存在を突きつけられた、著者を含む朝鮮総聯関係者。当時の彼らの反応も実に生々しく、人間らしさが漂う。

北朝鮮に住む中学生、案内人、軍人など、さまざまな人々と交流したエピソードも、写真とともに紹介されている。笑顔でおどけている北朝鮮人の姿は、それだけで新鮮に感じてしまう。これも私たちがふだん、ネガティブ一色の北朝鮮報道に馴れきっているためだろう。


北朝鮮に住んでいる一般人が日本をどのように思っているのかも興味深い。北朝鮮は国家をあげて日本を敵対視しときに激しく罵倒するが、一般市民が日本のことを深く憎しんでいたりすることはないようだ。むしろ、日本製品や日本食が好きだったり、ポジティブなイメージすらあるという。松尾芭蕉マニアの作家もいるくらいだ。


ただ全体的には、北朝鮮人は日本に対してそれほど高い関心はないらしい。その一方で、韓国の話題になると皆すごい形相になるという。隣国に対する高いライバル意識がうかがえる。


本書を読み終えた後には、北朝鮮という国が単なる記号ではなく、そこに暮らす、私たちとかわらない普通の人々が一体となったひとつのコミュニティーであるという、当たり前のことに気づかせてくれる。マスメディアでは知ることのできない北朝鮮を知りたい人に、本書を強くおすすめしたい。


BBCが行った世論調査によると、2012年時点で北朝鮮に対してポジティブな印象をもつ日本人の割合はわずか1パーセントだったのに対し、ネガティブな印象ををもつ割合は88パーセントだった(日本を除く21カ国の北朝鮮への印象は、ポジティブ19パーセントに対してネガティブ49パーセント)。依然として、日朝の間に横たわる溝は深い。国単位の外交だけではなく、市民ベースでの相互理解が、両国の関係改善につながるのだろう。


※本記事は書評サイトHONZに寄稿したものです

【書評】我々は特別な存在か。宇宙的バランス感覚を養う一冊『生命の星の条件を探る』

生命の星の条件を探る:阿部 豊 著


生命の星、地球。都会のようなコンクリートジャングルにおいても雑草が茂り、アリたちが闊歩する。足下をふと見れば道路の片隅にコケが生育していて、そのコケの中にはクマムシがいる。朝晩の電車に乗り込めば、無数のホモ・サピエンスと接触する。生物はそこに居て当然。そんな風に私たちは感じてしまう。だが、地球以外の天体に由来する生命体は、現在までまだ見つかっていない。はたして、生命を育んでいる惑星は、この広い宇宙で地球だけなのだろうか。


生命体が棲息する環境がどのようなものかを考えるとき、もっとも参考になるのは、私たちを育んでいるこの地球の環境である。ある惑星が地球と同じような環境であれば、そこには生命体が居てもおかしくない。もちろん、地球型の生命体とはまったく異なるタイプの生命体も、宇宙のどこかにいるかもしれない。だが、そのような生命体はあくまで空想上の産物にすぎず、実際の探査や検出を行なおうにも、その手段がない。地球生命体という格好のお手本がここにある以上、同じタイプの生命体がいそうな環境を推定するのが合理的である。


生命が棲めるような環境範囲をハビタブル・ゾーンとよぶ。これは具体的には、「液体の水」が存在できる環境範囲のことである。液体の水がある星は、どのような条件を備えているのだろうか。これこそが、本書のテーマである。本書の著者である東京大学理学系研究科の阿部豊准教授は、なぜ地球が生命を培う惑星となったのかを、多角的な視点で検証している。地球の成り立ちにかかわる役者がリレーのように登場し、本書は一冊が壮大なミステリー小説の様相を呈している。


本書を通してわかるのは、我々が想像する以上に、地球が絶妙なバランスで成立してきたということだ。微惑星や原始惑星どうしの衝突を繰り返し、46億年前に地球ができあがったと考えられている。このときに地球が水を獲得できたことが、生命の惑星となるための最初のステップである。太陽からの距離も、地球表面の水が液体で存在できる範囲内に、ちょうどおさまっている。さらに、地球のサイズが適度に大きかったため、重力により大気をとどめておけたのも幸運だった。


太陽からの距離が同じだとしても、もし太陽が現在よりも大きすぎたり小さすぎたりすれば、太陽放射の強度が変化して地球上に液体の水が維持されなかったかもしれない。地球が小さすぎれば大気は宇宙空間へと逃げてゆき、温室効果が失われて凍てつく惑星となってしまうだろう。また、太陽系の他の惑星が今よりも大きければ、重力の影響で地球が太陽系からはじき飛ばされていた可能性もある。とてもではないが、生命が生まれるような惑星にはなっていなかった。


さらに意外なことに、地球上が水一面で覆われていても、生命にとって不都合な環境になるという。


二酸化炭素は温室効果ガスとして地表を暖める効果があるが、この二酸化炭素の循環もほどよい具合に保たれている。火山活動により地中内部から大気に放出される二酸化炭素と、大気中から炭酸塩に固定される二酸化炭素が釣り合っているのだ。地表を現在の気温に維持するのに重要な働きを担うのが大陸の存在であると、著者は主張する。もしも地球に陸地がなく、一面が海に覆われていたとしよう。大気中の二酸化炭素は陸地で炭酸塩に固定されるため、大陸がなければ地中から放出されて大気にとどまる二酸化炭素の量が増え、温室効果により気温は60〜80ºCになるかもしれないという。現存の微生物の中にはこのくらいの温度でも生きられるものもいるが、少なくともヒトが生きられるような環境ではない。


現在の地球は、この惑星の内外の奇跡的なバランスのもとに成立し、我々はおだやかな環境の恵みを享受できているのだ。だが、著者は地球を「奇跡の星」と呼びたくないという。たしかに、銀河系だけでも恒星が1000億個あると言われており、確率論でいえば生命を育む惑星が存在しないほうが不思議である。もっと言えば、知的生命体を宿す惑星だって存在しうる。ケプラー宇宙望遠鏡の活躍により、太陽系の外にある系外惑星の発見も相次いでいる。観測技術の発展により、実際に液体の水を有する惑星が近いうちに発見されるかもしれない。いや、その前に、木星の衛星エウロパや土星の衛星エンセラドゥスへの探査で生命体が見つかるのが早いだろうか。地球外生命体をめぐるロマンは尽きない。


ところで、この地球とて、いつまでも我々にとって都合のよい惑星であり続けることはできない。10億年後には太陽の温度が上昇し、地球への太陽放射が10〜15%増大することが予想されている。そうなれば地球上の温度はなんと1000ºCを超える高温になってしまう。太陽とのバランスが少し崩れることで、この生命の星もいずれは終焉を迎えるのである。こうして宇宙に思いを馳せながら読書を愉しみHONZにレビューを書けるのも、いまの地球がハビタブル・ゾーンにあるからこそ・・・。なんだか感慨深くなってしまった。いずれにしても、本書は宇宙的バランス感覚を養うのに絶好の一冊である。


地球外生命を求めて:マーク・カウフマン 著


人類による地球外生命体探索のこれまでを綴った良書。宇宙生物学者への取材も豊富になされており、臨場感が伝わってくる。


生命はなぜ生まれたのか―地球生物の起源の謎に迫る:高井 研 著


こちらは微生物学者による生命の起源についての考察。最近、この著者はエンセラドゥスへの探査も画策しているようだ。


※本記事は書評サイトHONZに寄稿したものです